春の宮殿5
兄の貯蔵庫に足を踏み入れるのは初めてだった。
奇跡の部屋は錬金術師の工房であり、世界の隅々から蒐集した魔法的物質の博物陳列室でもある。
部屋の中央には作業台らしき大きな机がある。
ところどころに焦げ跡や何らかの液体が溢れた跡らしいシミが出来ていた。
大机の上には、様々な実験器具や加工器具。
ガラスの試験管、蒸留壜にバーナー、オイルランプなどが整然と並ぶ。
右手の棚には幻獣の標本が詰まっている。
とりわけ目立つのは東のハーファンから取り寄せた一角獣の角、そして南方大陸から取り寄せたバジリスクの化石。
化石標本が最も多いが、瓶入りのアルコール漬け標本も数多く納められている。
左手の棚には、ぎっしりとアウレリア産の鉱石標本が陳列されていた。
通常の鉱石だけでなく、元々魔法的な効果を持つ特殊な鉱石も集められている。
すべての標本が一定のサイズの箱や瓶に納められ、産地や特性を記述したラベルを貼られて格納されている。
几帳面な兄の性格がよく表された棚である。
これらの素材を利用して作られ、予め構築された魔法を備蓄してある数々の短杖は、正面の棚に格納されている。
短杖の入った小箱が数えられないほど積み上げられている。
これらの小箱にも、充填された魔法と素材についての詳細なメモがラベリングされていた。
同じ魔法を使える短杖でも、どの素材を使ったかで威力や効果が微妙に異なるためだ。
それらの違いを把握して、最上の魔法を引出すために日夜研究に明け暮れていたのだろう。
私の分かる範囲では、クラウスの仕掛けた幻影迷宮化を解除するような杖は無かった。
これで方針は決定した。
父やその他の大人達に助けを求めることは難しい。
ならばせめて、私がクラウスとアンを追跡しなければ。
私は貯蔵庫の片隅に整然と並んだ衣装箱を調べた。
もちろん衣装箱にもラベリングされている。
ラベルを確かめながら兄が八歳くらいの頃に利用していた衣装箱を探し出し、開けた。
掘り返すように兄の少年時代の衣類を引きずり出す。
ドレスを脱いで、それらを身につけた。
髪はリボンで後ろにまとめる。
鉱石式の銀製懐中時計を上着の胸ポケットに突っ込む。
錬金術師の革手袋をはめる。
黒革の長靴に履き替え、この部屋で見つけた最も大きい革の鞄を肩にかける。
どちらも脂で防水加工済みだ。
鞄の中に酸化防止処理済みの星水晶の欠片で作られたランプを二つ。
最も大事なのが、魔法の充填された短杖の選択だ。
霊視の魔眼の杖。
これは先ほど兄エドアルトが使っていたものと同じ。
効果の持続は三十秒ほど。
金縛りの杖。
琥珀製で、杖頭には植物性合成樹脂でコーティングされたコッカトリスの化石が使ってある。
持ち手には純銀で象られた雄鶏と蛇の彫刻。
芯材は乾燥させたバジリスクの尾だ。
効果の持続は三秒ほど。
他にも使えそうな杖を封入された魔法ごとに二、三本ずつ革鞄に詰め込む。
突風の杖。
過去視の杖。
浮遊の杖。
場所替えの杖。
軟着陸の杖。
施錠の杖。
脂の杖。
見えざる指の杖。
水上歩行の杖。
杖を見繕っていると、厳重に鍵をかけられていた杖を見つけた。
これは……航海者の歌の杖。
この杖だけは特別だ。
この杖を揮いながら特定の歌を詠唱すると、〈錬金術師の星〉が落ちるだのと言う。
〈錬金術師の星〉の魔法をもって、私たちは〈星のアウレリア〉とも呼ばれる。
強力な反面、使った時の反作用も他の杖の比ではない。
凡庸な錬金術師が身の程も弁えず使えば、一つ星を落としただけで自分の命も落とすと言う。
危険すぎて、とても私には扱えない。
操り縄を一本。
これも杖と同様の処理が施されているようだ。
一定の回数自由に操る事ができる。
瓶詰めの覆い隠す霧を一壜。
月光没食子インクを一壜。
ハーファン産の特殊鉱石で作られたインクだ。
このインクを使って書いた文字は、月の出ている間だけ月の光を放つ。
普通の没食子インクが無かったので、これで間に合わせよう。
あとは白亜の欠片。
念のためにペンと羊皮紙の切れ端をありったけ詰め込む。
蒸留酒を一壜とチョコレートの小箱一つも用心のために入れておこう。
最後にアセイミナイフを一本選んだ。
兄の貯蔵庫から出て扉を閉め、鍵を掛ける。
まずは霊視の魔眼の杖を使おう。
淡い緑の魔法陣が現れて、私の目に集束する。
魔法が効果を発揮すると、速やかに〈春の宮殿〉にかけられている幻影迷宮化の魔法についての詳細情報が現れた。
作成者は不明、実行者はクラウス・ハーファンであり、構築された時刻は今から三十分ほど前。
三十分前といえば、私がお兄様を見送った頃。
クラウスは私と入れ違いに部屋を抜け出したようだ。
魔法の有効時間は作成時から三時間から四時間。
思った通りだ。
効果時間切れを待って父やハーファン公爵に助けを求めようとしていたら、手遅れになっていた。
作成者と実行者が異なるのは、巻物から起動された魔法だからだろう。
魔法を構築しているのはクラウスの魔力と呪符だ。
この宮殿の数カ所に小さな呪符が仕掛けられているらしい。
巻物も呪符も、東のハーファンで主流の魔法である。
それぞれが設計図と増幅機のような役割だったはずだ。
起動された魔法を結界のように張り巡らされた呪符が増幅し、広大な迷宮を作り出しているらしい。
次は地下にある転送門を調べよう。
走り出した後で、兄が学園都市に向かったときの記憶が甦った。
──あれ? 一度きりの鍵で管理されているんだよね。
元のシナリオでアンが〈来航者の遺跡〉に行けたのは、どうしてだ?