天使の玄室7
クラウスが呪符に纏わせた銀色に輝く魔法陣。
それは、かつて見たことのある時間遅延の結界を作り出す、ハーファンの最上級魔法だ。
私はクラウスの意図を理解し、頷いた。
単純な攻撃ではパリューグには当てることができない。
ならば、当たらざるを得ない状況を作り出せばいいんだ。
私は魔弾の杖を右手に構えたまま、左手でもう一本の杖を抜く。
選んだ杖は、石錐の雨の杖。
魔弾と同様に安価だが、集団戦に向いた攻撃魔法が込められている。
私が石錐の雨の杖を振ると、パリューグは即座に数メートル飛び退いた。
直前まで彼女がいたところに、小粒だが鋭い翡翠の破片が無数に降り注ぐ。
常人には避けるのが難しい範囲攻撃だが、神獣のスピードには通用しないようだ。
でも、ここまでは想定済み。
私は石錐の雨の効果範囲をずらしながら、断続的に翡翠の石片を降らせ続ける。
空中に石片の雲を生成してから降らせる石錐の雨は、発動から攻撃までのタイムラグが大きい。
そこに、私は魔弾を合わせた。
高速で連射された魔力の弾丸の一つが、パリューグの腕をかすめる。
『これはこれは、ずいぶんと姑息な攻撃だこと』
「なりふり構っていられるような相手じゃありませんから」
物理攻撃と魔力攻撃、上方からの低速弾と側面からの高速弾、恣意性の低いバラまきと狙撃。
性質の違う二種類の魔法の同時攻撃。
避ける隙間のない物量押しの弾雨はとうとうパリューグから回避という選択肢を奪い、その一部を防御せざるを得ない状況を作り出していた。
パリューグは毛皮で覆われた前腕で降って来た石片を払い、魔力の弾丸をギリギリで見切って避ける。
彼女の顔には相変わらず笑みが張り付いていたが、それは先程までの余裕に満ちたものではなくなっていた。
『妾なんて、ただの瀕死の獣よ? もう少し手加減なさいな』
「獣は手負いが一番恐ろしいそうですよ」
『ずいぶんと高く評価してくれているのね。そこだけは嬉しいわ』
後先考えない連続攻撃はパリューグを追いつめていたが、同時に私も追いつめられていた。
想定していた以上に、パリューグの回避速度が速い。
その超回避能力に対処しようとすれば、範囲攻撃の消費が増えるのは必然だった。
五十発装填されていた石錐の雨の杖だが、残りの弾数は十を切っていた。
(どうしよう。予備の石錐の雨は準備してあるけど……杖を抜く隙がない)
石片の雨が一瞬でも止めば、その隙をついてパリューグは攻撃してくるだろう。
かと言って、残弾があるうちに魔弾の杖を手放し、右手で石錐の雨を抜くというのもまずい。
石錐の雨を切らすよりましだろうけど、確実に距離を詰められる。
持ち替え直後を乗り切ったとしても、左手で魔弾を操ることになるのは辛い。
選び切れないうちに、石錐の雨の残弾が尽きてしまった。
私は意を決して左手で二本目の石錐の雨を抜く。
乱射された魔力の矢の間を縫うように、接近する神獣の姿が見えた。
パリューグの爪が振りかぶられ──
ナイフのように鋭い爪が、私の眼前でぴたりと止まった。
私自身も、避けようとして足がもつれ、背中から倒れ込みそうになった姿勢のまま固まっている。
落下中だった石片が、空中で浮かんだまま止まっている。
視界の中で動いているのは、銀色に輝く呪符だけだった。
(この魔法は、クラウスの……!)
高速周回する銀色の魔法陣は、私達を通常の時間の流れから切り離していた。
時間遅延の魔法は、隔離された領域をスローモーションのように緩やかに時間の流れる空間に変える。
時間停止に限りなく近い強力な時間制御の魔法によって、神獣すらも例外なくその動きを束縛されていた。
この結界の中で通常通りに動けるのは、術者であるクラウスだけだ。
クラウスは手に一枚の呪符を持ち、複雑な呪文を魔力とともに封入する。
時間制御用の魔法陣と同じ、銀色の光を発し始めたそれを、クラウスは私に貼り付けた。
空中に縫い止められるような感覚が、不意に消え去る。
危うく転びそうになった私を、クラウスが抱きとめて支えた。
「あ、ありがとうございます、クラウス様」
「いや、ギリギリになってすまない……中和の魔法は上手く機能しているようだな」
「中和……? あ、あれ、動ける?」
クラウスに支えられながら、足に力を入れて立ち上がった。
周囲の時間はまだ遅くなっているので、時間遅延の結界は解除されていない。
さっき彼が私に付与した呪文が、遅延された時間流に取り込まれるのを防いでいるようだ。
「器用ですね……」
「あの一戦以来、ずっと試行錯誤していたからな」
クラウスは当然のように言った。
ほんの数ヶ月で最上級魔法をカスタマイズするとか、反則だと思うよ。
「さて、のんびりしている暇はない。多少の応用は効くようになったが、効果時間はさほど延びていないんだ」
「攻撃するなら今のうち、ってことですね」
私は石錐の雨と魔弾の二本の杖をパリューグに向かって連続で振った。
石錐の雨の魔法によって創造された無数の石片が雲のような塊を形作り、魔弾の魔力の弾丸がパリューグの眼前に生成される。
しかし、遅延結界に捕われてしまい、それ以上は動かない。
「使った魔法の分までは中和できなかったか。今後の課題だな……少々克服は難しそうだが」
「どうしましょう?」
「大丈夫だ。俺が攻撃すればいいだけだ」
クラウスは防護陣を展開していた呪符に加速をかけてパリューグに叩き付ける。
しかし、呪符はパリューグに接触する前に着火し、燃え尽きてしまった。
「くっ……この怪物とは、とことん相性が悪いな」
「どうしましょう?」
「紙が当たらないなら、別のものを使うまでだ。お前の展開した魔法を借りるぞ」
そう言ってクラウスは、私の展開した石錐の雨に対してさらに魔法かけた。
翡翠の石片群全体が、青白く輝く魔法陣に包まれる。
石片の表面にはまず水蒸気が凝固した霜が、そしてその上からドライアイスの霜が発生した。
魔法の余波で、部屋全体の気温が下がったような気がする。
どうやら、クラウスが使ったのは冷却の魔法らしい。
確かに、相手が光と熱の怪物なら、冷気系の魔法が有効だ。
「石錐の雨と寒波で、合体魔法石錐の雹ってところか」
「合体魔法って言うほど、私は何もしてないですけどね」
「何にせよ、これで実行者は俺に切り替わった。これなら、攻撃が通るはずだ」
最後にクラウスはいつも呪符にかけている加速系の呪文を上乗せした。
時間遅延結界に、加速の乗った範囲攻撃。
今度こそ回避不能の一撃だ。
クラウスが詠唱の完成とともに腕を振り下ろした。
無数の翡翠の雹が、加速の魔法陣による銀色の軌跡を描いて、パリューグに向かって降り注ぐ。
一瞬の幻想的な光景の後、圧倒的な破壊が巻き起こった。
床に叩き付けられた雹は砕けて、翡翠の破片混じりの霧となって舞い上がる。
破壊された石片や霧は、再びクラウスの制御を離れ、遅延結界に縫い止められた。
煌めく破片を含んだ霧が、うっすらと戦場を覆っている。
霧の濃度は視界を完全に覆い隠すほどではない。
しかし、それなのに、パリューグの姿はどこにも見当たらなかった。
「……消えた? あの怪物はどこに行ったんだ?」
「光と熱でできているそうですから、さっきので完全に消滅してしまったとか」
「まさか。下級とは言え、冷却呪文の乗った呪符を、接触すらせずに消し炭にするようなやつだぞ?」
「でも、時間が遅くなっている結界の中で、逃げられるはずが……クラウス様!?」
目をこらして周囲を伺っていたクラウスの体が傾いだ。
それと同時に、時間遅延の結界や防護陣を形成していた呪符が一斉に破壊される。
私は慌てて彼に駆け寄った。
見た感じ、特に外傷はないようだ。
「く……そうか、光の速度なら……」
クラウスの視線を追って、私もそちらを向いた。
きらりと赤い光が視界を過る。
空中で実体化したパリューグが、ふわりと床の上に降り立つ。
『ご名答。もの凄く疲れるから、できれば使いたくなかったんだけどね。
かなり減速されたけれど、妾は光。
落ちてくる小石なんて、妾から見れば、止まっているのと同じことよ。
まあ、もしも完全に時間を止められてたら、流石の妾でもやられていたでしょうね』
クラウスの体から力が抜けていく。
私の力では彼を支え切れず、クラウスはがくりと膝をついた。
「くそ……、精神干渉さえなければ、まだ……」
「クラウス様!!」
本人が気を失っていても、オーギュストの精神干渉波はまだ発生し続けている。
防護陣を失ったクラウスは、強力な精神干渉に直接晒されているはずだ。
彼の額に大きな汗の玉が浮かぶ。
大量の魔力を削り取られながら、生来の魔法抵抗だけでギリギリ耐えているようだ。
『あーら、思ったより足掻くのね? 諦めて妾の王子様に屈した方が、楽になれるわよ?』
「誰が……、お前の思い通りになど、なってやるか……! 俺は負けない……俺は、エーリカの盾になると、決めたんだ!」
満身創痍で、今にも気を失いそうになっているのに、クラウスは私を庇おうとする。
意識を保っているだけで奇跡的なのに、どうしてそこまで頑張れるのか。
パリューグは薄笑いを浮かべて、クラウスを見下ろしている。
視界の端で、ぴくりとオーギュストの肩が震えたような気がした。
「……何だ、お前は…………、お前も、俺と同じなのか?」
不意にクラウスはパリューグから視線を切り、辺りを見回した。
彼は虚空に向かって、姿の見えない誰かに向かって語りかけていた。
「ええい、お前が何者でも、構わん……、俺の体を操れるのなら、そうするがいい……」
「クラウス様、何を!?」
「人形にでも何でもなってやる。その代わり、必ずこいつを……」
『あらやだ、いけないわ』
パリューグはクラウスの顎に、撫でるような軽さでパンチを繰り出す。
クラウスは声も上げることができず、意識を刈り取られた。
何とか脈はある。
昏倒しているだけのようだ。
『ごめんなさいね。オーギュストにそこまでの業を背負わせるわけにはいかないの。
でも、すごく熱くて素敵だったわ。坊やのこと見直しちゃった。
──だから許してあげる。
感謝なさい。命があることに対して……ね?』
パリューグは倒れたクラウスに優しく微笑んだ。
英雄の介添人としてありつづけてきた神獣は、オーギュストだけでなくクラウスにも将来英雄となる片鱗を見出したのかも知れない。
『さて、エーリカ・アウレリア。
あなたは別よ。あなたは逃がさない』
金色の獅子が私を呼び、見つめる。
私ははっとして、視線を上げた。
ほんの一瞬で、パリューグの表情は外見年齢より遥かに幼い印象に変わった。
その笑顔は、無邪気に虫を踏みつぶすような、残酷な童女の笑みだ。
『もはや妾の命は、数刻たりとも保ちはすまい。
そう……あなたの血肉を、あなたの魂を喰らわない限りは。
他に残された選択肢はないの。
妾は、何が何でも、オーギュストとの契約を履行せねばならない』
一歩一歩、ゆっくりとパリューグは近づいてくる。
私は数歩後ずさった。
これ以上ないほど本能が危険アラームをあげる。
おそらく本気になれば簡単に私たちを焼き殺せたパリューグが、そうしなかった理由。
それは無傷の供物を得る事。
そう、神への捧げものはそういうモノでなくてはならないのだ。
(嫌ぁぁぁぁぁ!! これ、どう考えても踊り食い展開だよ!!)
どうしたらいい?
どうしたらこの危機を逃れられる?
オーギュストは目を覚まさない。
ティルナノグは再生待ちで、まだ動く気配がない。
クラウスも倒されてしまった。
お父様も、エドアルトお兄様も、彼らの役目のために奔走しているし、そもそもこの場所を知らない。
もう、誰も助けは来ない。
そもそも、パリューグの圧倒的な戦闘能力を前に、私の戦意は喪失してしまった。
生存を諦めたわけではないけれど、ほんの僅かな勝算すら見出せない。
こんな、理不尽な獣に、ただの人間が勝てるわけがない。
(──そうでもしなきゃ、人はこんな獣に勝てない)
不意に、オーギュストとの会話が頭の中に甦った。
絶望で真っ黒に染まった思考に、か細い一筋の光が差す。
(──この獣は神様にかけられた呪いで、謎かけを仕掛けられたら受け入れるしかないらしい)
まさか。
まさかとは思うけれど、もしも、断片化された伝承が、全て真実なら。
ようやく見出した小さな希望に、私は賭けた。
「パリューグさん! 聞いて下さい!」
『うふふふふ、命乞いかい? 残念だけど、とっくの昔にそれが通じる状況は過ぎ去ってしまったわ』
恐怖と混乱で回らない頭の中を無理矢理に引っ掻き回し、私はパリューグに相応しい一つの問いを思い出す。
「あ、朝には四本、昼には二本、夕方には三本の足を持つ生き物、これなーんだ!?」