天使の玄室9
それは耳と言うには、あまりにもモフモフすぎた。
モフモフで手触りが良く三角で、そしてぴょこぴょこ動きすぎた。
それは正に、猫耳だった。
実に精巧に作られた猫耳である。
というか、生の猫耳そのもののようだ。
触ったら温かいし、血も流れている。
脈拍が私と連動していることに気づいて、改めて事態の深刻さを噛み締めた。
仮に元に戻らなかったら、肉体的に死ななくても、社会的に死んでしまう。
ついでに私の心も死ぬだろう。
現に、手鏡に映った私は、魚のような濁った目を通り越して、干物の魚のような目をしていた。
『とーっても可愛くて似合ってるわよ。
お前が勝ったらちゃんと戻してあげるけど、もし気に入ったならずっとその格好でいさせてあげてもいいのよー?』
パリューグはチェシャ猫みたいな笑顔になっている。
私としては、謹んで辞退させて頂きたい。
そう主張したいのだけれど、まだショックから立ち直れておらず、返す言葉が上手くまとまらない有様だった。
……感情を抑えて客観視を心がけてきたけれど、そろそろ限界かも知れない。
こんなのってないよ!
あんまりだよ!
命がかかってるってだけでもギリギリなのに、どうして羞恥心までガンガン突いてくるの!
『ほらほら、可愛らしくなった自分の姿に見とれてる場合じゃないわよ。
次の問題を出す気がないなら、このままお前の負けにしてしまってもいいのよ?』
猫耳に対する羞恥心と肉体浸食に対する恐怖心。
二つの感情で混乱する私に、パリューグは容赦なく勝負の続行を要求する。
次にどんな問いを出題するか、混乱した頭で考えなければならない。
口から出る首はあくび。
パンはパンでも食べられないパンはフライパン。
狸の肩たたきは柿。
不味い誤算だ。
前世で聞きかじったなぞなぞは、大抵言語依存のもので、こちらの言葉に翻訳すると意味が通じない。
今、日本語のなぞなぞを流用するのは却ってよくない。
元の言語に引っ張られて、問題にすらなっていない言葉を口走りそうだ。
やむを得ない。
この一回だけは、自力で問題をひねくり出して、やり過ごさなければ。
普段は使っていないナゾナゾ脳をフル回転させて、どうにか私は一つの問題を作り出す。
「揺りかごであり墓場。柔らかくて堅いもの。小さな海の中に眠る太陽。これはなに?」
パリューグは私の稚拙な問題を聞いて、クスクス笑う。
『あら、そんな簡単なものでいいの?
それは柔らかく生命を包み育む揺りかご。
しかし、堅い殻を破れず死ぬものにとって、そこは墓場。
透明な白身の海の中には、太陽に似た黄金色の黄身が詰まっている。
それは……卵ね?』
「……正解」
頑張って考えたのに、時間稼ぎにすらならなかった。
また出題権がパリューグに移る。
あと二回私が間違えば、私は今度こそパリューグに貪り食われてしまう。
逆に言えば、一回は間違える余裕があることになる。
だけれど、強制猫耳と同等の何かをされるかと思うと、もう二度と間違いたくはない。
『さて、錬金術師の娘。再び問わせてもらうわ。
それはいかなる獣よりも貪欲である。
それは触れるものを喰らい尽くさずにはいられない。
しかし、それは食べるものが無くなれば、たちどころに消え失せる。
それは人に飼い馴らされているが、時に飼い主に牙を剥き、食い殺す。
このモノの名はなあに?』
パリューグの謎掛けに、私はまず犬、猫、その他の魔獣を思い浮かべた。
人を食べることから、大型の肉食獣を連想する。
だけど、そんな単純なものなのかな?
特に、消える失せるってところが分からない。
死ぬのではなくて、消え失せる。
死体が残らないってこと?
あ、もしかして──
「答えは、病。動物も植物も、生きている者は全て何らかの病原体に冒され得る。しかも、死をもたらしたら病自体はなくなってしまうわ」
『うふふふ、なるほど。考えたわね』
私はほっと胸を撫で下ろした。
しかし、私の安堵した様子を見て、パリューグの表情が意地悪そうな笑みに変わる。
『でも、不正解。病は生物以外を喰らわないし、人に飼い馴らされない。
答えは火よ。
火は触れるもの全てを燃やし尽くそうとする。
周囲から可燃物が無くなれば、火は存在することができない。
人間は火を我がものとして自在に操る術を覚えた。
しかし、過ぎたる火は、操ろうとする人間自身を焼き滅ぼす』
ああ、しまった。
食べるって言葉で、生き物だとばかり思っていた。
確かに、謎かけなんだから、喰らうっていうのが喩えでもいいはずだよね。
『さて……これでお前の体の三分の二は妾のもの。覚悟はいいかしら、エーリカ・アウレリア?』
パリューグが流麗な動きで、右手を掲げた。
その爪には猫耳のときと同じ色の光が灯っている。
私は反射的に身を縮め、両手で顔を覆った。
そんな努力も虚しく、パリューグの爪が私の防御をすり抜けて接触する。
(こっ……これは……!?)
私の服の中で、何かが動くのが分かった。
天鵞絨のようになめらかな毛の生えたものが、肌に触れている。
それが服の中に詰まっているせいで、スカートの後ろの方が窮屈だ。
肌に触れる長さと形状から考えて、それは尻尾のようだった。
私はそれを動かし、邪魔にならない位置に伸ばす。
そんなものが生えていることに、そしてそれが意のままに動かせることに、私は恐怖した。
着々と、パリューグが私の体を奪う準備が進んでいる。
『やれやれ、まさかこんなに手応えが無いなんてね。次こそは骨のある問題でなければ許さないわよ』
パリューグは言葉とは裏腹に、にやりと笑って鋭い牙を見せつける。
優位に立っているケダモノの笑みだ。
悔しい。
これ以上負けるわけにはいかない。
ならば、どうすればいい?
正攻法では勝てない。
なぞなぞ勝負という搦め手でも、追いつめられてしまった。
力でも知恵でも、私はパリューグに劣っている。
でも、本当に手詰まりだろうか。
まだ普通の人間である私にも、人知を越えた怪物に対抗できる手段があるんじゃないか。
昔話の怪物退治なら、弱い人間はどうやって怪物を倒した?
例えば、お酒を飲ませて眠らせる。
例えば、おだてたり騙したりして小さく弱い生き物に化けさせる。
例えば、変装して信頼させ、真の名前や弱点を聞き出す。
いずれも、正々堂々とした勝負ではなく、反則や卑怯な手段を含んでいる。
パリューグの謎かけ勝負も、何か反則や卑怯な手段で勝てないだろうか?
でも、単なる反則では、看破されたときが命取りになる。
必要なのは、パリューグが思わず興味を惹かれ、食いつきたくなるような反則だ。
パリューグが強い興味と思い入れを抱くもの。
そんなものは、私は一つしか知らない。
「……オーギュスト王子が」
私はそこで言葉を切る。
その言葉に反応して、パリューグの耳がぴくりと動いた。
表情こそ、静かな微笑を維持したままだ。
しかし、彼女が何も口を挟まず、微笑を続けていること事態が、この話題に注意深く耳を傾けている証拠だ。
私はパリューグの反応を伺いながら、問題を続ける。
「オーギュスト王子が、最も大事に思っている相手は誰か?」
私はこの答えを知らない。
いや、正確にはオーギュストしか知らない。
きっと、オーギュストのことだから、本人に聞いてもはぐらかしてしまうことだろう。
でも、この場合、誰も知らないからこそ好都合なのだ。
本人から否定されない限り、「父」か「母」と言っておけばそれらしい答えになる。
例えば、パリューグが「母」と答えたら「父」を、「父」と答えたら「母」を正解にしてしまうのだ。
「両親」と言われたら……とりあえず、「弟妹」を正解にしておこうか。
複数の正解を用意しておいて、パリューグが答えたのと別のものを正解にしてしまう。
それが私の辿り着いた方法である。
「さあ、答えて。ずっとオーギュストと一緒にいたんだから、簡単なはずでしょう?」
罠に向かって追い立てるため、私は駄目押しとしてパリューグを煽った。
パリューグは問われて、僅かな時間俯いていたが、すぐに顔を上げる。
彼女は鋭い牙を剥き出しにして、凄絶な笑みを浮かべていた。
どきりと心臓が跳ねた。
笑顔こそ浮かべているけれど、ティルナノグと戦っていた時とは比べ物にならないくらい怒っているような気がする。
『おお、忌々しい……まさか、お前が妾にそれを訊くとはね』
「あ、あの、パリューグさん……?」
『ええ、当然知っているわ。知っているとも。ずっとあの子と一緒にいたのだから、気づかないはずがないでしょう?』
パリューグは口元に笑みを浮かべたまま、憎しみの籠った目で私を睨む。
何がいけなかったのか分からない。
でも、確実に私はパリューグの地雷を踏み抜いてしまったらしい。
『悔しい! よくも妾の前で、そんな惚気を吐けたものね!
その答えはお前、西の錬金術師の娘、エーリカ・アウレリアよ。
こんなにも短い間に、お前は王子の孤独を満たし、その心を奪い去って行った』
「え……?」
一瞬、パリューグがなぜ私の名前を呼んだのか分からなかった。
だんだん意味が分かっていくにつれて、驚きが私の胸の中に広がっていく。
いや、流石に無いよね。
会って数日なのに、どうして最も大事な人になれるんだろう。
パリューグの思い込みだとしても、オーギュストに失礼じゃないかな。
でも、万が一、オーギュストが私に恋愛感情を抱いているのが本当なら、私の用意した反則は使えない。
それどころか、私の反応のせいで反則そのものがバレている可能性もある。
『へえ? もしかして、お前は知らなかったの?
知らなかった癖に、妾にそんなことを訊いたのね?
お前は、お前の問いの答えを知らずに、妾を誑るために謎をかけた。
──不正を犯したわね、錬金術師の娘!』
獅子の咆哮にも似た叫びが、玄室に響き渡った。
壁面に刻まれた紋様の光が暗紅色に変わり、じりじりと灼けつくような熱を帯び始めている。
パリューグの怒りに呼応するように、彼女の爪だけでなく、その両腕が炎に包まれていた。
『よくも、神聖なる契約の儀式を、不正な謎で穢したわね。
お前はもはや穢れた供物。
お前を喰らうわけにはいかない。
かくなる上は、お前を殺し、妾に残された僅かな時間で、この王都にいる力ある人間を手当り次第に食い散らすまで。
きっとお前ほど供物に適した逸材はいないでしょうけど、それでも数年分はオーギュストとの融合を維持できる力が賄えるはず。
全ては、この子の願いのため……妾の最後の願いのために!』
強烈な熱気が肌を撫でる。
空気に含まれた高熱で、喉が焼けそうだ。
私はクラウス、ティルナノグ、そしてオーギュストを見た。
クラウスは供物として食べられてしまう可能性がある。
もしかすると、パリューグが勝手にした約束通り、彼一人くらいは見逃してくれるかも知れない。
でも、クラウスの家族、アンやハーファン公爵夫人が被害に遭うかも知れない。
パリューグはティルナノグと激しく反発していた。
パリューグは敵対的な黒竜を生かしておかないだろう。
あるいは、義理堅いティルナノグは私の仇討ちとして、パリューグに無謀な戦いを挑むかも知れない。
オーギュストがパリューグと融合する限り、騎乗能力の喪失は避けられない。
彼は個別ルートのエンディングにおいて、弟の王位継承を邪魔しないために王家から去る意思を匂わせていた。
彼の家族は、彼を失うことになる。
それだけじゃない。
正気を失ったパリューグにとどめを刺すのは、記憶を失ったオーギュストの役目となる。
本人達のあずかり知らないところで起こった悲劇だ。
でも、私は、知ってしまったからには、そんな運命は耐えられない。
後悔が、私の心を埋め尽くしていく。
こんなことだったら、せめてちゃんと勝負に負けて、パリューグに食べられてあげれば良かった。
そしたら、せめてパリューグの心だけは救われたのだろうか。
赤熱した爪が私に迫る。
私は避け得ない死を前にして、覚悟を決めて目を閉じた。
『ぐっ!?』
パリューグのうめき声。
閉じた瞼を通して、まばゆく燃え盛る炎の爪が眼前に迫っているのが分かった。
しかし、一向に爪は私を攻撃してこない。
(どういうことだろう。あんなに怒っていたパリューグが、私を許すはずが無いのに)
私が瞼を開くと、目の前には炎に覆われたパリューグの右腕があった。
彼女の右腕は、今まさに振り下ろされる瞬間で止まっている。
クラウスの仕業?
そう思ったけど、クラウスはまだ床に倒れていた。
呪符も展開されていない。
パリューグは両腕以外は動かせるようだったし、私も中和の魔法なしで動けている。
時間遅延の結界ではない。
じゃあ、なぜ?
私が辺りを見回すと、その人物と目が合った。
「待ってくれ、パリューグ。お前には、エーリカを殺せる権利は無いぜ」
『う……まさか……、ど、どうして……?』
オーギュストが立ち上がり、私達の方に手のひらを向けていた。
額にびっしょりと汗をかいて、今にも倒れそうな顔色で。
私は理解した。
オーギュストは自分の精神干渉の能力の全てを使って、パリューグの動きを止めているのだ。
もちろん、それは本来の使い方ではない。
きっと、彼の肉体と精神には、恐ろしいほどの負荷がかかっているはずだ。
パリューグはまるで悪事を見とがめられた幼子のように怯えた表情で、両腕に灯った炎をかき消す。
それと同時に、彼女は剥き出しだった殺意を厳重にしまい込む。
オーギュストは、苦痛に耐えながら、一歩一歩、パリューグに近づいていく。
全て分かっているような優しげな笑みを浮かべ、彼はこう言った。
「お前だって、その問題の答えを……私にとって一番大事なヤツのことを、知らないじゃないか」