放蕩息子達の故郷3
私達四人は馬で河の横にある街道を並走してニーベルハイムの〈光の城〉へ向う。
跳ね橋を渡りきる時には、工房の対岸あたりから吹き上げていた炎の柱は収まりつつあった。
私達が〈光の城〉へ到着すると、なにやらこの城も騒がしくなっていた。
何人もの使用人達が慌てふためいている。
「何だ! こちらでも何かあったのか!?」
「ハロルド様! 突然中庭に血塗れの男が現れたのです」
「何だって!?」
「どうやらリーンデースの学徒のようなのですが、かなりの重傷で、意識がありません」
重傷や意識不明といった言葉に血の気が引いていく。
若い従僕の青年に話を聞きながら、彼に連れられてそのまま中庭に向う。
現在はニーベルハイム伯も伯爵夫人も不在のため、中庭では壮年の執事が指揮をとっていた。
中庭の中央に、応急手当を受けている学徒姿の人物が横たわっていた。
雨が降っていたわけでもないのに、彼の周囲の芝生からは湿った感触がした。
濃厚な血の匂いと、焼け付いた肉の匂い。
私は思わずその人に駆け寄り、血に濡れるのも構わずその傍らで跪いた。
左頬から左肩にかけて皮膚が広範囲に焼け爛れ、脇腹には何かの破片が突き刺さっている。
見覚えのある制服に、高熱で溶けかけた朱鷺の印。
痛ましい火傷に覆われたその人の顔は、私のよく知っている人のものだった。
「アクトリアス先生……!!」
「昨日会った学徒の人じゃないか! なんでこんなことに!?」
アクトリアス先生の目が微かに開き、エーリカ様、と唇を動かしたようにみえた。
私が手を取ると、彼は掠れた声を絞り出す。
「……解……失敗……が、発動を。……市の、人々……難を……」
幾つかの言葉を伝えると、アクトリアス先生は力なく頽れる。
ずるりと彼の手が地面に落ちた。
アクトリアス先生はまるで死体のように微動だにしない。
「先生、先生!!」
「大丈夫、息はあります。出血のせいで気を失ったようです。あとは医術師にお任せを」
取り乱しかけた私を落ち着かせるように、執事がアクトリアス先生の脈を確認しながら言った。
ちょうど担架を担いだ従僕たちを引き連れて、医術師がやってくる。
私達はアクトリアス先生が運ばれて行くのを、ただ見ているしかなかった。
「心配だし、可哀相だけど、俺たちには見守る事しか出来ないよ……」
ハロルドが私の裾を引っ張りながら申し訳無さそうにそう言った。
ふと足元に眼鏡が落ちていることに気がつく。
アクトリアス先生のだ。
運び出す時に外れて落ちてしまったのだろう。
その眼鏡のレンズはひび割れていて血塗れだった。
拾わなきゃ、と思ったのに私は体が動かせなかった。
『エーリカよ、おそらくあの遺跡の魔法、まだ停止してはいないようだぞ。
上空の異様な魔力の気配が、先ほどから飛躍的に増大していくのを感じる』
ティルナノグの囁きで私はなんとかショックから立ち直る。
今は混乱したり弱っているような余裕のある時ではないみたいだ。
気を確かに持たなければ。
そう言えば、アクトリアス先生は何と言おうとしていた?
解除、あるいは解体に失敗し、何か危険な魔法が発動してしまった。
ノットリード市内の人々に避難を勧告しなければ。
ティルナノグの知覚した上空の魔力の状況を合わせて考えると、こんな感じだろうか。
動けないアクトリアス先生に代わって、彼が言わんとしていたことを伝えなくてはならない。
「先生は、避難が必要だって言っていたみたいだったわ。
あの遺跡ではまだ危険な魔法が稼働していて、第二第三の暴発があり得るのではないかしら。
しかも、都市に被害が及ぶような、大規模なものが」
私はティルナノグ、オーギュスト、ハロルドの順番に目を合わせていく。
この不穏な事態を理解したハロルドは目を見開き、オーギュストは眉根を寄せた。
『ならばあの遺跡を調べるべきだろう。魔法の規模が不明なままでは避難のために動けまい』
「でも、あんな遺跡にはもう近づけないだろ!?
あ、いや、待てよ……うちの塔からなら、遺跡ごと見渡せるかも!」
「ええ、案内してちょうだい、ハロルド」
私達は、ハロルドに連れられて塔の階段を駆け上がる。
走り続けていると息が苦しくなり、口の中に血の味のようなものを感じる。
でも、今は多分休んでいる暇なんて無い。
そうして、塔の最上部に辿り着き、荒い息でまわりを見渡す。
西に傾きかけた太陽が水平線の向こうに沈んでいくのが見えた。
空は緩やかに濃藍から橙色へのグラデーションを描き、雲は桃色に染まっていく。
視線を地上へ下ろすと、運河によって複雑な模様を刻まれた街が見える。
「遺跡はあっちだよ、ちょうどあの煙が上がってるのがそうじゃないかな」
「ちょっと待ってくれ……うん、延焼はしていない。ほぼ鎮火しているみたいだ」
ハロルドが指した方向にオーギュストが目を凝らす。
竜と同調して多角的に観測したのだろう。
地上部の被害は治まっているとしても、危険なのが目に見える範囲だけとは限らない。
私は呼吸を整えながら、ハロルドやオーギュストにも霊視の魔眼の杖を使った。
「えっ、な……なんだよ、これ……!」
魔眼によって明らかになった光景を見て、ハロルドが思わず叫び声をあげる。
誰かが思わず息を呑む音が聞こえた。
ノットリードの上空に、小さな炎がいくつも浮かんでいるのが見えた。
眼を凝らして見ると、それは紅い炎で空中に描かれた魔法文字のようだった。
紅い炎で出来た文字はどんどん分裂増殖して帯のように連なり、幾重もの魔法陣を形成していく。
霊視の魔眼によると、その巨大な魔法構造体は、信じられないことにまだ起動準備段階であるらしい。
ノットリードの上空に揺らめく、未だこの世のものならざる、幻想の炎。
脳裏に浮かぶのは買い求めた説話集の挿絵だった。
藍色の空に浮かぶ真っ赤な剣。
しかし、目の前に浮かぶそれはもう剣などというモノには見えない大きさだった。
薄紫の空に、十六本の逆さまに浮かぶ赤い巨大な塔。
不謹慎にも私にはそれが逆さまに空に浮かぶ夜の東京タワーに見えた。
黄昏の街。
徐々に紫から藍に染まりきる空に、深紅に輝く〈炎の魔剣〉が顕現しようとしている。
「ただ事ではないな。何が起ころうとしているんだ」
「〈炎の魔剣〉だ……」
オーギュストの問いかけに、ハロルドの暗く沈んだ声が返ってきた。
思わず私はハロルドの方を振り返る。
そう言ったハロルドの深緑の瞳は恐怖に染まっていた。
「この地に伝わる言い伝えなんだ……西北の地に落ちた災厄〈炎の魔剣〉。
大昔、この土地を欲しがった北の王子から、西の王弟が己とこの地を守るために敷いた天上の業火だ。
王弟は大人しく引き下がらなければ、あの業火が敵も味方ももろともに滅ぼすだろうと警告した。
強欲な王子は、自分の物にならないのなら滅びてしまえと、王弟の首を刎ねた。
その結果、焼け爛れた溶岩が降り注ぎ、ほんの数分間で西北部を灼き尽くしたっていう話があってさ」
私が本で読んだ話とは細かに異なる伝説だった。
ハロルドが父や母から聞いた言い伝えなのだろう。
「その災厄は、この地の全てを滅ぼすんだ」
そのハロルドの言葉に全員が沈黙する。
これから目前で災厄が起ころうとしてるというのに、私は何も出来ずに呆然としていた。
どうすればいい?
何をする事が可能だ?
今ここで何も出来なかったら、あの街に何が起こる?
窓から見えた、吹き上げる炎の柱。
焼け爛れた皮膚と血に塗れた眼鏡が脳裏に浮かぶ。
詳細に考えれば考えるほど、私の心臓は鼓動が早くなっていく。
お父様は?
パリューグは?
ニーベルハイム伯とギルベルトは?
街の人達は?
みんなあの魔法の下にいるのに?
考えれば考えるほど悪いことばかり思い浮かんでしまってどんどん苦しくなっていった。
私だけでなく、その場いた全員が目前の世界がこれから業火に焼かれることを想像していたのだろう。
そんな沈黙を破ったのはオーギュストだった。
「それでも……避難場所を確認後、避難勧告を行うべきだろうな。間に合うかは分からなくても」
『魔法の発動場所を調べて、都市内での逃げ場を確保出来れば助かる命もあるだろうが、しかし……』
「でも、こんな広範囲の魔法の、正確な発動場所なんてどうやったら分かるのさ……?」
「今この土地の最も高い空の上には一匹の古い竜がいる。彼女の視覚を借りて現状の確認をしてみよう」
「え……そんな事ができるの……?」
ハロルドは今ひとつ理解できていないような表情を浮かべる。
確かにあれは体験しないと分からないだろう。
「……オーギュスト様、私もご一緒出来ますか?」
「ああ、そのほうが私も助かる。魔法についてはお前の目があったほうが確かだろう」
そう言うと、オーギュストは私の手を握った。
すると速やかな感覚の共有が行われて、遥か上空の竜との視覚共有が始まる。
あっという間に私は空の上からの視点で、ノットリードの街を眺めていた。
環状運河のある街の美しい夕暮れだ。
「空に広がっている魔法にほとんどの人は気がついてないな」
「ええ、そうみたいですね」
竜の目を通すと霊視の魔眼ほどではないが、魔法の情報が浮かんでくるので、十六本の〈炎の魔剣〉がノットリードのどこに構成されているかを確認していく。
二隻の空母の上空、造船工房地帯、大倉庫街、イグニシア王兵駐屯地。
環状運河中心部、〈百貨の街〉、〈水の宮殿〉、大聖堂、ギルドホール、王の別邸、それに教会付きの施療院。
その他にもおそらくは重要地域だと思われる場所や建造物の上ばかり。
逃げ場になるような場所である広場にもことごとく直撃しそうな嫌な位置だった。
「困ったことに主な市街地に逃げ場は無さそうだ。いっそ運河に飛び込めばどうにかなるのか?」
「いえ、魔法によるあの類の炎は、ただの水では消えないでしょう」
私の視界に、とある人物が映り込む。
新型空母の上にアウレリア公爵エルンスト──お父様を見つけた。
「お父様……?」
「アウレリア公は、今日は昼過ぎから空母の艤装の視察だったはずだ。もしかしたら彼なら」
空を睨む厳しい視線。
お父様はこの異変にいち早く気がついている様子だった。
お父様のまわりに私に化けているパリューグがいる可能性に気がついて焦る。
ざっと甲板上を確認するが、見当たらない。
もしかしたら、お父様が既に避難させているのかも?
お父様に視線を戻す。
ちょうど短杖を使用したばかりらしく、緑色の光が目に集約されて吸い込まれていく。
霊視の魔眼だろう。
続けて、別の短杖を構えた。
杖の詳細は分からない。
お父様はその杖を重々しく振り上げて、ちょうど旧型空母の上に展開しかけていた〈炎の魔剣〉に魔法を放つ。
白色の光が赤い〈炎の魔剣〉を拘束するように何連も構築され展開する。
解呪だ。
真っ赤で巨大な魔法構造物がいっそう強く輝き出した。
逆さまにした深紅の塔みたいなモノが一瞬にして崩れた型で実体化すると同時に、どろりと溶け落ちていく。
魔法を解体してもダメってこと?
膨大な質量の溶岩の赤い雫が旧型の空母に降り注ぐ。
溶岩の直撃をうけた旧型空母は船艙に穴が空いたのか徐々に沈み込んでいった。
しかし不意に旧型空母の周囲の海面が凍っていく。
おそらくお父様が凍結系の短杖を使ったのだろう。
被害は旧型空母のみで収まりそうだ。
お父様は周囲にいる人々に指示を与え、避難と救助の指揮に立っている。
ここまで見て、私は酷い眼精疲労に似た感覚に襲われてよろめく。
視覚共有の限界を感じてオーギュストから手を放した。
「さっきのは何が起こってたんだ……?」
ハロルドが不安そうな表情で問う。
「お父様が、魔法解体を使って〈炎の魔剣〉に干渉したんだけどダメだったの」
「それって」
「……打つ手無しってことだと思うわ」
「どうして!? 解体出来ない魔法なんておかしいだろ!?」
『魔法を解体するために干渉したら、それがどのような魔法であろうがその場で具現化して崩壊するのだろう。
すべての因果と空間に細工がしてある。あれがこの世に顕現するのを止めるのはほぼ不可能だろうな』
ティルナノグの説明に、ハロルドは絶句する。
オーギュストは辛そうな表情で俯く。
あの兵器がこの世に現れることを止められなければ、その剣の下にいる人々がどうなるのか。
あのノットリードの街の人々がどうなるのか。
多少の想像力があれば容易く分かる、沢山の死。
ハロルドが虚ろな瞳で言う。
「今日から全てが上手く行くはずだったのに、今日から全てが始まるはずだったのに」
彼の父親は今、あの街で希望を繋ごうとしているはずだ。
没落の窮地から一転して、起死回生の一手を打てるはずの日だったんだ。
世慣れているくせに臆病なギルベルトは、やっと父親に会いに行けたのだ。
お互いに大事に思っていたのに何年も仲違いしていた二人が、ようやく仲直りして長話をしてる日だったんだ。
このままで良いのか?
いや、良いわけが無い。
私は自分自身がこの理不尽な出来事に心底怒り狂っているのを感じていた。
前世も含めて、こんなに頭にきたのは人生で初めてだ。
やっとのことで幸せになろうとしている人たちが、こんなに簡単に踏みにじられるなんて、絶対に嫌だ。
そして頭の芯のほうは凍ってしまうくらい冷えきりつつあった。
凍り付くような頭蓋の密室の中で、思考だけが異様に冴え渡り始める。
それはまるで走馬灯のようだった。
私は瞳を閉じて、記憶の水底に向かって遡っていく。
ノットリードを覆う十六本の逆さまの炎の塔。
空から見下ろした環状運河の街。
ハロルドの手の中で構築されていく魔法の光。
短杖から打ち出される無数の弾丸と粉々に粉砕されるゴーレム。
〈虹の革紐〉から立ち上がった七本の虹。
アウレリアの灰色の海。
イグニシアの透きとおった海と透きとおった空。
降り注ぐ白い花弁。
何百もの竜が舞い踊る空。
赤熱する鉤爪を揮う太陽の獣。
落下する王子と白い羽根のように舞い散る軟着陸の残光。
太古の壁画に描かれた異形の太陽。
浮遊と通り抜けで駆け抜けた星水晶の遺跡。
時間を縫い止める銀色の魔法。
黒い獣から伸びる無数の死の腕。
地底に広がる幻想の海に響く慟哭。
機械式の迷宮と月光の道しるべ。
お兄様のチョコレートの甘い味。
目眩と鏡。
たくさんの書物に描かれた無数の幻の獣。
瞬いては消える星々。
まどろみの中で聞いた母の歌声。
私の記憶が破片のように砕けて頭上から降り注ぐ。
私はそれらの中から今必要なものを拾い上げて行く。
それらの要素はカチャカチャと音を立てるように組み合わさっていって一つの解を作った。
私は目をゆっくり開く。
この世界を壊させはしないという意志とともに。
「ねえ、みんな、聞いてもらえるかしら。今から協力してもらいたいの」
生気の無いハロルドに、不思議そうな表情のオーギュスト、ティルナノグが私に視線を向ける。
そして私は彼らに向って出来る限り明るい笑顔で微笑んだのだった。