血啜りの祭壇
ノットリード郊外にある聖ウィニフレッド大教会。
近隣にある主要な十二の巡礼地の終着点であり、ノットリード最古の唯一神の教会である。
何度も改築を繰り返した聖堂の地下には、イグニシアの教えが初めてこの地に伝えられた時代の遺構が残っている。
私と二匹の幻獣は、聖ウィニフレッド大教会の地下二階の最奥部にいた。
晩餐会の後、私達はこっそりと〈水の宮殿〉を抜け出し、この場所にやってきたのだ。
壁の向こうから微かな水音が聞こえてくる。
きっと、どこかに地下水路が流れているのだろう。
その空間は石灰岩をくり抜いて作られていた。
大人が立って入れる程度の高さで、天井は丸いアーチを描いている。
空洞の奥には、太陽と天使の浮き彫りが刻まれた四角い大理石の祭壇があった。
私の横には男装姿のパリューグとぬいぐるみサイズのティルナノグが並ぶ。
ティルナノグが手にした松明によって照らし出されたその祭壇は、ごく普通の一般的なイグニシア祭式の祭壇に見えた。
背負っていた大きな麻袋を下ろし、パリューグは口を開いた。
「わざわざ付いてきてもらって申し訳ないわね」
「気にしないで。お互い様だもの」
『お前が遊び回っていただけではない事を確認せねばならないしな。
俺達を連れてきたからには、何らかの成果があったのだろう?』
「成果ね……できれば、成果なんて見付からない方がありがたいのだけど」
『む? おかしな言い回しを使うではないか。
お前は何か見せたいものがあったから俺達を呼んだのではないのか?』
ティルナノグの指摘にパリューグは目を細めて笑う。
どこかしら獰猛な微笑み。
「残念ながら、ここには何もないか、或いはできれば誰の目にも触れさせたくないものしかないわ」
『ふむ、つまり存在してはならないものの有無を確認するのが目的なのだな』
「ご名答。できれば妾の思い過ごしであって欲しいのだけどね」
パリューグは祭壇を一瞥した。
何の変哲も無い普通の祭壇なのに。
「一人で確認するのは不可能か、そうでなければ危険なものなのかしら?」
「その通りよ。もし本当にそれが存在するのならば、妾もあなた達も触れるべきではない。
しかし、やむを得ず確認する必要があるならば……西には便利な技術があるでしょう?」
そう言って、パリューグはティルナノグに運ばせていた土嚢を指差す。
なるほど。危険なことはゴーレムに代行させようという発想か。
ティルナノグは土嚢を開いて床の上に土をぶちまけ、大雑把に人の形を作る。
私はアセイミナイフを取り出し、ゴーレムに組み込む核に七十二文字の魔法文字を刻んだ。
試射場で作った棒立ちのゴーレムとは違い、きちんとした動作制御も組み込む。
息を吹きかけると、頭部の無い人型の土塊ゴーレムが立ち上がる。
そのままでは緩慢な動作しか出来ないので、虚ろな胴体の中に動力源として松明の一部を投げ込んだ。
これで松明が燃えている間は多少機敏になり、そこそこの力仕事も可能になる。
「これで良いかしら?」
「ええ、十分過ぎるわ。ここからは妾の指示通りに動かしてちょうだい」
パリューグは満足そうに頷くと、背負った袋からいくつかの物品を取り出す。
七つに枝分かれした古い黄金の燭台。
蜜蝋でできた七本の蝋燭。
革ベルトの持ち手が付いた銀製のハンドベル。
そして、数枚の栞を挟んだボロボロの冊子本。
「汝、死の領域に踏み込まんとする者は心せよ。
穢れのとば口は既に汝の前に開きたり。
第一に、七支の灯火を点し、見えざる闇を照らすべし」
地の底にパリューグの唱える詩文が響く。
私はゴーレムに命じ、燭台に立てた蝋燭に火を点させた。
パリューグの合図でティルナノグが握りつぶすように松明の火を消す。
蝋燭の七つの炎が、不気味に揺れる無頭のゴーレムの影を天井に映し出した。
「第二に、銀のベルを鳴らし、その彼方に向かいて呼ばわるべし」
ゴーレムがハンドベルを手に取り、数度揺らした。
涼やかなはずの音色が、冷たく響き渡る。
いつの間にか、壁の向こうから聞こえ続けていた水音が聞こえなくなっていた。
元々ひんやりしていた部屋の温度が更に下がったように感じ、私は自分の体を抱く。
「第三に、彼を讃えし冒涜の言葉を唱えるべし。
心せよ、もはや汝は陽光の下に帰ることは叶わず。
──汝は既に死の領域にあり」
ゴーレムが冊子本を手に取る。
同時に、パリューグは私達を数歩下がらせた。
栞の挟まれた頁が開かれた瞬間、ゴーレムの胸元から何かの軋む音が響いた。
人間で言うと鎖骨のある辺りが真横に引き裂け、口のような形になる。
発声器官を備えていないはずのゴーレムの開口部から、蝦蟇の声に似た低音が漏れ出して空気を震わせる。
『イ、今──、御身ヲ敬禮シ奉ル……オオ、鮮血ノ主ヨ……。
御身ハ霊廟ノ主ニシテ、夜ト暗黒トノ君ナリ──。
我ハ御前ニ来タリ──コレ純潔ナル魂ナレバナリ──。
其ノ諸手ハ我ノ背後ニアリ、シカシテ御身ノ掌中ニハ我ガ命運ヲ有ス。
オオ、願ワクバ、語リ得ルダケノ我ガ口ヲ、我ニ与エタまえ──』
ゴーレムは既に自ら呼吸し、私の制御を離れてひとりでに動いていた。
もはや未知の怪物に変異しかけた、かつてはゴーレムであったものが、祭壇に向かってひざまづく。
祭壇の方にも変化は起きていた。
何もない空間から滲み出すように、一筋、また一筋と大理石の表面に血液が付着していく。
それは祭壇に載った目に見えない供物が切り刻まれているかのようにも見えた。
『今ここに矮小なる我は、御身を敬禮し奉る。
尊き悪徳の神よ、昏き地の墳墓に住まう永遠の君よ。
皮と肉の舟に乗りて永劫の時渡る、多種多像なる者よ。
おお、闇夜覆う遍く地の王よ、偉大なるその名は──』
いつの間にかゴーレムは人間と大差ないくらい流暢に喋っていた。
ゴーレムの核の周囲の土塊は盛り上がり、ぐねぐねと動いて核を取り込もうとする。
核に刻まれた真理の文字が変異した土塊に取り込まれる寸前、パリューグが赤熱した爪を一振りした。
間一髪、死を与えられたゴーレムは再び元の土塊に戻り、がらがらと崩れ落ちる。
『む……!?』
「これは……いったい……」
「待ちなさい。まだ終わってはいないわ」
パリューグが私達を手で制する。
彼女の言う通り、儀式の実行者であるゴーレムが破壊された後も、祭壇の変化は続いていた。
生贄のナイフは何度振り下ろされたのだろう。
不可視の供物の血が祭壇を濡らしていく。
不意に血に濡れた何かが転げ落ちたかのように、祭壇から床へと血の痕が続いた。
ぺたり、と床についた痕を見て、私はぞっとする。
それはどう見ても、人間の手形に見えた。
振り下ろされた見えざるナイフがその人物の命を刈り取り、手形は新たに流れ出した血によって掻き消された。
それから更に数人の血が流され、祭壇を完全に鮮血が覆いきったところで、怪異は停止した。
狭い地下室の中には、むせ返るような血の匂いが充満していた。
『十二人……か』
「祭壇の数も十二よ。祭壇一つにつき、一人殺されている。
残念ながら、予想は当たっていたみたいだわ。
それも、最悪な中でも一番悪い予想が」
パリューグは今にも見えざる殺人者に噛み付きそうな笑顔を浮かべていた。
その表情だけで、彼女がかなりの怒りを胸の内に抱えているのがよく分かる。
「まさか、何のために十二人も殺したって言うの?」
「祭壇の祭式や権限を書き換えたかったのでしょうね。
異なる神のための供物を捧げられたこれは、既に我が神の祭壇ではなくなってしまった。
この祭壇に繋がる他の十一の祭壇も根こそぎ書き替わっているはずよ」
『そうやって、お前達から力をかすめ取っていたのだな。
ふむ。そうすると現在信仰の力が海にばらまかれているのは、偽装工作か』
「ええ、お陰で気づくのがこんなにも遅れてしまったわ。
この誰かさんは、よっぽど妾達に見付かりたくなかったようね」
ティルナノグはちらりとパリューグの方に視線を投げる。
そう言えば、彼女はそのせいで瀕死になるまで力が枯渇してしまっていたのだった。
面甲の奥から苛立たしげにゴリゴリと牙を噛み合わせる音がする。
彼も喧嘩友達の境遇に対して思うところがあるのだろう。
『何者の仕業か知らないが、悪趣味なことをする。
こっそりと他者の命を吸い取り、発覚したとしても相手に痛手を与える。
知らずに秘密を暴けば、浸食され、取り込まれていた可能性もあるのだからな』
「ええ、それが奴らの……血啜り達の手口よ」
ヴァンパイア。
その言葉を耳にして、私の背に怖気が走った。
原作ゲームの最悪のバッドエンドの情報が、脳裏に去来する。
大地を覆う屍の山、その上で交わされる血塗られた口付け。
キャスケティアの最後の王と同じ、カインという名の隠れた人物。
『滅びた古い王国の生き残りか、それとも、血啜りどもの力や知識に魅入られた狂信者か』
「狂信者だったとしても、ここまで血啜り由来の力と知恵を持っているなら捨て置けないわ」
パリューグは一度言葉を切って、私の方を見つめた。
その瞳には、強固な決意を秘められている。
「エーリカ、妾に自由に動ける時間をちょうだい。
あなたの神託について手助けをする合間でいい。
たとえ生き残りの天使が妾一人でも、この敵だけは滅ぼさなくてはならないわ」
私はパリューグの視線を受け止め、静かに首を振った。
彼女の瞳が、動揺で小さく揺れる。
「そうね。妾はもう天使ではなく、あなたの下僕だものね。
勝手な行動で余計な危機を呼び込んでしまっては──」
「そうじゃなくて、一人では手が足りないでしょう? もっとたくさんの人手や物資が必要よ」
私の答えに、パリューグはしばし呆然としていた。
静まり返った地下祭壇の間に、ティルナノグの笑い声が響く。
『クククククク、面白い。それでこそ我が友だ』
「ほら、ティルもこう言っていることだし、とりあえずは三人でどうかしら」
「あ、あなた達……もう、どれだけお人好しなのよぉ〜〜!」
パリューグは何やら涙目になってそんなことを叫んだ。
言葉と裏腹に彼女は嬉しくてたまらないのだろう。
獅子の尻尾がはみ出て、ぴょこぴょこと揺れているのを見てそう思った。
実のところ、私はこの犯人に怒っていた。
生きているということが、どれだけ大変で奇跡的なことだと思っているのか。
人だって獣だって自分の居場所で懸命に立っているのに、その命を容易く奪い去るなんて理不尽だ。
それが自然の摂理や天災などでなく、明確な敵意と悪意だというのならば尚更だ。
「準備が必要だわ。吸血鬼がキャスケティアごと蘇っても、再び滅ぼせるくらいの」
目の前に現れた最大の死亡フラグの片鱗を睨み、私は決意を口にした。
ある意味無謀とも言える私の挑戦。
それに対し、ティルナノグは出来のいい生徒を褒めるような表情で、パリューグは決意を新たにした表情で、それぞれに頷いたのだった。