太陽の沈むところ
海上にかけられた橋の上を、アウレリアの紋章をつけた馬車が駆けて行く。
満潮からさほど時が経っていないため、石畳の上には薄く海水が張っていた。
車輪に跳ね上げられた海水の飛沫は、夕陽に照らされて金色に煌めく。
馬車の窓から、パリューグは遠ざかっていく〈伝令の島〉を見つめていた。
濃い影を海に落としながら、そびえ立つ城砦のような島。
いくつもの天使の痕跡を残す島だ。
それは彼女が何百年も縫い止められていた場所。
数々の思い出が眠る場所。
彼女が帰るはずの、かつては家だった場所。
「妾はずっと忘れ去られていく運命なのよね。
それでも、今の自由は悪くないわ。
別れの感傷に浸れる程度には、妾は自由だもの」
誰に語りかけるともなしに、パリューグは呟いた。
太陽は世界の色を刻々と塗り替えながら沈み行く。
島を取り巻く海は金色に、空は炎の色に輝いている。
真っ赤な太陽が海に溶け込むその光景を、誰よりも愛おしそうに彼女は見つめていた。
「さようなら、我が神、我が王、我が民。
──さようなら、妾の王子さま」
別れを告げるその声は、甘い感傷とともに、潮風に溶けて消えた。
『大袈裟だな、猫よ』
「だってー、妾はこれから西の果てに攫われていくのよ?
オーギュストとも滅多に会えなくなっちゃうのよ。
寂しくて死んじゃいそうだわ」
金色の毛並みを持つ猫は、馬車の座席の上をジタバタと転がった。
〈伝令の島〉を出発して十数分、まだ馬車は大陸と島とを結ぶ橋の上にある。
ホームシックを患うのが早すぎる。
とは言え、新たな契約者となった私としては、幻獣の心のケアも重要かもしれない。
「あと六年我慢してね。いずれ、オーギュストとは毎日のように顔を合わせることになるから」
「え? なになに?
エーリカったら、そんなに早くオーギュストと結婚する気なの?
やったあ! その時は嫁入り道具と一緒にイグニシアに連れてってね!」
パリューグはさっきまでの無気力っぷりが嘘のように、ぴょんぴょんと飛び跳ねて喜びを表す。
ものすごい誤解をされたので、訂正しなければ。
「私もオーギュストもリーンデースの学園に入学することになっているの。
パリューグも学寮に付いてくるといいわ。
イグニシアじゃなくて申し訳ないけど」
「そうなの? でも、なんで六年も先のことが分かるのよ」
『例の神託の話だな』
「神託? なにそれ?」
私は頷いた。
一人だけ仲間はずれにする訳にはいかないし、パリューグも知っておいた方がいい。
でも、どう説明すればいいだろう。
「起こる可能性のある未来の神託を得たことがあるの。
神託の結果は、ある人物の目から見た幻視の形でもたらされる。
見える場所はリーンデースだけ、時期は六年後の短い期間だけ」
「かなり限定的な神託みたいね。
あまり役に立つことは分からないのかしら」
「そうでもないわ。
実を言うと、今回の事件も神託の情報があったから予測できたの」
『お前のような天使が潜んでいるなんて情報は、一言も含まれていなかったがな』
オーギュストが騎乗槍試合で竜から落ちる。
エーリカがそれを公然と嘲笑する。
追いつめられたオーギュストが契約の獣と融合し、騎乗能力を得る。
ゲームで得られた降臨祭の事件の情報はこれだけだった。
それが、どうしてこうなってしまったのか。
ああ、でも、そう言えば六年後の事件が「食人聖天使事件」だった。
聖天使の祝日に起こった事件だから、このシナリオタイトルなのかと思っていたけれど。
まさか本物の天使の残骸が食人事件を起こしていたとは。
「神託があったから?
たったそれだけの理由でオーギュストを助けたの?
あんなに何度も死にそうな目に遭ったのに。
あなた、どれだけお人よしなのよ」
パリューグは噛み付くように言った。
歯を剥き出しにし、怒りを露にしている。
猫の顔って、意外に表情が豊かだ。
『うーん、死にかけるのも予定外だったんだがなあ……』
「パリューグ、それにはちゃんと理由があるのよ。
オーギュストとあなたの融合を阻止しないと、私が喰い殺されてしまうの。
六年間で力を使い果たした、あなたの欠片によって」
『実際、猫には喰われそうになったからなあ』
パリューグは目を瞬かせ、ぽかんとした表情で私を見つめた。
数秒間フリーズした後、彼女はしきりに首を捻りながら口を開いた。
「それって、あなたがリーンデースの学園に入学しなければいいんじゃないの?」
『む、言われてみればその通りだな』
「二人とも、そんなことしたら、私の代わりに誰かが食べられてしまうでしょう?」
私の言葉に、ティルナノグとパリューグは顔を見合わせた。
「ねえ、やっぱりこの子って底なしの……」
『うむ。今回ばかりはお前と同意見だ』
二人は私をチラチラと見ながら、ひそひそ話をしている。
計画性がないのは分かっているので、あまり責めないで欲しい。
次は、次こそはもっと上手くやらなければ。
チクチクと刺さりそうな視線から逃れるように、私は強引に話を戻す。
「神託によると、六年後に私の死因になる事件はあと五つ。
これからも私とティルがコソコソと変な行動を取るかも知れないけど、目をつぶって欲しいの」
『俺の大事なエーリカの命に関わるからな。否とは言わさんぞ』
「うーん、そうか。そうね。そういう事情なら、仕方ないわ」
私のお願いとティルナノグの恫喝に、パリューグは何かを決意したような表情になる。
彼女はすくっと後肢だけで立ち上がり、右前肢で自分の胸をとんと叩いた。
「妾も手を貸してあげる。協力者は多い方がいいでしょ?」
「えっ! パリューグがそこまでする必要はないのよ。
せっかく命が延びたんだから、自分を大事にして欲しいの」
「妾だって、あなたと契約した幻獣なんだから、少しは頼りなさいよ。
だいぶ弱体化してしまったから、戦闘は難しいけど。
そこの蛇と違って、搦め手でも動ける人員がいると助かるのではなくて?」
『むむ……』
確かに、本音を言えば、まさに猫の手も借りたい。
それも最強クラスの猫型幻獣となれば、なおさらだ。
「じゃあ、お願いしてもいい?」
「任せなさい。あなたに救われた命だもの。あなたに捧げてあげる」
「待って、重い重い。命とかいらないから」
「金髪碧眼の美形を鑑賞する片手間に手伝ってあげる」
『おい猫、それは軽すぎるだろう』
「べ、別にあなたのためじゃなくて、大事なオーギュストのためなんだからね」
「ああ、それなら納得」
『いいのか、エーリカよ……』
何はともあれ、頼もしい仲間が増えた。
世界最大の黒竜と最強の元天使のコンビとか、負ける気がしない。
どっちも弱体化してるのが少し不安なのはさておき。
「そうと決まったら、服を用立てて欲しいわ。
猫の姿だけじゃ、出来る行動にも限度があるもの」
「分かったわ。どんな服がいい?」
「男物と女物を、まずは二着ずつ。商人風のものと、貴族風のものを。
一番大事なのは、妾の足にぴったり合った長靴かしら」
そう言ってパリューグは唐突に人型に変身し、見せつけるように足を高く上げる。
私は慌てて馬車のカーテンを閉じた。
誰にも見られていないとは思うけれど、心臓に悪い。
『見苦しい格好をするなよ。
飼い猫の躾がなっていないと、誹られるのはお前ではなくエーリカなのだからな』
「うるさい蛇ねえ」
パリューグは仔猫の姿に戻り、ぷいっとティルナノグにそっぽを向く。
「二人とも、もう少し仲良くできないかしら」
『俺にこいつと仲良くだと? いくら友の頼みでも、それは無理な相談と言うものだ』
「ええー? 妾はいつでも友好的よ」
『お前のどこが友好的だと言うんだ』
「感謝しなさいよ。殺さないでいてあげたんだから」
『後悔するがいい。殺さないでおいたことを』
馬車の中で、所狭しと二人の幻獣が駆け回る。
息が合っているような、馬が合わないような、判断に迷う感じだ。
それでも、二人とも喧嘩友達ができて、そこはかとなく楽しそうなのは何よりである。
金色の飛沫を散らしながら、私達を乗せた馬車は駆けて行く。
寂しがり屋の幻猫が向かうのは、誰も彼女のことを知らない土地。
でも、もう誰も彼女を忘れることはない。
遥か西なる太陽の沈む地でも、その猫はきっと上手くやって行けることだろう。