オーギュスト・イグニシアの日記
一八七七年 四月最初の日
やっと私の竜が一匹孵化した。
残りの二つの卵が孵る気配はなく、大人達は凶兆だと噂している。
ここから居なくなってしまいたくて、秘密の部屋に隠れた。
ところで、天使なんて本当にいるものなんだろうか?
(ごくごく小さい字で頁の下部に記述されている)
一八七七年 五月某日
天使について聞いた。
天使と言うものは、本当は正体がバレたら天使でいられなくなるそうだ。
それっていったいどんな理由があるのか聞いてみたけど、あいつも知らないのだそうだ。
だから天使を見ても天使だと気がつかない振りをするべきなのだそうだ。
仕方ないから茶番に付き合ってあげておこう。
私の正体も、知らない振りをしてくれる誰かがいればいいのに。
一八七八年 一月某日
竜に騎乗して空を飛べない竜騎士なんて、存在する意味があるのか。
すると願いを叶えられない天使に存在する意味なんてあるかしら、と返された。
質問に質問で返すなんて卑怯じゃないか。
最近は、嫌なことがあるといつも大聖堂に入り浸っている。
一八八〇年 六月某日
小さな光が差した。
彼女は西から来たという、小さな錬金術師だ。
あいつに言わせてみれば、これが恋なのだそうだ。
でも、この気持ちをたった一言で表してしまうのは、なんだか勿体ないぜ?
今は彼方にあるあの星が、私のものになってくれればいいのに。
(記述の上から、何本も取り消し線が引かれている)
☆
オーギュストはたった一人で、大聖堂の柱に寄りかかって佇んでいた。
彼は薄暗い堂内に差し込む幾筋かの光を頼りに、手にした日記帳を繰る。
騎乗槍試合の日に起こった一連の大騒動の後、オーギュストは自分の記憶に奇妙な欠落を感じていた。
微かな違和感と、深い喪失感。
気のせいだと断ずるには無理のある寂しさの答えを探し、日記帳を読み返していた彼は確信へと至る。
「天使……か……」
日記には、謎の人物と交わされた天使論議や、歴史の裏側で起こった出来事、竜と接するためのアドバイスなどが記されていた。
その人物の名前や正体については徹底的にぼかして書かれている。
しかし、出会ったばかりの頃の記述や、神学に対する造詣、数百年前の出来事を実際に見てきたかのような歴史解釈は、まるでその人物が本物の天使であることを示しているかのようだった。
荒唐無稽な話だ。
オーギュストが自身の辛い境遇を耐え抜くために作り出した架空の友人だと考えた方が、いっそ現実的だっただろう。
しかし、彼にはそれが単なる空想の友人に過ぎないとは思えなかった。
オーギュストは日記に書かれていた人物に、明らかに自分とは違う人格を感じていた。
それは、時には姉のようであり、教師のようであり、友人のようだった。
彼女はオーギュストの知らないことを知っていて、オーギュストの予想もつかない行動をとることもあった。
きっと、かつてそこには本当に天使がいたのだ。
今はもう、誰もいない。
懐かしさと寂しさに、胸が詰まる。
オーギュストは日記を閉じ、もはや思い出すことも叶わない友人に思いを馳せて虚空を仰いだ。
「にゃ〜」
陰鬱な雰囲気を破るように、気の抜けた猫の鳴き声が響く。
いつの間にか、オーギュストの足元には金色の猫が寄り添っていた。
「あれ? こんな所に一匹だけで、迷子か?」
オーギュストは猫の両脇に手を差し入れて抱き上げる。
脱力していたためか予想以上に縦に伸びた猫の姿に、オーギュストは思わず顔を綻ばせた。
「お前、どこかで見たことがあるような気がするなあ。
私の知ってるやつの飼い猫か?」
「なーん?」
猫は暢気そうに目を細め、されるがままになっている。
人を怖がらない、愛嬌のある猫だ。
よく見れば、その首には革のベルトが巻かれていた。
オーギュストの眼前で、首輪に付いた星と波の図案を象ったチャームが揺れている。
「ああ、道理で……どこかで見たことがあると思った」
「にゃーん」
手品のように腕をすり抜けて、猫は音もなく床に着地した。
オーギュストは猫が駆けて行く方を振り返る。
「御機嫌よう、オーギュスト様」
ステンドグラスから流れ落ちる鮮やかな光の滝の中に、少女は立っていた。
アウレリア公爵家の長女、エーリカだ。
彼女の黄金色の髪で乱反射した光が、天使の輪のような輝きを作り出す。
日に焼けていない、無垢な絹のような肌は透き通るかのようだ。
オーギュストと目が合うと、エーリカはかすかに微笑みを浮かべた。
遠浅の海のような色合いの碧色の瞳は、綺麗なのにどこか冷たい印象を与える。
彼女が纏っているのは、きっちりと首元まで覆う夜空のような深い群青のドレスだ。
作り物めいた硬質な容貌と、修道女のような禁欲的な雰囲気は、この聖堂という場によく調和していた。
「こんにちは、エーリカ」
「猫の相手をしてくれていたんですね。ありがとうございます」
「割と猫は好きだからな。
懐いても気を許さないところとか、何考えてるか分からないところとか」
「あ、それ、分かるような気がします」
頷きながら差し伸べたエーリカの手を、猫はひょいと避けてすり抜けて行った。
オーギュストとエーリカは顔を見合わせて苦笑する。
エーリカもどこか猫に似ている、オーギュストはそう思っていた。
不意にこちらが驚くほど近づいてくるくせに、捕まえようとすればするりと逃げて行く。
警戒心が強く、一見打ち解けているようで、絶対に心を開かない。
自分の手の内は絶対に明かさず、その癖、相手の心を見透かしたような目をしている。
大勢の人々に囲まれていても、どこか浮いているような。
気まぐれで、他人行儀で、孤高で、何か秘密を抱えた不思議な女の子。
他人を拒んで生きてきたオーギュストには、彼女の距離感が好ましかった。
「そう言えば、あの荷物持ちのゴーレムは?」
「もうすぐ来ると思います。向こうにお気に入りの壁画があるので」
「随分、芸術的素養のあるゴーレムだなあ」
「あ……、もちろん、まるで意志があるかのように見えるように設定しただけですよ」
「エーリカは凝り性だなあ」
まだ八歳の幼い少女であるにも関わらず、エーリカは優秀な錬金術師である。
オーギュストは今まで何体かのゴーレムを見たことがあったが、彼女が連れているゴーレムほど精巧なものを見たことはない。
ティルナノグという名の星鉄鋼製のゴーレムは、まるで生きているかのようだった。
噂をしているところに、ティルナノグが大きな革鞄を抱えて現れた。
鞄の中には短杖などのたくさんの魔法道具が詰められているのである。
ティルナノグの足音に気づいて、天窓近くの彫刻にもたれて寝ていたゴールドベリが目を覚ました。
ゴールドベリがオーギュストの肩に着地すると、ティルナノグがまるで怯えるようにびくりと震える。
オーギュストは跳躍しようとしていたゴールドベリの背を抑える。
「ゴールドベリ、淑女らしくするんだよ」
「キュ!」
ゴールドベリは頷くと、ティルナノグから数歩の位置に着地する。
彼女はティルナノグの前にゆっくり歩み寄ると、静かに翼を拡げてお辞儀をした。
ティルナノグも数秒それを観察した後、応えるように頭を下げる。
「いつ見ても、エーリカのゴーレムは賢いなあ」
「あはは……既存の技術が素晴らしいだけですよ、きっと」
「さて、面子も揃ったことだし、出発するとしようか。
……ええと、とっておきの場所はなくなっちゃったからなあ。
エーリカの行きたいところがあれば、何処にでも連れて行ってあげるよ」
「はい。お願いします」
降臨祭の終わった〈伝令の島〉は、どこか寂しい雰囲気が漂っていたはずだ。
オーギュストは祭りの後の独特の寂しさも好きだった。
エーリカも気に入ってくれるといいが、そう思いながらオーギュストは歩き出す。
ぱさりと、何かの落ちる音が背後から聞こえた。
オーギュストが振り返ると、いつの間にかそこにいた猫と目が合った。
猫の前にはオーギュストの日記帳が、開いたページを下にして落ちている。
「にゃあ?」
「ああ、ポケットから落ちたのか。
ごめんな。びっくりさせただろう?」
オーギュストは日記帳を拾い上げ、何気なくそのページに目を走らせた。
彼は白紙だったはずのそのページを見つめて、しばし動きを止める。
「どうなさいました?」
「いや、何でもない。行こうか」
オーギュストは日記をポケットに仕舞い、エーリカを促す。
その表情から喪失の憂いが消えていることを、猫だけが知っていた。
☆
一八八〇年 降臨祭の翌日
エーリカと街を回る。
彼女と再会できる日が待ち遠しい。
どうやら、お節介な天使は姿を隠してしまっただけで、今も人々を見守っているらしい。
(次の頁にオーギュストとは別人の筆跡で書かれている記述)
あなたはもう、一人でも飛べることでしょう
いつか、あなたの星に手が届きますように