天使の玄室10
パリューグが戦意を喪失したのを確認して、オーギュストは精神干渉の能力を解いたようだった。
パリューグの体の強ばりが解け、同時にオーギュストの体がふらりと傾ぐ。
倒れかけたオーギュストを、パリューグが柔らかく受け止めた。
『オーギュスト!
どうしてこんな無茶を!
魂の力を妾に分けたのだから、普通なら契約の完遂まで動けないはずなのに!』
「ああ、ぐっすり寝てたんだけどな。
どうにも……暑苦しくてうるさい声が聞こえてね」
オーギュストは、ちらりと倒れ臥したクラウスの方に視線を送る。
そうか、クラウスが気絶する直前の会話の相手は、オーギュストだったのか。
「動けないなら体を貸す。だからお前がエーリカを守れ。そのせいで命を失っても構わない……とまで言われて、私が何もしないわけにはいかないさ」
『オーギュスト……』
「お陰で、途中からは全部聞いてたし、何とか間に合ったよ」
なるほど、クラウスの言いそうな事だ。
オーギュストはふらつきながらも自分の足で立ち上がる。
「ごめんな、エーリカ。危ない目に遭わせてしまった。まさか、こんな所まで追いかけてくるとは思わなくて」
「いえ、私が勝手にやったことですから」
「それでも、止めてくれてありがとう。どうにか、最悪の過ちを犯す前に踏み止まることができた」
オーギュストは柔らかく微笑んだ。
その表情には疲労がにじんでいるものの、どこか晴れ晴れとしているような気がする。
オーギュストは支えを拒み、私からもパリューグからも離れた場所に立った。
ちょうど、三者を結ぶと正三角形になりそうな位置だ。
その態度などから、彼が私とパリューグのどちらにも肩入れしない、中立の立場を主張しているように感じた。
「さっきの問題、私が正解を告げれば不正にはならないはずだ。パリューグ、そういう前例もあったよな?」
オーギュストの問いに、パリューグは静かに頷く。
パリューグは先程までの好戦的な態度が嘘のように、すっかりしおらしくなっていた。
その様子は、まるで断罪を待つ囚人のようでもある。
「私が最も大事に思っている相手は誰なのか……だったな。もう一度、答えてくれ、パリューグ」
パリューグは何度も躊躇いながら、再びその答えを口にする。
『お前が最も大事に思っている者──
それは、遠くの土地からやって来た娘。
それは、お前の孤独を癒した娘。
彼女はほんの僅かな時間のうちに、お前の心に入り込んだ。
そして、お前にとって、無くてはならない者になった』
「ああ、そこまでは正しい」
『それは、遠い海より来る錬金術師の末裔。
美しくも儚い、金色の髪と海の色の瞳を持つ少女。
お前が愛する者の名は、エーリカ・アウレリア──そうでしょう?』
オーギュストは困ったように笑い、ゆっくりと首を横に振った。
「パリューグ、それは間違いだ」
『妾を騙す事はできないのよ、オーギュスト。
あなたは心の底で誰を望んでいる?』
「これは多分、まだ愛や恋には至らない感情なんだ。
そう、例えば、ずっと光のない闇の中を歩いていた子供が、ふと夜空を見上げた。
彼は真っ暗な夜空に、ただ一粒の星の輝きを見つけた。
彼は、たとえ手が届かなくても、その星が欲しいと思ってしまった──これは、ただそれだけのお話だよ」
オーギュストは、天井を見上げ、見えない星に手を伸ばすかのような仕草をした。
その言葉で、私は少し安心をしてしまった。
多分、私はまだそういう事柄に自分が巻き込まれる事が、怖いのだ。
「この気持ちは、もっと幼い欲望なんだ。
だから、大事と言えば大事だけれど、エーリカはまだ最も大事な者じゃない」
オーギュストは視線を下ろし、パリューグを見据える。
パリューグは未だに納得のいかなそうな表情で、彼を見つめ返した。
「遠くの土地からやって来て、私の孤独を癒した。彼女は僅かな時間のうちに私の心に入り込み、無くてはならない者になった。そこまでは正しいよ」
『では、何者だと言うの? ずっとあなたのそばにいたけれど、そんな女は一人もいなかった!』
「なんだ。お前も他人のことは言えないな」
オーギュストは、初めて出会った日と同じ笑みを浮かべて、パリューグに人差し指を向けた。
「私の最も大事な者、それは、パリューグ……お前だよ」
なるほど、パリューグはずっとオーギュストの友達だったんだから。
一番大事なのも無理はない。
パリューグは驚愕の表情で数歩後ずさった。
だんだん彼女がの目が涙目に、そして顔が真っ赤になっていく。
怒りと、それ以外の様々な感情が溢れ返っているのが、パリューグの表情でよく分かった。
『な、何を言ってるの?
適当なことを言って、妾をたばかろうと言うのね。
妾は騙されないわよ。
いくらエーリカを助けるためだからって、契約の儀式においてそんな反則は許されないわ』
オーギュストは首を振り、パリューグを見つめて答える。
「パリューグ、お前はずっとそばにいてくれた。
私が自分の血の正統性に疑念を抱き、母上とまともに会話できなくなったとき、お前は母上代わりにずっと寄り添ってくれた。
私が謂れの無い中傷や無責任な風聞のせいで孤立してしまったときも、そばにいてくれた」
『オーギュスト……。そんな……』
「星が見えるところまで歩いて来れたのは、私が一人じゃなかったからだ。
私の手を引いていてくれた、お前の手の温もりがあったからだ。
そうでなければ、私は光の無い暗闇の中で、いつまでもうずくまっていただけだろう。
──こんな答えじゃ、お前は納得できないかな?」
パリューグはオーギュストの言葉に、がくりと膝をついた。
長く伸ばされていた炎の爪も、いつの間にか引っ込んでいる。
『妾は、お前のためなら、この命を失ってもよかったのに。
いや、むしろお前だけのために、この命を使ってしまいたかったのに』
「私は、お前を犠牲にしてまで、空を飛びたくはない。
奇跡の代償がお前の命だと知っていたら、私は願わなかった。
もしも、知らずにお前を犠牲にしていたら、きっと私は私を許せなかったはずだ」
パリューグはその言葉に、寂しそうな笑みを浮かべる。
『……優しい王子様。
妾は、残された時間が少ないことを、お前に教えたくなかったのよ。
そうやって、お前は自分の夢を、願いを諦めてしまうから』
「いいや。優しいのはお前の方だ」
オーギュストはパリューグに歩み寄り、毛皮に覆われたその両腕に自分の手を添えた。
パリューグは顔を上げ、オーギュストを見つめる。
オーギュストは、どこか申し訳なさそうな笑みを浮かべた。
「お前に謝らなきゃいけないことがある。
私はずっと、お前が優しすぎるせいで、私に都合のいい嘘をつき続けているんだと思っていた。
そのせいで私は自分を信じることができないと……お前のせいで自信が持てないんだと自分に言い聞かせて、逃げていた。
そうじゃない、私が恐がっていただけなんだ。
もしかすると、本当に父の血を引いていないんじゃないか。私には竜に乗る才能がないんじゃないかって」
『オーギュスト……』
「でも、これからは違う。
今度は心から、お前の信じた私を、私も信じようと思う。
たとえお前が言ったことが全て嘘でも、私が真実に変えてみせる。
お前を嘘つきになんてしないよ」
パリューグはオーギュストに抱きつき、彼の肩に顔を埋めた。
表情は見えないけれど、彼女の肩は小刻みに震え、嗚咽に似た小さな呻きが聞こえる。
オーギュストはパリューグの頭をぽんぽんと撫でながら言った。
「約束するよ、パリューグ。
私は弱い自分に打ち勝って、今度こそ自分の力で、あの空に辿り着くんだ」
しばらくしてパリューグは顔を上げ、オーギュストから離れた。
それはどこか晴れ晴れとした表情で、彼女が泣いていたかどうか、結局分からなかった。
パリューグは深いため息を吐いてから、オーギュストを見つめる。
『まったく、この我がまま王子ときたら……自分から誘ったくせに、ふるなんて最低……』
「ごめん、ごめんな」
言葉とは裏腹に、パリューグの声は優しい。
その様子に、私も安堵する。
『ねえ、オーギュスト。私も謝ることがあるわ』
「うん、言いなよ。何でも許してやるから」
『契約について、お前にまだ隠していたことがあるの。再契約によって新たな主を持つ事になった場合、私に関わった人間から私の記憶が消えるのよ』
「……何だって!?」
「ちょ、ちょっと、パリューグさん!」
私は死にたくなかっただけで、そうまでして奇跡なんて欲しくない。
オーギュストからあなたを奪うつもりなんてない。
そう主張するよりも早く、パリューグは声高に宣言する。
『我、天使ペスティレンスは賢き人間に敗北を認める。
これより、我はアウレリアの姫君、エーリカを主とする。
我はその願いを我が全存在をかけて叶えることを、我が神に誓う』
その言葉とともに、部屋を彩る壁面の光の色が変わっていく。
禍々しい血のような赤から、太陽の光のような金色へ。
天井からは金色の花弁のように、光の粒子がゆっくりと舞い落ちてくる。
『さようなら、オーギュスト。これより先のお前の人生が、光溢れるものでありますように』
パリューグはそう言ってオーギュストの額に口づけた。
同時に、オーギュストの瞼は重く垂れ、彼の体がふらりと傾ぐ。
「待て、パリューグ、私はまだ……お前、に……」
オーギュストはパリューグに手を伸ばすが、その手は空を切る。
倒れるオーギュストを受け止め、パリューグは優しく彼の体を床に横たえた。
降り注ぐ光の粒子は、倒れ臥したオーギュストやクラウスに浸透していく。
ティルナノグの入った鞄の周囲にも光の粒子が近づいていくが、不思議な力で弾かれているようだった。
『おや、あの蛇には効かないか。なるほど、とことんアウレリアは我が神の力を拒むようね』
「ちょっと待って、この光は何なの?」
『言ったでしょう? 我が神の制約により、妾を知る者の記憶から、妾に関することが消されるの』
「そこまでする必要はないから、お願い、オーギュストの記憶は消さないであげて」
パリューグは諦観の混じった笑みを浮かべ、首を振った。
『これは、神の定めたことだから、どうにもならないの。
太陽が東から昇って西に沈むように、水が上から下に流れるように。
どうやら我が神の理から外れているらしいお前達アウレリアを除いて、この忘却の理から逃れられる者はいないわ。
私にできることは、この現象にほんの少しだけ手を加えて、伝承の基とするための僅かな片鱗を残すことだけ』
「パリューグさん……あなたは、ずっとそうやって人々から忘れられて来たのね?」
天使ペスティレンスの伝承は断片化し、複数の怪物の説話として分化していた。
その理由こそが、この忘却の理だったのだ。
きっと、それらの契約の中には、伝承として定着しなかった出来事もたくさんあっただろう。
彼女は、地上に降りてからの気が遠くなるような長い年月の間、どれだけの出会いと別れを繰り返して来たのだろう。
パリューグは柔和な表情で、私に微笑みかけた。
孤独ゆえに病んだまなざしをしていた時の彼女とは、まったく別物だった。
今更ながらに、彼女は確かに天使なのだと感じる。
『そんな悲しそうな顔をしないでよ。
みんなが妾のことを忘れてしまっても、妾は全部覚えている。
愛しい思い出だけは、ずっと妾と共にあった。
妾は、ずっと幸せだったわ。
それに……お前は、神の理を拒むアウレリアだから。
妾が消滅して、最後の忘却の理が働いても、お前だけは妾のことを覚えていてくれるでしょう?』
「もしかして、あなたは、わざと私に負けたんじゃないですか?」
オーギュストの気持ちを裏切らない、神の制約も破らない。
それでいて、オーギュストに重い業を背負わせないための、数少ない方法。
何者かに倒されるか、再契約すること。
彼女はいつでも私達を殺すことができたのに、色々と理由をつけて先延ばししていた。
もしかすると、彼女は誰かに止めて欲しいと思っていたんじゃないだろうか。
『さあ、どうかしらー?』
パリューグはおどけて、踊るような仕草で私に背を向けた。
それ以上の問いを、やんわりと拒むように。
結局、真相は藪の中である。
『それで? エーリカ・アウレリア、お前は何を望むの?
残念ながら、天使は天使でも妾はほとんど残骸のようなものなの。
だから、永遠の命だとか、究極の美貌だとか、巨万の富なんかは望めないわよ。
きっと妾の叶えられる最後の願いだから、できることなら、妾の命を賭けるに足る願いにして欲しいけど』
背を向けたまま、パリューグは私に問いかけた。
言われて、私は改めて叶えたい願いはないかと考える。
猫耳と尻尾の解除?
いやいや、それは流石にセットになってるよね。
しばらく考えた後、ふと思いついた事を口にしてみた。
「パリューグさんだったら、何を願う?」
『は……?』
パリューグは虚をつかれたのか、呆気にとられた顔をした。
余命僅かな天使から奇跡を搾り取ろうなんて、とんでもない。
だったらやる事は一つのはず。
大事な友達と、その友達のために一肌脱ぐくらいは許されるはずだ。
「ねえ、パリューグさん、天使の残骸だというあなたに、私の奇跡をあげる。
欲しい奇跡を望めばいい。
自身の延命でも、もちろんオーギュストのためでもいい。
それが私が今一番あなたにして欲しい事だし。
こういう願いでも、叶えてもらえるかしら?」
『あなた……自分のために使わないなんてバカなの?
本物の奇跡よ?
誰だって喉から手が出るほど欲しいものよ?
たとえ残骸とはいえ、妾が与えられる奇跡は並の人間が望めるものじゃ無いのよ?
いくら何でも、願いの一つや二つくらいあるでしょ!?』
「別に、何も」
生憎、私はもう十分な奇跡を貰っている。
散々な人生の幕引きの後に、十分に幸せな人生──優しい家族に、人外も混じっているけど良い友達が揃った人生を貰ったのだから、これ以上は望み過ぎだ。
ふと、一瞬だけ、残りの死亡フラグについて思いを馳せてしまった。
あと五つも、こんなヘビーなイベントがあるんだよね。
──いや、今はいい。
それらは私の努力とか友達の助力で何とかしよう。
「あなたの望む奇跡を、あなたの望む分だけ、あなたのために使えばいいの」
私は善人ぶった悪人面でニッコリ微笑んでみる。
天使を誘惑するのだから、悪魔くらいは演じきってみなきゃね。