空の玉座6
白亜の街に、真っ白い花弁が降り注ぐ。
それはまるで舞い落ちる天使の羽根のように見えた。
街の上空では何十頭もの竜と竜騎士たちが交代で旋回し、花弁をまき散らしている。
舞い降りる天使をイメージした、降臨祭の重要なイベントの一つだ。
天使の見守る空の下で、人々は今年も変わらぬ天使への感謝を確かめ合う。
☆
ルーカンラントの医術師は腕のいい人だったらしい。
頬の傷は一時間ほどで跡形も無く消えてしまった。
治療を終えた私は、すっかりお祭りムードになった街に繰り出した。
私から数メートル離れたところでは、お父様がじきじきに護衛と監視を行っている。
誘拐防止用の魔法道具を消費してしまったのだし、無理もない。
むしろ、あんなことがあったのに外出を許してくれるだけ、ありがたいと思うべきか。
自由に見て回りたかったけれど、心配させないように大人しくしておこう。
『それにしても、負傷を顧みず奸賊の動きを封じるとは。
勇敢な友を持って、俺は誇らしいぞ』
『何言ってるのよ。
エーリカだって若い女の子なんだから、顔は大事なのよ。
痕が残ってないからいいものの……』
私の足元では、ティルナノグとパリューグが口喧嘩している。
喧噪のおかげでお父様には聞こえてないと思うけれど、ちょっとヒヤヒヤする。
現在のティルナノグの器は、辛うじて破損を免れた数枚の装甲板を使って作られている。
元々刻んであった錬金術文字を流用して、治療中に再構築しておいた。
時間も材料も足りないので、何とか動けるだけの簡易版だけどね。
仲間になった幻獣が二人とも戦闘力が激減してしまったことになる。
アウレリア領に帰り着くまで何事も起きないことを祈るしかない。
『グルルァ! うるさいぞ、猫!
友の奮闘を讃えて何が悪いのだ!』
『あっはっはっは! そんな遅いパンチ、当たらないわあ!
トロくさい蛇ごときが、獣の王たる妾を倒せるなんて思わないことね!』
私の周りをぐるぐる回って、二人の追っかけっこが始まった。
ティルナノグが鉤爪を振り回し、パリューグがそれを紙一重でかわしていく。
確かに当たってないけど、挑発してるのを見るとハラハラする。
今の甲冑は小型サイズだけど、仔猫の体に当たれば必殺じゃないかな。
「二人とも、近くにお父様がいるんだから、静かにお願いね」
『うむ。承知した』
『はーい。せいぜいバレないように気をつけるわ』
不承不承といった表情で、二人はぴたりと戦いをやめた。
息は合っている。
うーん、喧嘩するほど仲が良いってやつなのだろうか。
私は二人を肩に乗せ、再び歩き出す。
街のあちこちでお酒や果汁などの飲み物が配られていた。
「天使様に感謝を」という言葉とともに、人々が手にした杯が打ち合わされる。
大人も、子供も、貴族も、平民も。
あらゆる人々が笑顔を浮かべ、乾杯を交わす。
王城で行われた貴族の宴と違って、この日の宴は身分の違いなんて関係ないようだった。
貴族・平民の間の壁が薄いイグニシアらしい祭りだ。
この国では、根本的なところで唯一神の下での平等が染み付いているのである。
私も果汁の入った陶器の杯を受け取り、その行事に参加することにした。
受け取った杯に、ひらりと一枚の花びらが浮かぶ。
(あ、綺麗)
何だか縁起が良さそうな絵面に見とれてしまう。
すると、不意打ちのように誰かが杯を触れさせてきた。
「天使様に感謝を。傷がすっかり治ったみたいで、よかったね、エーリカ」
「ひゃっ!? お……お兄様、いつの間に!?」
「ついさっき、猫がゴーレムと戯れてるのを見かけてね」
危ない。
もう少し幻獣達を止めるのが遅かったら、お兄様にバレていた。
お兄様はお父様とアイコンタクトを行ったようだった。
お父様は頷くと、護衛の錬金術師を何人か残して去って行く。
あれは聖堂前の広場へ続く道だ。
「陛下への報告がようやく完了したんだ。
やっと可愛いエーリカと一緒に、ゆっくりと祭見物ができるよ」
「お父様は?」
「父上も陛下に用事があるみたいだからね。ここからは僕がエスコートするよ」
「ありがとうございます」
放任気味だったお父様と対照的に、お兄様はガッチリと至近距離で護衛するつもりらしい。
ティルナノグやパリューグの正体がバレないように、一層気をつけなければ。
特に、目がハートになってる猫の方。
「報告と言うと、クラウス様達と一緒に調べていた内通者の件ですね」
「そうだよ。あの場で説明した以外にも、色んなところでルイ一派が暗躍していたからね。
報告とともに、信頼できるイグニシア王家の人間に引き継いでいたんだ」
「ああ、なるほど」
「この後もルイの護送ついでにカルキノス・イグニシア領の調査が待っているんだよね。
実に頭が痛いよ。
少しぐらい息抜きしなきゃ、か弱い僕は倒れてしまいそうだ」
「それは……お疲れさまです」
どう見ても元気溌剌という感じのお兄様は、にっこりと笑みを返した。
本人が頑健でも、調査が大変だったのは間違いない。
僅かなお休みの間に英気を養って頂きたいものだ。
「そう言えば、どうしてお兄様は極秘調査なんて請け負っていたんですか?」
「ああ、きっかけは、そうだな……二ヶ月前に〈来航者の遺跡〉の崩落事故があっただろう?
あの後、周囲の岩盤の掘削にどの程度の資金が必要か、こっそり見積もり調査を行ってみたんだ。
そしたら、少なく見積もっても僕のポケットマネーの十数倍になるそうでね」
「そ、そんなにかかるんですか……」
あのときのうっかりミスが、そんな大変な損害を引き起こすなんて。
動揺が表情に出ないように、私はあわてて顔に笑みを貼付けた。
「出資者が僕だけでは、到底続行不可能ということになったんだ。
ちょうど魔法学園都市の研究者の協力を取り付けたところだったから、悔しかったよ」
「本当に残念でしたね」
「でも、そんな時にアンリ陛下から極秘監査の話を頂いてね。
陛下に発掘事業の後援者になってもらうって条件で、引き受けさせてもらったってわけさ」
「なるほど……王様が参加すれば、他のイグニシア貴族もこぞって出資しそうですものね」
「そういうこと」
流石はお兄様。すばらしい手際だ。
転んでもただでは起きない人である。
考えてみれば、〈来航者の遺跡〉での一件がなければ、〈伝令の島〉での出来事は違ったものになっていたはずだ。
エドアルトお兄様はルイの監査を行わず、遺跡の発掘を続行。
ティルナノグことザラタンは遺跡の最深部に封印されたままか、あるいは死亡したアンと融合して所在不明。
クラウスは妹を失ったショックで、しばらく再起不能。当然、監査へは不参加。
私一人がどれだけ頑張っても、彼らの力がなければオーギュストの儀式を止めたり、オーギュストにかけられた疑いを晴らすことはできなかっただろう。
私が遺跡の罠を踏み抜いてしまったことが、巡り巡ってイグニシアの問題を解決する結果になるなんて。
人間万事塞翁が馬と言うか、禍福は糾える縄の如しと言うか。
「やれやれ、しばらくはルイの調査にかかりっきりになりそうだ。
この仕事が終わったら、のんびりと幻獣について思いを馳せたいものだよ」
「〈来航者の遺跡〉に入れれば良かったですね」
「まったくその通りだよ。
代わりと言ってはなんだけど、幻猫パリューグと呼ばれた始祖王の愛猫について、調査してみようかな」
「えっ!? パリューグ!?」
予想外の人物から想定外の幻獣の名前が出て来て驚く。
私は思わず杯を落としそうになってしまった。
肩に乗っていたパリューグ本人も、ぴくりと耳を立ててお兄様を見つめる。
「実は、ルイの監査の合間に面白い話を聞いてね」
「どんなお話ですか?」
「イグニシアにも古い怪物の言い伝えがあるそうなんだ。
獅子や豹や猫と、バリエーションは豊かなんだけど、どれも猫科の動物の姿をした怪物らしい」
「へ、へえ……」
「何となく興味を惹かれて、散らばったいくつかの伝承や遺構を、片手間に軽く調査してみたんだよ。 そしたら、面白いことが分かったんだ」
「面白いこと、ですか?」
「無数の姿と名前で記録されたその怪物群は、実は一体の幻獣かも知れないんだ」
「まさか……」
「イグニシアの歴史の転換点に必ず現れる、若き王や英雄を導く幻獣……って視点で考えると、全く別の伝承に見えてきて面白いんだよね。
ああ、もしかすると、今回のオーギュスト殿下の能力覚醒も、その幻獣が関わっていたのかも知れないね」
「お兄様の発想には、いつも驚きを禁じ得ません」
だいたい合っている。
本当に恐ろしい推理力だ。
長年好き放題やってきたはずのルイが逃げ切れなかったのも無理はない。
「先にイグニシアの幻獣についての調査で実績を積んでおくのは悪くない。
王侯貴族からの資金調達もスムーズになりそうだし、幻獣研究に理解のある研究者も育てられる。
良いことずくめだよ」
「猫の怪物についてなら、オーギュスト様がお詳しいですよ」
「おや、オーギュスト殿下が?
なるほど、それは是非とも話を伺わなきゃね。
──ついでに、エーリカと仲がいい理由についても」
「えっ?」
そうか、確かに気になるところだよね。
他人から見ると、びっくりするほど急速に仲良くなったように見えるはずだ。
保護者の立場からすると、さぞや心配なことだろう。
公の場でのオーギュストとの接触って、一昨日の天使ポエム事件くらいだものね……。
「ご心配なく。何もやましいことはございません。
オーギュスト様はお友達です。
たまたま大聖堂でご一緒したときに、古い絵画の話で意気投合したので」
「……友達? ただのお友達なのかい?」
「それは、もちろん──」
「もちろん、ただの友達なんかじゃないぜ!」
「わっ!?」
いきなり誰かの腕が私の腕に絡んできて、心臓が飛び出しそうになる。
振り向くと、すっかり見慣れた紫色の瞳と目が合った。
ああ、びっくりした。オーギュストか。
彼は事件の最中に着ていた乗馬服から、王子の正装に着替えていた。
しかし、いきなり不穏なセリフで登場するね、この王子様は。
「へえ……殿下、ただの友達ではない、とは如何なるご関係ですか?」
「えーと、親友ってことですよね、オーギュスト様」
「そうそう、エーリカと私は、大親友なんだ。
今のところはそう思っててくれよ、お・に・い・さ・ま」
「そうですか。それは良かった。
是非とも、エーリカとはいつまでも良き親友でいてあげてください」
お兄様とオーギュストはにっこりと笑みを交わす。
笑顔なはずなのに、二人とも雰囲気が不穏だ。
オーギュストったら、どうしてそんな勘違いされそうなことを言ってしまうんだろう。
お兄様のシスコン振りと組み合わさって、一触即発である。
しばらく二人は無言で見つめ合っていた。
そのうち、オーギュストの方が根負けしたらしく、私から手を離す。
「なかなか喰えない人だな、エドアルト卿」
「褒め言葉として受け取っておきますよ、オーギュスト殿下」
そう言葉を交わした後、わずかに雰囲気が和らいだ。
ゴールドベリが飼い主にやや遅れて現れ、オーギュストの肩に着地した。
彼女は咥えていた肉の切れ端を真上に投げ、ぱくりと頬張る。
「よしよし、もう充分食べただろ、ゴールドベリ」
「キュルルル?」
「うーん、仕方ないな。今日は特別だけど、明日からは肥らないように加減するんだぞ」
「クァァ」
ゴールドベリはオーギュストに頬ずりし、目を細めて尻尾をくねらせた。
ティルナノグも可愛いけれど、イグニシアの竜も仕草が猫っぽくて可愛いなあ。
そんなことを考えていると、ゴールドベリがこちらを見てぴたりと動きを止めた。
私の肩の上で、パリューグが硬直する。
どうやら、ゴールドベリは仔猫の姿をした彼女を凝視しているようだった。
『あらやだ……あの子の記憶、消し忘れてたわ……』
私にしか聞こえない程度の小声で、パリューグが呟く。
彼女は地面に飛び降り、ゴールドベリの視線から逃れるように私のスカートの後ろに隠れた。
『猫……愚かなやつだ……』
「ク……? キュルルル!」
ティルナノグが小声で呟き、肩をすくめる。
ゴールドベリは、今度はティルナノグの方を見つめていた。
どことなく、イケメンに遭遇したときのパリューグの雰囲気に似ているような。
彼女は素早く私の肩に飛び移り、ティルナノグの面甲に前肢をかける。
そう言えば、この子ってティルナノグの中身に興味津々だったっけ。
『!?』
「キュアア……?」
『やめろ! 俺、ゴーレム! 中身、ない!』
面甲を開けられそうになったティルナノグが、すんでのところで身をよじって逃げた。
ティルナノグが着地すると、すぐにゴールドベリも地面に降り立って後を追う。
竜たちが追いかけっこを始めると、すぐにパリューグもそれに加わることになった。
二人と一頭は私の周囲をぐるぐると回った後、テーブルの下を潜って走って行く。
「おーい、いじめちゃダメだぞ、ゴールドベリ」
「あんまり遠くに行かないでね?」
私達が呼びかけたときには、小動物たちはもう見えなくなっていた。
まあいいか。
ゴールドベリは強いし、ティルナノグやパリューグも弱体化してても賢いし。
むしろ、ゴールドベリの感覚を通してパリューグの正体がオーギュストにバレる方が危ないか。
上手く逃げ切ってくれるといいけど。
「あいつ、本当にエーリカのゴーレムがお気に入りなんだな」
「そうみたいですね」
「僕もエーリカのゴーレムの造りは気になるんだけどなあ」
「いえ、お兄様に内部構造をお見せするのは恥ずかしいですから」
「そっかあ、残念だなあ」
困った……お兄様の興味をひいてしまった。
でも、お兄様にじっくり観察されると中身が生き物なことが確実にバレてしまう。
加えて、ティルナノグが人工生命体なこともバレる。
ちょっと苦しいけど、何とか誤摩化し続けなければ。
「あれ? そこにいるのはエドアルトじゃないか。おーい」
私が悩んでいると、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
お兄様は声のした方を向く。
降って湧いた助け舟に、私は胸を撫で下ろした。
近づいてきた人物は、大きな包みを抱えた魔法学園の学徒だった。
王の学徒の制服にボサボサの銀髪、そして朴訥で優しそうな笑顔。
アクトリアス先生だ。
どうしよう、また眼鏡がズレている。
私が指摘しようかどうか迷っていると、お兄様が一瞬で先生の眼鏡の位置を直してしまった。
あっと言う間の手練の早業である。
「相変わらずだな、エルリック」
「おや、気づかなかった。眼鏡がズレていたのか。いつも悪いね、エドアルト」
二人ともなんだか慣れてる感じがする。
こんなやり取りが昔からずっと繰り返されているんだろうか。
「ああ、失礼、エーリカ様もいらっしゃったんですね。
ええと……そちらの少年も知り合いですか?
そう言えば、ブラックカラントの乗り手でしたっけ。
優勝おめでとうございます」
「イグニシア国王アンリの息子、オーギュストだ。
騎乗槍試合では世話になったな」
「ええ〜〜!? 王子様だったんですか?
これはどうも、気づかずにご無礼を……私はエルリック・アクトリアスという者です。
こちらのエドアルトの学友です」
アクトリアス先生は慌ててオーギュストにお辞儀する。
結局オーギュストが騎乗槍試合の優勝者になったらしい。
それも当然か。
敵国の技術を使って反則を行っていたルイを、いつまでも優勝者扱いにしているはずはない。
「ブラックカラントの騎手だと知っていて、オーギュスト殿下だと気づかなかったのか、エルリック」
「ルイの行った違反の調査で忙しかったから、優勝者の個人名までは聞いてなかったんだよ〜」
「すまないな。身内のやったことで、学園の者たちにも苦労をかけてしまって」
「いえいえ、とんでもない。
このくらい、元々の業務の延長ですよ。
例の二頭の竜には可哀想ですけど、貴重なデータも取れましたし」
二頭の竜──白竜キャメリアと紫竜シルベチカの話題が出ると、オーギュストは表情を曇らせた。
「キャメリアとシルベチカは、どうなるんだ?」
「申し訳ありません。今の私達には、あの二頭を救う方法がないのです。
可能な限りの釘は摘出しましたが、いくつかの重要臓器に刺さったものが除去できませんでした。
悔しいことですが、私達も竜と言う生物の生体構造を完全には理解できていませんから。
それに、埋め込まれた呪釘は、竜のために特別に製造された未知の種類のものでしたので」
「そうか……」
「ですが、二度とこんな悲劇は繰り返させません。
犠牲となった二頭のためにも、必ずや対処法を見つけてみせます」
「……ああ、期待している」
元気づけるように、日頃気弱そうなアクトリアス先生が力強く請け合う。
それでようやくオーギュストの顔にも笑みが戻ってきた。
「それにしても、ルイ・オドイグニシア……でしたっけ。
彼は惨いことをしますね。
自分が飼っていた竜なのに、あんな酷いことができるなんて。
検査結果を見たかい、エドアルト?
なんでも、脊椎を中心に、全部で百以上の呪釘が──」
「エルリック、白昼の大通りで話すのは、ちょっと……」
「ああ、そうだね、ごめん」
アクトリアス先生は慌てて口を手で覆う。
ふと見ると、オーギュストが青い顔をしていた。
私ですら背中の辺りがぞわぞわしたのだから、竜を大事にするイグニシアの人には辛い話だろう。
「ルイも昔はそんなことが出来るようなやつじゃなかったはずなんだけどな。
せめて、あの呪いの鐙が参加者全員分あれば、呪釘なんて使わなかったんだろうか」
「いえ殿下、僕個人としては、ルイは鐙の件には関与していないと考えています」
「そうなのか?
それが本当なら、ほんの少しだけ安心できる。
確かにあいつと私は仲が悪かったけど、殺したいほど憎まれてたなんて思いたくはないからな」
オーギュストはどこか寂しそうに言って、目を伏せる。
そう言えば、王様も最後までルイのことを信じようとしていたような気がする。
私から見ると、ルイはただの嫌な人物だった。
でも、オーギュストや王様にとっては、それだけではなかったのかも知れない。
「それにしても意外だね。エドアルトがルイの肩を持つなんて。
何らかのルイに有利な証拠でも見付かったの?」
「依然として、鐙以外の物的証拠は見付かっていないよ。
肩を持とうと言う気は毛頭ない。
でも、ルイが鐙を仕掛けるメリットがないからね」
「自分より王位に近い人物が邪魔だったから、事故に見せかけてオーギュスト殿下を殺害しようとしたってことじゃないの?」
「殿下が一般枠で参加することが事前に分かっていたのならば、その線もあったかもね」
エドアルトお兄様の言葉に、アクトリアス先生がにこやかな表情のまま首を傾げる。
いまいちよく分かっていないようだ。
実際のところ、試合が始まるまではパリューグですら騎乗に失敗するものだと思い込んでいたのだ。
オーギュストが一般枠に挑戦することは予想できていたとしても、本戦に出場し、あまつさえ決勝で矛を交えることになるとは思いもしなかっただろう。
「二十メートル級の参加者の中には、優勝候補と目されていた竜騎士が何人も居た。
それなのに、誰が乗るかも分からない一般枠の竜に、替えの利かない一点ものの呪具を使うのはおかしいんだ」
「お兄様。せめて鐙の出所は分からないんですか?」
「鐙の装飾の隙間に微量の土がついていたから、この土を解析すれば、出所が分かるかも知れない。
今、早馬をハーファンに送ってある場所の土のサンプルを採取してもらっているところさ」
「ハーファンということは、エドアルト卿はこの件が例の墓荒らしと関係があると考えているのか?」
オーギュストは周囲を伺いながら、声を低めて訊ねた。
ハーファンの墓荒らし。
確か、盗掘されたのは吸血鬼王国キャスケティア時代の墓地だったはずだ。
もし呪いの鐙の出所が荒らされた墳墓だったら、今回の事件もキャスケティアの呪具が原因なのだろうか。
ただの偶然と考えるには、出来すぎている。
「分かりません。ですが、最悪の事態を想定したならば、行動は早いに越したことはないでしょう?」
「それは違いないな。
ことが吸血鬼絡みという事実が広まれば、ハーファンやルーカンラントの民はさぞや不安に思うことだろう。
彼らは大事な盟友だ。一刻も早く平穏を得て欲しいものだ」
「アンリ陛下もそうお考えのようです。やはり、よく似ておられる。どうして今まで皆が気がつかなかったのか」
お兄様の言葉で、オーギュストの頬に淡い薔薇色が混じる。
笑みを噛み殺したような表情の中に、どこか誇らしげな雰囲気が見て取れた。
アクトリアス先生は二人のやり取りに何度も頷いて、抱えていた包みを解いた。
中からは、重々しい雰囲気を纏った一対の鐙が姿を見せる。
「そんなに重要なものなら、誰かに奪われないように注意しなくてないけないみたいだね」
「君が運んでいたのか、エルリック。
学園側の魔法使いが携行しているとは聞いていたけれど……。
せめて、護衛くらいは同行させてくれないか、不用心だよ」
「たまたま他の学園出身者が捕まらなかったからさ。
イグニシアには知り合いが少ないから、誰に頼めばいいのか分からないし」
「確かにその通りではあるが──」
エドアルトお兄様の視線が、私とオーギュストの間を数度彷徨った。
お兄様は小さくため息をついて言った。
「エルリック、君はとても運がいいな。ちょうど腕のいい錬金術師を一人知っているよ。
オーギュスト殿下、すぐに戻って参りますが、それまでうちの妹のことをよろしくお願いしますよ。
島内にはまだ敵対的な何者かが潜伏している可能性がありますので」
「承知した。死が二人を別つまで、守り続けると誓おう」
「ははは、ご冗談を。
僕はす・ぐ・に、戻って参りますよ。
さあ、走るぞ。急げ、エルリック」
「ええっ!? 待ってよ、エドアルト!」
オーギュストの真顔の冗談に、お兄様は笑顔で釘を刺して去って行く。
その後ろを、大きな包みを抱えたアクトリアス先生が、何もないところで何度もつんのめりそうになりながら追いかけていった。
我が兄ながら、ちゃんと結婚できるのか心配になる。
絶対に貴族女性の人気はあるはずなんだけれど、濃厚なシスコンだったとはね。
お兄様がこんな性格でも動じない、アウレリア住みOKな結婚適齢期の女性がいてくれたらいいんだけど。
「あっちはあっちで忙しないなあ……」
「そうですね」
「おっと、忘れてた。天使様に感謝を」
「はい。天使様に感謝を」
オーギュストは近くで配られていた杯を受け取り、軽く掲げた。
私はオーギュストと杯を打ち合わせ、つい先程逃げて行った仔猫への感謝の言葉を唱える。
「それと……私の幸運の女神にも感謝を」
「はい? ああ、どういたしまして」
一瞬、何のことかと思った。
そう言えば、そんなことを言ってたよね。
オーギュストは杯を持っていない方の手で、私の頬に手を伸ばす。
「傷、治ってよかったな」
「医師の方の腕が確かで助かりました。危うく傷物になってしまうところでしたし」
「ははは。そしたら、私が責任持ってお嫁さんにしちゃおうかな」
「オーギュスト様、発言にはお気をつけ下さい。
軽々しく口説いて回ってると、王太子妃候補が大挙して押し寄せてしまいます」
「心配しなくても、エーリカにしか言わないよ。
それなら、いいだろう?」
オーギュストはぱっちりと目を見開き、小首をかしげ、伺うように見つめてくる。
その仕草は、どこか猫っぽい雰囲気を感じさせる。
そう言えば、この人って原作でもそうだった。
気まぐれにすり寄ってくる癖に、不用意にこちらから歩み寄れば、その手をするりと躱して逃げる。
他人との距離の取り方が、まさに警戒心が強い癖に甘えたがりの猫のよう。
でも、正直な話、オーギュストに口説き癖がついたら将来のトラブルの元だよね。
友達としてはどんな間合いで諭すべきだろうか。
「そういう意味じゃなくて、求婚を断れないのが問題なんです」
「え? どういうこと?」
「断ったら、オーギュスト様の体面に傷がつきますからね。
今までみたいに、元々傷だらけの体面ならともかく」
「言ってくれるなあ……」
「たとえ口約束でも、私からは否と言えません。それでも求婚なさいますか?」
オーギュストの視線を正面から受け止めて、笑顔で見つめ返してみる。
数秒の膠着状態の後、オーギュストは苦笑とともに肩をすくめた。
「……負けたよ。今の話は無しだ。
大事な友達にする話じゃなかったな」
「これからはどんどん友達が増えるんですから、気をつけて下さいね。
それに、真剣に結婚相手を探すなら、イグニシアの国益も考えなければなりませんし」
「あーあ、やだやだ権力なんて。面倒くさーい」
オーギュストは巫山戯て拗ねたような素振りをした。
王太子が口にするには、少々きわどい冗談である。
不意に巻き起こった海風が、私達の髪を巻き上げた。
視界を覆い隠す金色の髪を抑えようとすると、私の手が誰かの手に触れる。
オーギュストの手だ。
彼は私の巻き毛に指を絡めながら、何だかまぶしいものを見るような表情をしていた。
口元に笑みを残したまま、まるで悪戯心だけを風に持ち去られたように。
「エーリカ、もしも……」
「はい?」
「もしも、私が今でも醜聞まみれのままだったら、お前は──」
「ちょっと待て、お前達! 何をしている!」
私とオーギュストの間に、なぜかクラウスが割り込んできた。
その瞬間には、既にオーギュストの表情は分厚い笑顔の仮面で覆われ、彼の言いかけた言葉は
不敵な笑みを浮かべた唇の向こうに消える。
「何って……特別な友人と話してただけだぜ?」
「というか、クラウス様こそ、何をしているんですか?」
「いや、本当に何をしているんですか、クラウスお兄様」
よく見ると、彼の背後にはアンが立っていた。
アンは私達の方に軽くお辞儀をすると、クラウスが投げ捨てたらしい杯を従者に片付けさせる。
クラウスは渋面を作り、数歩後退って自分の手を見つめた。
「……俺は、何をしているんだ?」
「嘆かわしい。しっかりして下さい、お兄様」
兄妹揃って頭を抱える。
相変わらず仲が良さそうだし、色々あったのに元気そうで何よりだ。
「クラウス様にも色々と尽力して頂いたようで、ありがとうございました」
「ああ、お前も、ご苦労だった。……傷が治って良かったな」
「心配しなくても、かすり傷でしたし」
「いや、俺は、お前が痛そうなのが嫌だっただけだ。俺のためだ。お前のための心配って訳じゃない」
そう言って、クラウスはそっぽを向いてしまった。
相変わらず彼はよく分からないことに対してへそを曲げているなあ。
ガッツリ刺殺されたことのある身としては、本当にかすり傷なんだけど。
クラウスは従者から新たな杯を受け取る。
私は差し出されたクラウスの杯に、自分の杯を触れさせた。
「天使様に感謝を。何はともあれ、一件落着ですね」
「ああ、天使とやらに感謝を。
俺やエドアルトはカルキノス大陸での追跡調査が残っているから、束の間の休息だけどな」
「それは……大変ですね」
「ああ、だから、せめてこの時間だけでもお前と──」
「天使様に感謝を!
ヒドいヤツだな、クラウス・ハーファン。
私が目の前にいるのに無視だなんて」
今度は私とクラウスの間に割り込んで、オーギュストが杯を差し出す。
何だろう。
割り込みが流行っているんだろうか。
露骨に嫌そうな顔のクラウスと、にこやかな笑顔のオーギュストとの間に見えない火花が散ったような気がした。
「オーギュスト・イグニシアか。
よかったな、不名誉な噂がなくなって」
「どうも、お陰さまで」
「俺にとっては、噂が真実だろうが嘘だろうが、お前がどんな人間だろうが関係ないけどな」
クラウスは不遜じゃないかと心配になるくらい、目に力を入れてオーギュストを睨む。
オーギュストも、一見涼しげに受け流しているように見えて、あんまり目が笑っていない。
「エーリカとはどういう関係だ?」
「友達だよ。大事な親友」
「俺にとってのエーリカは大切な……友だ」
「ふうん。敵の敵は味方と言うけれど、友の友は何て言うべきかな?」
「さあな」
クラウスとオーギュストは力強く握手した。
二人とも、不自然なくらい奥歯に力が入っているように見える。
「オーギュスト。お前とは長い付き合いになりそうだな。不本意ながら」
「ああ、よろしく、クラウス。手加減は一切しないからな」
何とか丸く収まってくれて、私はほっと胸を撫で下ろした。
ちょっと剣呑だけど、これが男の子の友情なのかな。
オーギュストに新しい友達ができたって聞いたら、パリューグが喜んでくれそう。
「さっそく友達ができて良かったですね、オーギュスト様」
「お前にはそう見えるんだなー……」
「念願のライバルができて良かったですね、クラウス様」
「お前は俺のことを何だと思っているんだ」
おかしい。既に二人とも息が合ってるくせに。
どう見ても仲が良いのでは。
もしかしてツンデレってやつなのだろうか。
「おっと、ご挨拶が遅れて申し訳ない。小さな淑女。
私はイグニシア王アンリの息子、オーギュストだ。お見知り置きを」
「予想外の強敵ですね。承知致しました。私も全力で対処させて頂きます」
アンはにこやかに剣呑な言葉を返した。
オーギュストが笑顔のまま硬直する。
「ハーファン公爵家のアンと申します。兄がご無礼を致しました。天使様に感謝を」
「天使様に感謝を……お前達兄妹って、何と言うか、よく似てるな」
「言うな」
たじろいだオーギュストを尻目に、アンは滑るように私のそばにやってくる。
「エーリカお姉様、ご無事で何よりです。天使様に感謝を」
「ええ、天使様に感謝を。今回もアン様のお世話になってしまいましたね。
きっとアン様は覚えていらっしゃらないでしょうけど」
「それがエーリカお姉様の守護者のことでしたら、私は覚えていますよ?」
聞き違いだろうか。
思わず私はアンを二度見してしまう。
もしかして、パリューグの記憶改竄の対象外だったのか。
アンはティルナノグには会っているけど、パリューグとは無関係だ。
パリューグは契約関連の聖句に手を加えて記憶改竄を行っただけだから、アンの記憶が残っていてもおかしくはない。
「どうやら、約束通りエーリカお姉様を守ってくれたようですし、あの方も労って差し上げなければね。
ハーファンから持参した手土産で喜んで頂けるといいのですけど」
「あ、あの、アン様、あの子のことはどうかご内密に」
「ふふふ、当然です。こんな切り札、易々と切ってしまうのは勿体ないですから」
不穏なことを言いながら、アンはスカートをつまんでお辞儀する。
「では皆様、私は挨拶しなければならない方がおりますので、お先に失礼させて頂きます。
お兄様、護衛は全員借りていきますね」
「ああ、構わん。どうせ護衛と言っても俺より弱い連中だからな」
ごゆっくり、と小悪魔めいた微笑を浮かべ、アンは取り巻きを引き連れて去って行った。
小悪魔どころか大悪魔にならないか、将来が心配だ。
「ところで、何の話だったんだ? 守護者だとか何とか?」
「それは……」
「無粋だな、クラウス。淑女同士の秘密だそうじゃないか」
「お前は目の前で堂々と隠し事をされて、少しは気にならないのか?」
オーギュストは挑発的な笑みを浮かべ、私の髪を指で梳いていく。
彼はクラウスに見せつけるように巻き髪を弄び、髪でできた輪に指を絡める。
よっぽど驚いたのか、クラウスの手の中で陶器の杯が砕けた。
「分かってないな。秘密は秘密のままの方が魅力的だろう」
「そんなの分かるか。それと、その手つきはやめろ。何だかムカつく」
「おっと、気が短いな、クラウス。
でも残念ながら、お前のパンチは私には当たらないと思うぜ」
「地べたに転がってから同じことを言ってみろ」
「お二人とも、周りの人達の迷惑になりますから、ほどほどにお願いしますね」
逃げるオーギュストと追うクラウスの掛け合いに、私はどことなく既視感を感じていた。
オーギュストは心底楽しそうで、クラウスもいつの間にか半笑いになっている。
王都の人々も、じゃれ合う王子とその新たな友人を笑顔で見守っていた。
オーギュストがこんなに自然にみんなの前で笑えるなんて。
私は自分の頑張りを少し誇らしく思いながら、尽力した全ての人々に対して人知れず杯を掲げた。
このようにして降臨祭の宴の夜は平和に更けていったのだった。