空の玉座1
──鐘の音だ。
オーギュスト・イグニシアは、朦朧とした意識の中で、鳴り続ける鐘を聞いていた。
誰かの結婚式か、それとも葬儀か。
祝い事ならいいのに。
オーギュストはそう思った。
悲しいことは、もうたくさんだった。
鐘の音に混じって、誰かの声がする。
ああ、あの子の声だ。
そろそろ起きなければならない。
オーギュストの意識は、深い海の底から浮かび上がる泡沫のように、ゆっくりと覚醒していく。
☆
オーギュストは隠し通路に置かれた柩の中で、無数の白い花弁に埋もれていた。
目を覚ました彼が最初に考えたのは「溺れる!」という危機感だった。
何も分からないままに手を伸ばしたオーギュストの手を、エーリカ・アウレリアが握る。
「オーギュスト様!」
彼女の声は、他の何よりも効果的にオーギュストの心に響き、最終的に彼の意識をはっきりと覚醒させた。
落ち着きを取り戻したオーギュストは、花弁をかき分けて半身を起こす。
「うう、エーリカ……ここは……? 私は、いったい……?」
「大聖堂の隠し部屋です」
「隠し部屋──ああ、壁画の下か。よく見つけたね。言い伝えを知っている王族でも、一部しか気づかないくらいなのに」
「でも、よかった。本当に死んでしまったかと思いました」
エーリカに言われて、オーギュストは自分の寝ていた場所が柩の中であることに気づく。
彼は引きつった笑みを浮かべた。
「うわ、縁起でもないな……」
「まったくですよ。悪趣味な……あいたたた。いえ、何でもないです」
エーリカの肩には、一匹の猫が乗っていた。
猫はじゃれつくようにエーリカの頬をぐりぐりと肉球で押している。
可愛らしく、微笑ましい光景に、オーギュストは破顔した。
「どうしたんだ? その子?」
「えーと、混乱の最中に色々あって、拾ってしまいまして」
「へえ、それは羨ましいなあ。猫だけじゃなくて、野良王子も拾って欲しいところだけど……って和んでる場合じゃないか。混乱だって?」
オーギュストは大聖堂の地下に至るまでの自分の所行を思い出す。
なぜか記憶がところどころでぼやけていたが、それでも混乱の原因が自分なのは、はっきりと分かった。
「そうか……私は、能力が暴走して……」
どんなに考えても、壁画の隠し階段を下りた後のことが思い出せない。
オーギュストはかすかに痛む頭を押さえた。
何かがあったはずだ。
隠し部屋に入り、エーリカに発見されるまでの間に、何かが。
そうでなければ、オーギュストには説明することができなかった。
オーギュストの記憶によると、『目を覚ます前の彼は、身辺護衛用の小型竜一頭と感応するのが精一杯の弱い力しか持たなかった』はずだ。
それなのに、彼の中には、自分でも恐ろしくなるくらいに圧倒的な精神感応力が渦巻いていた。
「契約の獣が……あいつ、何かしたのか? 私は、あいつに願ったのか?」
「オーギュスト様、目覚めたばかりですので、ご無理は……」
「大丈夫だ、エーリカ。少し確かめたいことがあるんだ」
オーギュストはエーリカの手を借りながら石床に降り立ち、すぐそばの壁に手を触れた。
彼は何度か壁を押し、次に全身で寄りかかり、何度も壁を叩いた。
「開かない……くっ! だめだ、部屋が消えている。空洞の痕跡すらない」
「オーギュスト様」
「ここに、契約の獣の眠る玄室が……天使の玄室があったはずなんだ。それなのに」
手のひらに掬った砂がこぼれ落ちていくように、オーギュストの記憶から契約の獣に関することが抜け落ちていく。
既にその人物の顔も名前も思い出せない。
気を抜けば、その人物がいたこと自体、忘れ去ってしまいかねなかった。
拒絶されたのか、とオーギュストは思った。
身勝手な願いで怒らせてしまい、愛想を尽かされたのだ。
きっと、天使はどこかに去ってしまったに違いない。
オーギュストは家族の一員を失ってしまったかのような喪失感を覚えていた。
膝から力が抜け、彼は扉だったはずの壁の前でへたり込んでしまった。
「にゃーん……」
エーリカの肩から猫が飛び降り、オーギュストの手を舐める。
オーギュストはどことなく懐かしさを感じる猫の温もりに、慰められたような気がした。
彼は猫の頭を撫で、微笑みかける。
「ありがとう、優しい子だね。私は大丈夫だよ」
「にゃーん、にゃーーん」
オーギュストに撫でられながら、猫はトロンとした顔でじゃれつく。
エーリカはため息をつくと、猫を抱き上げて引き離した。
「にゃっ! にゃー! にゃー!」
「はいはい、今は忙しいから後で構ってもらいなさいね」
「にゃーん……」
「オーギュスト様、この場所のことはひとまず置いておきましょう。まずは、外の混乱をどうにかしなければ」
「なんだって? もしかして、まだ竜達は暴走しつづけているのか?」
オーギュストは意識を外側に向けた。
彼の強力な精神感応能力は、拡げようと思えば、どこまでも広範囲に拡大していく。
瞬時にして百頭以上の竜の精神に接触したオーギュストは、彼女達に深く触れる前に感応領域を閉じた。
彼は、自分の心臓が早鐘を打つのを感じた。
一瞬触れただけで、無数の竜の狂乱した心が逆流していた。
恐ろしい力だ。
慎重に使わなければ、自分の精神も竜の精神も傷ついてしまうだろう。
オーギュストは堅く己の心に戒めた。
「……オーギュスト様?」
「ああ、エーリカ、心配しないでくれ。少し確認してみただけだよ。気絶した竜もいるけれど、大半の竜達はまだ狂乱しているみたいだな」
「どうすれば治まるでしょうか?」
「そうだな。竜騎士たちを動員して、一人一頭ずつ心を結び合わせて内側から直接なだめれば……」
オーギュストは不意に押し黙った。
彼は気づいた。
この圧倒的な感応能力を使えば、一人で数頭……いや、数十頭の竜を止められるのではないか。
そうすれば、他の竜騎士の負担はだいぶ軽くなるはずだ。
「……でも、私にできるのか?」
「にゃん!」
自問していたつもりのオーギュストに答えるように、元気よく猫が鳴いた。
まるで背中を押すようなその鳴き声に、彼は破顔する。
「そうだな、悩んでても仕方ない。ダメで元々だ。外の混乱、他の竜騎士たちが到着するまで、私が少しでも抑えてみよう」
「はい。オーギュスト様にならできるはずです」
「はははは。全くできる根拠がないけどなー」
オーギュストはしっかりと地を踏みしめて立ち上がり、エーリカに手を差し出した。
「ちょっと幸運の女神になってくれないか。お前がそばに居てくれたら、何でもできるような気がするんだ」
「一神教なのに、幸運の女神とか……いいんですか?」
「いいんだよ。うちの神様は女の子には特別優しいから」
エーリカはオーギュストの手を取った。
二人は手をつないで、薄暗い階段を上っていく。
唯一神の壁画の間に出ると、そこにはローブを着たハーファンの魔法使いらしい少年と、オーギュストのジャケットに包まった小型の金竜ゴールドベリが倒れていた。
一人と一頭の傍らには、エーリカの鞄が落ちている。
オーギュストは魔法使いの少年に見覚えはなかったが、何故か彼のことを知っているような錯覚を覚えた。
「彼は……?」
「ああ、この人は私の友人で、ハーファン公爵家のクラウス様です」
「どうしてだろう。彼にはすごく失礼な誤解を受けたような気がするんだけど」
「気のせいです」
エーリカはきっぱりと言った。
オーギュストは不審そうに彼女を見つめた。
そうしているうちに、彼の視線がエーリカの頭頂部に移動していく。
「これも気のせいかも知れないけれど……エーリカの頭に何かがついてたような……」
「気のせいです。断固として気のせいです」
「思い出せない……とても可愛かったはずなのに……」
「そんな事実はありませんでした。諦めて下さい」
オーギュストは何とか思い出そうとしたが、記憶は何かに削り取られたように失われていた。
どうしてなのか彼には分からなかったけれど、とても残念な気持ちになった。
エーリカはクラウスのそばに屈み込み、彼の容態を看る。
「クラウス様はご無事のようです」
「彼も私の精神感応力の暴走に巻き込まれたのか。ハーファンの魔法使いなら、しばらくして魔力が回復すれば、目を覚ますだろうな」
オーギュストは気を失ったゴールドベリを抱え上げた。
彼にとって妹同然とも言える金竜は、安らかな表情で静かに規則的な呼吸を繰り返している。
その様子に、ほっと胸を撫で下ろした。
ゴールドベリも、ただ眠っているだけのようだ。
精神を感応させて目覚めさせようとして、オーギュストははたと戸惑った。
この圧倒的な力のまま、無造作に触れて大丈夫だろうか。
ゴールドベリの精神を握り潰しはしまいか。
オーギュストは、その想像にぞっとしてしまった。
「オーギュスト様? ゴールドベリに何か……?」
「大丈夫だ。今起こしてみる」
オーギュストは、今まで竜と感応を試みたどのときよりも、慎重にアプローチする。
騒ぎそうになる心をどうにか鎮め、そっとゴールドベリの精神に触れた。
卵が割れないように、それでいて落とさないように握るようなイメージで、出力を微細に調整する。
気絶していることで滑らかに見えたゴールドベリの心の境界面にも、正の感情や負の感情の様々な種類のさざ波があり、細かに揺らめいていた。
それはまるで、一見滑らかに見える卵の殻に存在する、小さなでこぼこを思わせた。
接触面に集中しすぎて、危うく自分の心の表面を走っていた不安の波を見過ごすところだった。
力加減を誤りそうになって、オーギュストは慌ててゴールドベリから感応の力を引っ込めた。
オーギュストは深呼吸し、今度は自分の心を見つめた。
平静な心で相手に触れるために、負の感情の作る波をかき消そうとする。
しかし、これも誤りだと気づく。
負の感情を消そうとすると、別の場所で別の負の感情が波紋を作り出す。
自分の心を否定し、無理に形を整えようとすることで、余計に歪になっていく。
これでもだめだ。
オーギュストは自分の歪な心の形をそのままに、その形を利用して感応の力の濃度の配分を調節していく。
ゴールドベリを見つめる部分、自分の心に合わせて力加減を調節する部分。
そして、それらの動きを俯瞰して統制する部分、相互作用のための緩衝を行う部分。
自分の精神の中にいくつかの役割を振り分け、バランスを保ちながら、慎重にゴールドベリに接触する。
「キュ……キュルル……?」
オーギュストの精神に引っ張られ、ゴールドベリがゆっくりと覚醒する。
小さな瞼が震え、オーギュストの腕の中で金竜が首をもたげた。
オーギュストは自分の感覚を維持しながらも、その一部は完全にゴールドベリの感覚と同調していた。
二つの異なる視覚、異なる嗅覚、異なる触覚──人間と竜との脈動のリズムの違いすらも感じていた。
しかし、ゴールドベリの精神を塗りつぶすこともなく、逆に自分の精神を開け渡すこともない。
初めての感覚だったが、オーギュストにはこれが正しい方法なのだと本能的に理解できた。
ゴールドベリの翼を羽ばたかせ、彼女を舞い上がらせる。
自分やエーリカの頭上を飛行させながら、もう一度感応領域を拡げ、他の竜の位置を探ってみた。
先程よりも正確に、今度は同時に彼女達の精神状態まで知覚する。
竜達の不安や狂乱を逆流させないように境界面をしっかりと保ちながらも、不用意に自分の感情で上書いてしまわないように、そっと羽根の先で撫でるように触れていく。
そんな広範囲の精密作業を行いながら、ゴールドベリの肉体も制御する。
オーギュストはゴールドベリを自分の肩に着地させ、同時に感応領域を縮小した。
さっきとは別の感情で、鼓動が早まっている。
静かな高揚感が、体の奥底からわき上がってくるのを感じた。
「エーリカ、今の私なら、できるかも知れない」
「はい」
「他の竜騎士を待つまでもなく、王都に居る竜全て、私だけで鎮められるかも知れない」
オーギュストの言葉に、エーリカが笑みを浮かべる。
そして、彼女の肩に乗った猫もまた、まるで微笑むかのように目を細めたのだった。