坩堝通り6
〈水の宮殿〉前の小広場に辿り着いたのは、正午を過ぎた頃のことだった。
私とハロルドは正面から宮殿の門をくぐる。
宮殿内は、明日のイグニシア一行の到着に備えて、どこか緊張した雰囲気が流れていた。
ハロルドに連れられて、客間が並ぶ廊下を進んで行く。
私達が宿泊している部屋とは方向違いで、初めて見る場所だ。
トゥルム家所有の〈水の宮殿〉は五百もの部屋をもつ巨大建築だ。
だから近隣貴族の別邸代わりに、催し事や商談で滞在するための客室を常時用意しているのさ。
ハロルドはそう説明してくれた。
だんだん、どこをどう歩いたか分からなくなってきた。
そんなとき、白いドアの前でやっとハロルドが立ち止まる。
「ここなの?」
「ああ、父さんが借りてる部屋さ。
ここにいなければ、まあ、虱潰しに商売相手の部屋を回ってみるさ」
ハロルドはノックするが早いか、すぐさま重そうなドアを開けて入り込む。
「父さん、いる? 話があるんだよ!」
ニーベルハイム伯はいきなりの息子の登場に、驚きの表情を浮かべた。
ちょうど彼もどこかへ向うところだったらしい。
貴族然とした隙のない服装で、外套や書類鞄を手にしている。
「すまない、ハル。今は忙しいんだ。その用件は、後でも大丈夫かな」
「ぜんぜん大丈夫じゃない。ニーベルハイム家に関わる大問題だよ!」
「ああ、知ってるよ。まさに大問題だ」
「えっ!?」
ニーベルハイム伯とハロルドが見つめあう。
昨日と違い、内向的で地に足のついていない感じはなりを潜めている。
あれは油断させるための一種の演技だったのか、それともその方向にスイッチが入るのが錬金術に関わることだけなのか。
ニーベルハイム伯は私に視線を向け、苦悩を内に押し隠した笑顔で会釈する。
なんとなく、顔色から深い疲労を感じる。
「これはどうも、エーリカ様。息子と親しくして頂いているようで、光栄に存じます。
……そうか、ハルも彼女のお陰でこの件に気がついたんだね」
「じゃあ、父さんも?」
「ああ、アウレリア公爵と話していて、アージェン領の鉱山について話題を振ったのだけど、どうもおかしいと言うことになってね」
なるほど、交流の場でアージェン領の名前が出たのか。
どういう形で父に伝わっているのか、気になる。
「な、なら話は早いや。とっとと詐欺師を捜してもらうために──」
「詐欺師か……そうだね、もちろん、確かめてみよう。
だが、他に優先すべき用件があってだね。大事な交渉があるんだ」
「そんな悠長なこと言ってたら、詐欺師に逃げられちゃうよ!」
「ハル、僕はね、僕の事業をいろんな人に手助けしてもらっているんだ。
おいそれとは外せない席があるし、会うことを後回しにしてはならない人がいる」
ニーベルハイム伯の理屈もまた、筋は通っている。
事件の当事者が動転して、取り引き相手をないがしろにしてしまっては、信用は台無しだ。
動揺を表面に出せば、周囲は付け入る隙のある人物・危機に対処できない人物だと見る。
普段通りにすることにも、意味はあるのだ。
この事件を乗り切った後もノットリードで商取引を続けていくなら、まずは信用を保持しなければならない。
でも、ハロルドにもハロルドの、彼なりに筋の通った理屈がある。
それはニーベルハイム伯とは相反するものなのだ。
見る見るうちに、ハロルドは悲しいのか腹立たしいのか分からない表情になっていく。
「詐欺師も捕まってない状態で債権者と話したって、領地ごと持ってかれるよ!」
「大丈夫だ、まだこの話は私とアウレリア公爵の間で止まっている。
この件の出資者の皆さんとも、僕は長い付き合いをしてきた。
まずはそのうちの何人かとは話さなければ、先に進めないんだよ」
「ああ! もう! いいよ、この分からず屋!!」
ハロルドは大声で叫んで、父親との会話を打ち切る。
彼は苛立ちを叩き付けるようにドアを開け、部屋を出て行ってしまった。
私はどうすればいいか躊躇する。
ハロルドを追わなきゃいけないけれど、でも──
「エーリカ様、この度は大変なご迷惑をおかけして申し訳ありません。
しかし、この件がどのような結果になろうとも、あなたの名誉に傷はつけさせません」
「伯爵……」
「詐欺の件については、僕の方からは既に家令に手配して調査を始めております。
どうか、息子にもお伝え下さい」
「はい」
「ありがとうございます、エーリカ様」
ニーベルハイム伯は静かに頭を下げた。
見た目や言葉で誤解されやすい人なのかもしれない。
しかし、きっと彼は根本的な部分から誠実な人で、それを曲げられないのだ。
ああ、でも、迷惑とか以前の問題なんですけど。
このままでは、あなたの死亡フラグが立っちゃうんです、とは言えないのが辛い。
今だって生きた心地がしないでしょうに。
私も軽く頭を下げて、ハロルドの後を追った。
まずは彼の誤解を解いて、ニーベルハイム伯も詐欺の調査に乗り出している事を伝えなきゃ。
宮殿に散りばめられた白と金の装飾に幻惑されそうになりながら、出口まで辿り着く。
広場の隅で、ハロルドが所在無さげに立っているのを見つけた。
ハロルドは私の顔を見てバツの悪そうな顔をした。
「待っててくれたのね?」
「ごめん……あんたのこと忘れて置いてきぼりにしちゃったよ」
「いえ、大丈夫よ」
「俺、父さんを説得するどころか、自分でキレちゃったし」
「仕方ないわ。まずは店に帰りましょう」
とにかく、ギルベルトと合流しなければ。
彼の方で何か逆転のきっかけになるような収穫があるといいけれど。
二人で渡し舟に乗り込み〈坩堝通り〉へ戻る。
舟上で、ニーベルハイム伯が詐欺の調査にも乗り出していることをハロルドに伝えた。
それを聞いて、ハロルドも少しは落ち着いたようだった。
☆
トゥルム短杖店の裏口から貯蔵庫に忍び込む。
部屋の中では、ギルベルトがティルナノグと会話していた。
帰ってきた私達に気がついて、二人がこちらを向く。
「おかえり。坊ちゃんにお嬢さん」
『存外、早かったな』
「ごめんね、ティル。急に予定を変えてしまって」
『いや、この男から事情は聞いた。なにやら事態が急変したそうだな』
まずは四人でテーブルを囲み、手短に〈水の宮殿〉であったことを報告する。
話を終えたハロルドは、不安そうな顔でギルベルトに問いかけた。
「兄貴の方は、どうだった?」
「いやあ、それがな。この旦那にも話してたところなんだが……」
「その感じだと、あんまり良くない方向だったみたいだね」
ギルベルトは渋い顔で頷く。
ため息を一つ吐いて、彼は公証人ギルドで聞いてきた話を伝えてくれた。
「ニーベルハイム伯に採掘権を売ったはずの商人がいなくなったそうだ。
たった三日前の話だ。
家族や使用人ごと、一晩で消えたらしい。
よっぽど慌ててたのか、作りかけのスープも置きっぱなしでな。
十年以上前からこの街に店を構えてた、資産も信用も安定した連中だったそうなんだけどな」
まるで妖精に攫われたみたいな話だ。
なんだかすごく不吉な予感がする。
これってどう考えても、その商人って、もう……。
「まだ夜逃げの話の詳しい事情は広まっちゃいないが、ここから詐欺の話が漏れるのは時間の問題だな」
「そんな……」
「しかしなあ、これは騙されてもムリは無いぜ。
十年来の商売の相手が、まさかこんなことをするなんてなあ」
ニーベルハイム伯は信頼していた相手に裏切られたのか。
しかも、おそらくその人達を探そうとしても、もう見つからないだろう。
そして三日経っているとなると、真犯人を突き止めるのは難しいだろう。
これでは、資金の回収すらままならない。
事態は既にかなり悪い方向に転がっているみたいだ。
「契約に使われたアージェン領の権利書類は、巧妙に偽造されたものだったらしい。
おそらく、かなり腕の立つ魔法使いが絡んでる」
『では、裏にハーファンが絡んでいるのか?』
「どうかな。魔法を使うだけなら学んでさえいれば他の土地の人間にもできるからな」
『手がかりにはならないか……』
「おっと、他に借金の相手も聞いてきたぞ。
よりにもよって、ウルス辺境伯ハーラン・ルーカンラントに借りてる」
父称を用いる北の風習に従って呼ぶなら、スレイの息子ハーラン。
公式にはウルス辺境伯ハーラン・ルーカンラントと呼ばれる男。
その名前を聞いて、ハロルドの顔から更に血の気が引いた。