秘密の工房5
ハロルドと私が〈光の城〉の中庭に到着すると、ニーベルハイム伯が書類鞄を手にして馬車に乗ろうとしているところだった。
債権者との交渉でまたノットリードへ赴くつもりだったのだろう。
ギリギリセーフ、すれ違いにならなくて良かった。
ハロルドはすぐさま馬車から降りて、ニーベルハイム伯に駆寄る。
「父さん!」
「ハル!? ……それにエーリカ様?」
ニーベルハイム伯はハロルドに意外なくらい優しげな表情を浮かべたように見えた。
彼は度重なる心労のせいか影が薄かった。
「あ、あのっ、父さん、あのね!」
「ハル、どうしたんだ、目の下に薄くクマが……。疲れ果てているようじゃないか」
「俺どうしてもやりたい事があって徹夜を……あ、いや、その、そうじゃなくて……ええっと、あの……ごめんなさい、その」
ハロルド本来の元気さが萎縮しているせいかカラ回りしているようだった。
ここまで状況は好転して来ているし、あとは伝えて了承を貰うだけなのに。
私が代わりに話を進めてしまおうと一瞬思ったけど、それじゃダメだと気がついて口を噤む。
一歩引いて待つことにした。
「相談があるんだ。あの、金策の件なんだけどさ」
ハロルドがやっと落ち着いて話し始めると、ニーベルハイム伯は彼にゆっくりと近寄る。
そして、大きくて無骨な手を伸ばして彼の息子の短い赤い髪を撫でた。
「ハル、君が色々と考えて動いてくれてるのは助かる。ただ、まだ幼い君にこれ以上苦労をかけるのは──」
「うん、子供が出しゃばっていいことじゃないって分かってるよ。でも!」
ニーベルハイム伯の言葉を遮ってハロルドが強く言った。
するとニーベルハイム伯の表情がとても真剣な物に変わる。
そして、父の表情変化を敏感に察知したハロルドが固まった。
「ご、ごめんなさい……!」
「……いや、済まない。この件で謝るべきは父さんの方だ」
ニーベルハイム伯はしゃがみ込んでハロルドときちんと目を合わせた。
伯爵はまるで神様に懺悔するように彼の息子に言葉を伝える。
「ハル、こんな時じゃないと言えないだろうから伝えておこうと思うんだ」
「どうしたんだよ、父さん」
「ハル、僕はね、ずっと君の傷痕を見るたびに後悔していたんだ。
自分の不注意で君の体を壊してしまったと、ずっと。
君と向き合うのが怖かったんだ。君は僕を怨んでいるんじゃないかと思って」
ニーベルハイム伯は一度言葉を切り、静かに深呼吸した。
「あの時、酷く傷ついた君の側に居てやれなかった。
寂しいから側に居て欲しいという君の願いを叶えてやれなかった。
治療の経過を見守ることも、トゥルム老に任せっきりにしてしまっていた」
「そんな、だって、仕方ないじゃないか、父さんはあの時、事業で忙しくて!」
「それは、ただの言い訳にしかならない。僕自身すら騙せない言い訳さ。
それでも僕は君の側に居るべきだったんだ。
少しでも時間を作って、君に会いに行くべきだった」
「父さん……」
「今回の詐欺の事もそうだ。
君が子供だろうと関係なく、ちゃんと伝えて相談するべきだったんだ。
なぜならこの領土は君が受け継ぐ故郷なんだから」
そう言って、ニーベルハイム伯はハロルドの右手を取った。
彼は息子の体を傷つけたことや、息子の受け継ぐ領土を自らの過失で失いかけていることを後悔している。
「ハル、すまなかった」
「待ってよ……何謝ってんのさ、父さん」
父の懺悔を受けてハロルドは困惑したような顔になった。
ハロルドは右手でニーベルハイム伯の手をぎゅっと握り返す。
「あんまり会えてなくても、故郷やあの街のために頑張ってる父さんのこと、俺が怨む訳ないだろ?」
まるでもっと幼い子供のような口調でハロルドは言う。
その言い方に、ニーベルハイム伯の瞳がわずかに潤む。
「俺があんな怪我を負ったのも、俺が短杖作成向きの力を持ってたからなんだ。
俺の手は奇跡の手なんだってさ。
それって、きっと運命に選ばれてただけなんだよ。
気にしないでよ、父さん。父さんの過失のせいなんかじゃない。
全てが、きっと、運命だったんだよ」
ハロルドは早口に捲し立ててから、にっこりと笑って付けたした。
「だから、俺は俺の人生に一個の後悔も怨みも無いよ」
ハロルドはどんな事があろうともそれを受け入れて生きると言っていた。
多少思い込みの激しいところはあるが、それは彼の強さだろう。
「ねえ、父さん。そして今こそ運命的な絶対の好機なんだ。だから、お願い、俺の話を聞いてよ」
ハロルドの言葉を受けて、ニーベルハイム伯はしばらく押し黙る。
彼の表情は長年の頸木から解き放たれた罪人のようだった。
その瞳は大分涙に潤んでいたのだけど、雫をこぼすことは無かった。
そしてニーベルハイム伯は静かに頷いたのだった。
「ハル……ああ、聞こう。君が寝るのも惜しんで頑張っていたことだ。きちんと聞かせてもらうよ」
ぎくしゃくとしていた彼らの空気が変わったように感じる。
やっとお互いの思いを伝えられてわだかまりが消えたのだろう。
ハロルドは丁重に木箱を開き、柘榴模様の皿を取り出す。
美しい青と白のコントラストが秋の陽光の下で鮮やかに映える。
ニーベルハイム伯はその皿を見つめ、息を飲んだ。
「これは、磁器なのか……少し前に骨董詐欺で出回った物とは全く違うようだね。
あれはもっと地の色が暖色だったが、これは本場の名品とまったく同じ輝き、いやそれ以上の質感だ。
何よりも、この青は、この大陸にはないはずのものではないのかい?」
「話せば長くなるんだけど……」
ハロルドは今まで起こった一連の奇跡的な出来事をニーベルハイム伯に説明していく。
白磁の復元に成功した錬金術師の正体がギルベルト・トゥルムで、ノットリードに帰郷していた彼と偶然出会ったこと。
質の低い銀鉱脈から出た精錬物が、実は高価な顔料に加工できる希少金属だったこと。
磁器の原材料が西北部でありきたりな砥石だったこと。
そして既にギルベルトの窯で磁器の試作品の制作までこぎ着けていること。
全ての事柄を聞き終わると、ニーベルハイム伯は当惑しているようだった。
「まさか、そんなことが起こるなんて……俄には信じがたいけど」
「ここまで揃っていて使わない手はないよ、父さん。主産業の移行を考えようよ」
「その青年がトゥルム家のギルベルト君だというのは、確実なのかい?」
「どうしても疑うなら、公証人のベルンハルトっていう人を訪ねてみてよ。今回の件で相談したときに、ギルベルトの兄貴にも同席してもらったから」
「ベルンハルト氏か……彼が身許を証明できるなら、間違いなく本物だということだね」
この西北部において豪商トゥルム家の名は絶対の信用を持っている。
生き死に不明の放蕩息子と噂されているギルベルトだろうとそれは同じだった。
更に公証人であるベルンハルトが自分の弟だと保証できるなら、それ以上の証明はない。
「だとすると、問題となるのは砥石の仕入れぐらいか」
「銀の採掘権じゃなくて、砥石の採掘権なら買えるんじゃないの?」
「それにしたって、今の懐具合では即金で購入というわけにはいかないんだよ。
今回の件で僕の信用は下がっているから、これ以上の借金も苦しい。
磁器の件を説明できれば……いや、そうなれば足元を見られてもおかしくないか」
「そんな、せっかく酸化コバルトはただで手に入るのに……」
「そうだな、希少な素材が捨ててあるなんて、そんな天文学的な奇跡が……ん? 待てよ?」
ニーベルハイム伯がそこまで言いかけて、はっとした表情を浮かべた。
「ハル、この磁器の原料の砥石、その産地はエヴィト地方で間違いないのかい?」
「え……えーと、ヴァルナリス河の上流のあの辺りだって言ってたから……うん、エヴィト地方一帯を含むはずだよ」
「奇跡だ。いや、まさにこれこそ運命と言うべきか……やったぞ、ハル!」
ニーベルハイム伯の表情がぱっと明るいものに変わる。
彼は快哉の声をあげながら、軽々とハロルドを抱え上げた。
「ど、ど、どうしちゃったの、父さん」
「ははは! 僕はなんと愚か者だったのだろう! 全ては始めから揃っていたんだ!」
「ちょっとまって、父さん! 分かるように話してよ! また俺をおいていかないでよ!」
「ああ、すまない、ハル」
ニーベルハイム伯はハロルドを下ろし、自らを落ち着かせるために一呼吸置いてから説明を始めた。
「四年ほど前、ノットリードのとある商人に、うちの銀器産業への出資を頼みに行ったことがある。
エヴィト地方の上物の砥石を大量に扱っている老舗だ。
折しも、彼は砥石を加工する際に出来るクズ石の破棄に困っていたところだった」
「え……?」
「小額でもいいから出資して頂ければ、クズ石はこちらで引き受けよう。
うちには枯れた古い廃鉱がいくつもあるから、何なら埋め尽くすまで破棄してくれて構わない。
そう申し出たら、資金提供を快諾してくれたよ。
二十年間、その業者が出したエヴィト地方の砥石クズは、全てニーベルハイムが引き受ける契約になっている。
欲しいのは砥石ではなく材料となる石材だ……ならば、砥石クズでも充分ということだよね」
「ええ〜〜〜〜!!!」
今度はハロルドと私が驚く番だった。
丁度その時に刻を知らせる鐘が鳴り響いた。
ニーベルハイム伯ははっとして顔を上げる。
「時間だ。すまない、ハル。この磁器とその鉱石の標本を借りていくよ」
「当然だよ、父さん!」
ハロルドは皿を丁寧に木箱に仕舞い、ニーベルハイム伯に渡す。
ニーベルハイム伯は待機させていた馬車に足をかけ、不意に振り返った。
「すまない、ありがとう、ハル。君は僕の誇りだ。僕の息子にはもったいないくらいだ」
そう言い残すと、ニーベルハイム伯はあっという間に城から出かけて行ってしまった。
父親が去った後、ハロルドは中庭の中央で立ちすくんだまま動かなかった。
背後にいる私には、彼が空を見つめているように見えた。
「ホント、あの人はいつも、忙しなく走って行ってさ」
「お父さんのこと?」
「ああ。俺、もっとたくさん話したいことがあるのにさ。
誇りだとか、今更そんな……そんなこと言われたら、何て言ったらいいか……わかんなく、なっちゃうじゃないか……」
か細い声で悪態をつきながら、ハロルドは鼻をすすった。
そうか、空を見てるんじゃなくて、涙がこぼれないように堪えているんだ。
私はハンカチを取り出そうとして、やめた。
ハロルドが自身に課した、泣くのは一回だけというルールのことを思い出したからだ。
嬉し泣きはノーカウントだと思うけれど、それを決めるのは本人だよね。
「大丈夫よ。きっと明日からいくらでも話せるでしょう?」
「そっか……そうだよな……」
ハロルドは堪え切れず、うずくまってしゃくり上げる。
私は彼と背中合わせになるような位置にハンカチを敷いて座った。
「エーリカ?」
「立ち話で疲れたから、休みたいの。いけないかしら?」
「いや、でも……」
「ハロルドも疲れたでしょう。少し楽にしたらいいわ」
「うん……ごめん、ありがとう……」
私の背中に、僅かにハロルドの重みがかかる。
ハロルドは言外の私の意図を汲んで、声を堪えずに泣き始めた。
私は泣き声なんて聞こえてないフリをしているので、ハロルドは好きなだけ泣けば良いのである。
ハロルドの背中に私も自分の体重を半分預け、中庭から秋空を見上げる。
その日のニーベルハイムの空はどこまでも高く、青く澄んでいるような気がした。




