怪物たちの祝祭5
「体の調子は大丈夫かい、エルリック?」
エドアルトに問われて、私は自分の右手を結び、開く。
八年前の暴力事件の後。
長らく、体のどこもかしこも、まるで自分のものではないような違和感しかなかったのに。
すべての釘を戻した今は、驚くほどに馴染んでいた。
聖釘による施術を受けた者は、高い確率で命や正気を失っていく。
しかし、この釘が私を助けることはあれど、私を苛むことは一度もなかった。
試しに右腕だけ鎧化させる。
指先から順に皮膚が銀色の金属に置換され、そして鎧のような重厚な装甲へと変形していく。
外装の変化に合わせ、内部の骨格・筋肉・神経もそれを揮うのに適したものになる。
再び拳を握り、力を込めた。
馴染んでいる。
鎧化した体と生身の体の境界がわからないほどだ。
「やっと万全になった頃合いだよ。君の方はどうだい?」
「当然、万全さ。ハロルド君のおかげで、いい感じに緊張もほぐれたことだしね」
私が握ったままの右手の甲に、こつんと自分の手の甲をぶつけ、エドアルトは楽しそうに笑った。
ハロルド・ニーベルハイム君と別れた後、エドアルトと二人、学舎の廊下を歩いていた。
既に、体感時間で一時間ほど経過している。
「しかし、なかなか着かないね、エルリック」
「待ち遠しそうに言うね。これから狂王や金狼と相対するというのに、まったく動じていないみたいだ」
「大したことないよ。腐れ縁の友達に会いにいくだけさ」
エドアルトは、本当に大したことのないように、言った。
「君はどうなの?」
「私は、私も彼らに会いたいのは同じだけれど、いささか怖いかな」
私たちの目標は、ブラド・クローヒーズとクロード・ルーカンラントの奪還。
ウィント家の魔法使いドロレスは言った。
──金狼王子は、消耗戦に持ち込んでから捕獲を。やり方は問わないわ。
──その後、ホレによって速やかに分離・解呪を。
──問題は、クロードの魂と肉体が積年の酷使や分離の衝撃に耐えられるか。
──狂王は、器の魂と融合直後の限りなく不安定な状態よ。
──鍵となるのは、ブラドの記憶や意識の有無……魂の在り処。
──出来るだけ対話を試みて、ブラドを狂王から呼び起こして。
主な対策に加えて、最悪のケースについての指示もあった。
金狼の呪詛に呪われたり、狂王に取り込まれかけたり、怪物に作り替えられそうになった場合についてだ。
どれも自死を想定に含むような、過酷なものばかりだった。
私やエドアルトが狂王側に取り込まれた場合に何が起こるか聞いてしまっては、受け入れるしかなかった。
長い道を歩きながら、私はちらりとエドアルトを伺う。
どちらかが、あるいは両方が失われるとしたら、言葉を交わすのはこれが最後になるのだろうか。
私は過ぎ去ってしまった幸福な過去を懐かしく思い出しながら、エドアルトに問う。
「……そう言えば、君は私に最初にあった日を覚えているかい?」
軽く目を閉じてから、エドアルトは口を開いた。
「もちろん。あれは入学して三日目の午後。学園の保健室だった」
「そう、保健室で僕がサボっていたら、怪我をした君がやって来たんだよ」
保健室に逃げ込んだのは、同級生からの詮索するような視線に耐えられなかったせいだった。
期待に溢れる、希望に満ちた他の学生が疎ましかったのも、理由の一つ。
「君は、優等生に見えて、けっこう不良だったよね」
「ははは、そうかな? 不良と言うなら、君の方がそうじゃない?」
「僕は単に問題児なだけさ」
エドアルトは自分のことを棚に上げて、笑う。
「あの時は、エドアルト・アウレリアと友達になるなんて、夢にも思ってはいなかったよ」
エドアルトは、特別で幸福な子供に見えた。
すでに沢山のものを持っているのに、さらに多くを欲しがる我儘を許された、幸せな子供。
そんな人間とは、生涯分かり合えないと、思っていた。
そう判断した私は、それからだいぶ後悔することになった。
所詮他人の事情なんて、本当に外側からじゃ判断できやしない。
「思い返せば、君は僕のことに全然興味がなさそうだった」
「あはは、そんなに私は冷淡だったかな?」
「そりゃね。僕に対して、ほとんどの他人は好悪がはっきりしていたのに、君ときたら、僕を空気扱いだもの」
長らく暗い場所にいたから、明るすぎる場所では、眩しすぎて何も見えなかった。
あの頃の私には、エドアルトもブラドもクロードも眩しくて見えていなかった。
正しく見ることが出来ていたら、あの地下での出来事を回避できたのでは、と思ってしまうのは私の傲慢だろうか。
「じゃあ、ブラドに会った時のことは覚えている?」
私は続けてエドアルトに尋ねた。
長い付き合いだというのに、こんなことも知らないままだった。
「僕がまだ六つ、いや七つの頃だったかな? 母がリーンデースを訪問するときに、連れられてきた。その頃のブラドは、魔法研究所から一歩も出られなくてね、だから、僕は暇なブラドのための遊び相手に選ばれたんだと思ってたよ」
「今でもそう思う?」
ウィントの未来視によると、エドアルトが狂王を倒せる可能性はほぼゼロ。
そんな彼に、彼の母は、ドロレス・ウィントとの約束通りに、自分の代理を望んでいたとしたら?
それは命を投げ捨てて、狂王を止めることを意味する。
「今となっては母の意図なんてわからないからね。僕はそう思っておくよ」
エドアルトは笑って、小さく肩をすくめた。
今でも眩しく感じる輝きの向こうで、エドアルトはどこか寂しそうに見えた。
私は、二人が裏表なく、ただ友人となるために引き合されたのであればいいのにと願った。
言葉に詰まった私を、エドアルトはちらりと気遣わしげに見る。
「君は彼女の……ドロレス・ウィントの言ったことは全て真実だと思ってる?」
エドアルトは、私に尋ねた。
ウィント家の魔法使い達に選定された、狂王殺しの勇者。
そんな夢みたいなことを言われても、実感はない。
でも、なぜ私がリーンデースに辿り着けたのかは、よく分かった。
命からがら故郷から逃げ出して、逃げ延びたはずの場所でも幾度も暗殺されかけて。
それなのに、今もこうして逃げ延びて、生き延びられている理由。
千里眼の魔法使いたちが裏で糸を引いていたのならば、辻褄があう。
全ては、私をリーンデースへ、ブラド・クローヒーズのところへ連れてくるために。
不自然で不可解な私の人生の、答え合わせだね。
「真実ならば、全てが腑に落ちる気がしているよ」
私はこの出会いに感謝していた。
仮に殺し合うためだったとしても。
そんな答えを、どう言葉にしようか迷っているうちに、エドアルトは立ち止まった。
突如、回廊の真ん中に、古く大きな扉が現れた。
空中に浮き上がっていて、反対側に回っても何も見えない。
「これが彼女の用意した侵入経路ってことかな、エドアルト」
「そうだろうね。まだ話の途中だったんだけど」
「仕方ないよ。この続きは、帰ってからにしようか」
エドアルトが笑みを返す。
私は頷いた。
そう、この続きは、願わくはブラドとクロードを交えて、四人で。
私たちは扉を開き、歪な形で復活しつつある第四屍都・アンヌンに足を踏み入れた。
☆
螺旋階段を登った先には、真っすぐな長い廊下が続いていた。
ドロレス・ウィントが私たちの手帳に転写した地図によると、廊下の先には大きめの部屋がある。
その部屋は二つ目の螺旋階段に続いており、それを登りきると王の間がある。
狂王は王の間にいるのではないか、というのがドロレスの予測だ。
そして、千里眼の魔法使いの予測というものは、ほぼ事実と同等の意味を持つ。
私は大部屋に誰もいないことを確認して、踏み込む。
しかし、エドアルトは私の肩をつかんで制止した。
「待つんだ、エルリック」
部屋の中央あたりに、ぽたりと一滴の黒い雫が落ちた。
黒い雫は瞬く間に膨れ上がり、蠢く肉塊へと変わった。
肉塊は徐々に別の形を取り始める。
大きさは人の二倍ほど。
概形は人のようだが、よく見れば明らかに違う。
頭部には、いくつもの人間の顔面が沸き立つ泡のように浮かんでいる。
肩から先は無数に枝分かれし、歪な人間の腕が束になって垂れ下がっていた。
多頭多腕の巨人。
悪趣味にも、その怪物の無数の顔は、全て笑顔を浮かべている。
「古い吸血鬼ではなさそうだね、エドアルト。生まれたてってところかな」
「タチの悪い呪術は仕込まれていなそうだ」
霊視の魔眼を通して生成過程を観察し、私は結論づけた。
自ら取り込んだ人間の魂を元に、狂王が呪いを練り込んで作った即席の怪物だ。
長く残り、学習を重ねれば脅威となるだろう。
エドアルトもまた、片眼鏡に仕込んだ魔眼で確認したようだった。
同じものを見ていても、着眼点が違うのが面白いところだ。
確かに、呪術としては構成が強化のみに特化された、単純なもののようだ。
おそらく復活直後の狂王の手遊びで生まれた怪物だろう。
金狼のように、解析不能・解呪不能まで練られた呪術ではない。
「よし、突破しよう」
初手、エドアルトは何の躊躇もなく分解の杖を振る。
分解を受ける前に、視界から多頭多腕の怪物が喪失した。
怪物がいた場所の向こう側の壁が、分解されて円形にくり抜かれる。
魔法の痕跡から察するに、転移系統の呪文だ。
残存する魔力の量や波長から考えて短距離のみだが、充分な脅威だ。
しかし、どこへ消えたのか?
「エルリック、気づいたかい?」
「ああ、転移して次に現れるまでの間に時間差がある。これって……」
「僕の動きだ」
エドアルトに似た怪物。
弥が上にも、これから出会うこととなる狂王の悪質さにうんざりする。
即座にエドアルトと背中合わせになり、あたりを見回す。
上方から、南方の古語で「肉を剥ぐ」という呟きが繰り返し聞こえた。
エドアルトは瞬時に場所替えで部屋の対角へ転移した。
ソレは私目掛けて落ちてきた。
すぐさま、腕を鎧化し、迎撃する。
触れたかと思った次の瞬間、その巨大な怪物は再び消えていた。
──っ!
腕に、激痛が走る。
鎧化した腕部の装甲の一部が引き剥がされていた。
──いったい、何をされた?
私は再度の鎧化で負傷部を覆い、再生する。
エドアルトの視線の先には、先ほどの多頭多腕がゆるりと佇んでいた。
私から引き剥がした銀色の破片を、興味深そうに両腕で弄びながら眺めている。
そのうち飽きたのか、口に入れて咀嚼しはじめた。
「触れた対象の一部を剥いで一緒に転移する能力があるようだね」
「仕方ないな。物資は本命にとっておきたかったのに」
エドアルトが短杖を左手に持ち替えた。
彼は、彼のごく身近な人間の前にいるときだけ、生まれつきの利き手を使う。
エドアルトはアウレリアの中でも特殊な体質をしていた。
首から下の右半身は低阻害値、左半身は高阻害値を持ち、首から上はその反対だ。
低阻害値の右手は短杖の充填に適している。
高阻害値の左手に短杖を握れば、拡張が使える。
多種多様な魔眼を組み込んだレンズを、両目でなく右の片眼鏡だけに仕込んでいるのも、特異体質のためだ。
エドアルトは魔弾の起点を部屋全体に敷き詰めた。
多頭多腕は即座に転移して消失する。
しかし、魔弾の照準は持続式・広範囲に拡張されていた。
怪物が再出現すれば強制命中する仕組みのようだ。
怪物が現れる前に、エドアルトは右手で抜いた遅延型の特殊な場所替えの杖を振った。
次の瞬間、エドアルトと私は一時的に世界から消失する。
私たちが再び現れたとき、部屋には一握りの灰だけが残っていた。
「エドアルト、君はいつも容赦がないよね」
「見た目に反して、ずいぶんと耐久力が低いね。おそらく狂王の暇つぶしの手遊びで作られたものか、あるいは彼の登場を待つための前座だ」
ピンと張りつめるような、冷たい冬の空気。
重苦しい死の香りが、ほのかに入り混じっている。
静寂の中、足音が響く。
それと、金属でできた重い何かを引きずるような音。
螺旋階段から現れたのは、クロード・ルーカンラントだった。
クロードはこちらを睥睨すると、引きずっていた分厚い大剣を担ぐように構えた。
体の大半が狼に侵食されて、獣人のような姿だ。
顔立ちには積年の苦悩が残る。
彼は、少し前に私たちを強襲した学生時代のクロードではなく、ハーランの監禁から逃れたクロードだ。
──長い旅路だったろう、クロード・ルーカンラント。
私は心の中を漁って、彼に対する憎しみを探した。
でも、全ての顛末がわかった今、私の中にそんな感情は一つもなかった。
運命が君を選ばなかったら、私がそちら側にいたのだろう。
「久しぶりだね、クロード。空しい退屈しのぎもとっくに飽きた頃だろう? 迎えにきたよ」
エドアルトの呼びかけに、答えは帰ってこなかった。
クロードは後肢に力をため、跳躍する。
エドアルトは短杖を抜いて身構え、私はクロードを迂回するように螺旋階段を目指して疾駆する。
クロードは、先へ進もうとする私には目もくれず、エドアルトに肉薄する。
予想通り。
狂王は、エドアルトを警戒している。
クロードが大剣を振りかぶった瞬間、エドアルトは短杖を振った。
私とエドアルトの位置が入れ替わり、眼前にクロードの姿が現れる。
私は鎧化した拳を剣身に叩き付け、受け流す。
「エルリック! そいつを正気に返してやってくれ!」
「ああ! エドアルト、どうかブラドを頼むよ!」
クロード越しに、エドアルトに微笑む。
エドアルトは振り返ることなく、螺旋階段を駆け上がっていく。
二人で相談して決めたことだった。
エドアルトはブラドを。
私はクロードを救い出すと。
エドアルトを追おうとする金狼に体当たりし、弾き飛ばす。
転がりながらも床に爪をたてて停止したクロードは、ようやく私を見た。
「やっと正々堂々の勝負だ。この方が君も楽しいだろうよ、クロード」
私はローブを脱いだ。
四肢・胴体だけでなく耳の後ろまで金属質の鎧の姿へ変化させる。
クロードは一声吠えると、全身に力を込めた。
筋肉が肥大化し、骨格が歪んで狼のものに変わる。
しかし、獣化の度合いが増したように見えたのも一瞬で、すぐに元に戻った。
いや、元に戻ったのではない。
獣化し、膨張した体を、無理矢理に人間のサイズに押し込めているのだろう。
毛皮に押さえ込まれた筋肉が、暴れうねっているのがわかる。
人型の獣が、深く息を吐く。
むせ返るような獣の匂い。
体格こそ元のクロードのものだが、本質は幻獣としての金狼に近いはずだ。
これが本気の姿ということか。
金狼は大剣を掲げる。
それは重々しく、無骨な鉄塊だった。
先端は平たく、切っ先はない。
戦闘用の剣の類いではなく、ただ首を落とすためだけに作られた処刑用の剣の特徴だ。
この武器を与えたのが狂王その人だとしたら、なんという皮肉なのだろう。
須臾の間、視線を交わす。
私の瞬きに合わせて、獣は踊るように飛びかかってきた。
──速い。
回避が間に合わず、横薙ぎの剣撃を辛うじて装甲の厚い手甲で受けて防御する。
金狼は、そのまま押し切るように剣を振り抜く。
今度は私が転がる番だった。
受け身を取り、体勢を立て直す。
切断こそ免れたが、装甲がひしゃげ、衝撃で左前腕と肋が折れた。
咳き込みそうになるのを堪え、即座に再鎧化して再生する。
元々、速さ比べでは分が悪かった。
金狼による浸食が深まったせいか、わずかだった差が今では大きく開いている。
獣ゆえに、迷いもない。
だけど、そんなことは私も分かっていた。
呼吸を整え、呪文を詠唱する。
金狼はあっという間に距離を詰め、処刑剣を揮う。
さながら死の風車だ。
刃が私の頸を捕らえる寸前、呪文が間に合った。
間一髪、私は上体を反らして死を免れる。
装甲と刃が触れ、火花が散った。
身体と感覚を同時に加速する、時間魔法の速度上昇。
血統への依存が少ないハーファンの魔法が、私の切り札だった。
仰け反った勢いのままに、金狼の剣を蹴り上げる。
武器を手放させることこそできなかったが、バランスは崩せた。
だが、バランスを崩しているのは私の方も同じ。
金狼は左腕を獣化させ、鉤爪で伸び切った脚を狙う。
私は詠唱短縮した電光石火を発動した。
爆発的な加速を得た私は、鉤爪を回避しながら金狼の顎を蹴り砕き、そのままの勢いで数歩分の間合いをとった。
次の瞬間、神経が焼き切られるような痛みが全身を襲う。
電光石火の反動だ。
神経伝達を魔法的な電気信号に置き換え、一時的に超加速する呪文。
それ故に、使用後には電撃魔法を直接体内に喰らったのと同等のダメージを負う。
完全な聖釘の再生力があれば何とか使えるが、それでも多用はできない。
金狼は砕かれた顎を再生し、再び私に飛びかかってくる。
私は剣の間合いの内側に踏み込み、再生したばかりの顎に拳を叩き込んだ。
金狼は反撃し、私の肩に剣の柄を叩き付ける。
骨が砕ける嫌な音がした。
追撃を受ける前に、地属性呪文の長馳せの詠唱が完了した。
私はギリギリのところで剣撃を避け、金狼の側面に回る。
金狼はすぐさま反応し、回し蹴りを放つ。
私もほぼ同時に脇腹を蹴り、双方ともに吹き飛ばされて再び間合いが空く。
あの剣は厄介だ。
スピードが互角でも、間合いの分先手を取られる。
パワーが釣り合っていても、遠心力の分向こうが重い。
やたらと頑丈で、聖騎士の膂力でも破壊が困難だ。
生身のクロードよりも遥かに握力が強く、容易には手放してくれそうにない。
──いや、この方法なら。
思いついてしまった。
あまりいい手とは思えないが、他に手はない。
私はガードを固め、姿勢を低くして金狼の間合いに飛び込む。
金狼は既に私の踏み込みの深さを読んでいたらしく、退きながら牽制の突きを繰り出す。
切っ先がなく、刺し貫けない剣でも、鈍器としては有効だ。
拳をぶつけて軌道を逸らす。
位置を入れ替えながら、数合打ち合う。
そのうちこちらが受けきれなくなり、ガードが弾かれた。
がら空きの胴に、横薙ぎの剣閃が叩き込まれる。
それを待っていた。
敢えて表層の鎧化を解き、生身で刃を受けた。
内部の重要器官に届く前に、再び鎧化して、装甲を剣に食い込ませる。
衝撃で吹き飛ばされないように、自分に重力鎚の呪文を撃ち込み、踏ん張る。
すさまじく痛い。
増加した重力の負荷で骨が軋む。
だけど──
「──獲った」
左腕で剣を抱え込み、右の拳で金狼の手の骨を砕く。
私は金狼の手から剣を引きはがし、そのまま投げ飛ばした。
剣を拾いに走った金狼に、電光石火で追いついてボディブローを叩き込む。
金狼はよろめき、牙を剥き出して吠えた。
今度は金狼の方から私に間合いを詰め、殴り掛かってくる。
私はそれに応じ、獣に拳を叩き込んだ。
純粋な殴り合いが始まった。
拳を交わし、骨を砕き、再生し、もう一度互いを破壊し合う。
まるで七年前のクロードとの戦いを反復するかのような殴り合い。
ここからは、私の耐久性と金狼の再生能力の勝負だ。
何度打ち倒しても、金狼は起き上がってきた。
何度打ち倒されても、私は起き上がった。
──もう、終わりにしようか。
──君も疲れた頃だろう?
──私はとっくに疲れ切っているよ。
──故郷を失って、同族を殺して、逃げ続けるのは、もう、うんざりだろう?
──私は、とうに限界だ。
金狼が一際大きく吠え、力を込めた。
獣の筋肉が暴れ回り、皮膚が引き裂ける。
人の身に抑え込むには、明らかに過剰な力だ。
皮膚の裂け目は刀傷のように見えた。
最後に右眼が裂けて血が滴る。
負荷に耐えきれず、古傷が開いているようだ。
右眼はエドアルトのつけた傷、他の傷はルーカンラントの剣士たちによるものだろう。
己の肉体を犠牲に、獣は私を仕留めるつもりらしい。
「いいだろう。来たまえ」
私も身構え、呪文を詠唱する。
金狼が地を蹴る。
その一蹴りで石床が砕けた。
同時に私も電光石火を発動し、疾駆する。
金狼の拳が、私の左胸を覆う甲冑を吹き飛ばす。
私の掌底が、金狼の腹部に叩き込まれる。
私は苦痛を噛み殺し、短縮詠唱の最後の一節を唱え切った。
至近距離で圧縮された稲妻が、開いた古傷から直接金狼の体内に放たれる。
私の全魔力を注ぎ込んだ高圧電流が、獣の体内を駆け巡る。
稲妻の呪文は私にも流れ込み、全身を灼き貫いた。
私とクロードは、同時に倒れた。
体内に直接撃ち込まれていない分ダメージが軽かったのか。
それとも、電気が甲冑を流れて重要器官を逸れたせいか。
先に動けるようになったのは私だった。
「君には、まだ、君を待っている家族が……クロエ君が、いるんだ……死なせるわけには、いかないんだよ」
倒れて動かないクロードの脈を確かめる。
拍動が弱いが、脈はある。
呼吸もしている。
クロードの意識が失われた故に、周囲に濃厚な霧が漂い始める。
遠吠えの後に、巨大な幼い狼が現れた。
『やったね! ついにやったんだね! 凄いよ!』
仔狼が元気にぴょんぴょんと跳ね回る。
血が抜けすぎたのか、殴られすぎたのか、その光景を見ていると、こんな状況だというのに微笑ましい気持ちになってきた。
「ありがとう、ホレくん。じゃあ、お願いしていいかな?」
『うん!』
人工精霊ホレは、クロードの頬をぺろりと舐めて寄り添った。
再びホレは霧となり、クロードの肉体が包まれた。
クロードの肉体から、真っ黒い血が湧き出してきた。
黒い血からはくぐもった声が聞こえてくる。
呪いに囚われた亡者たちの、苦渋と怨嗟の呻きだ。
それを追い立てるように、狼の遠吠えが響く。
黒い血は、彼の体から逃げ出すように、幾筋も放射線状に石床の上を走る。
血の筋のそれぞれの先端は、小さな赤子の手のような形に変わっていた。
のたうち、悶え、何かに縋り付こうとうねる。
しかし、それは叶わなかった。
力尽きたそれらは黒い塵となって、狼の運んで来た澄んだ真冬の風に霧散していく。
冥府と呼ばれた魂の集合体を構成する古い魂たちは、消え失せた。
これで、狂王の肉片から再び新しい器が作られようとも、呪いの歴史と憎しみは継承されず、真の復活は不可能になる。
濃い霧は、再び獣の姿をとり始めていく。
子犬のような丸い可愛らしい姿から、神々しく偉大な金色の狼の姿へ。
彼──神狼ホレは一際大きく鳴いた。
これが北の神か。
特定の神にそれほどの信仰を持たない私でも、頭を垂れたくなるような荘厳さだ。
なぜルーカンラントの人々が彼を祈りの対象にしたのかがよくわかる。
『すべての死人の魂は天に帰ったし、ボクの片割れからも引き離した。……でも、あと数日もこの子の命は持たないかもしれないよ』
ホレの足元には人の形をしたクロードがいた。
皮膚は老いた木の肌のように脆い。
とても自分と同じ年齢とは思えないほど、彼は老いていた。
『酷使され過ぎたんだ。肉体も魂も限界だと思う』
「……ええ」
『呪いの分離まではできたけれど、ボクには彼の命を救うことはできないみたい。ごめんね』
「いいえ、あなたは十分に役目を果たしてくれました。長き年月の尽力、心から感謝します」
『ボクこそ感謝するよ。長く囚われていたボクを救ってくれてありがとう』
大きな狼は、そっと鼻面を私に寄せた。
偉大な姿になっても、性格は仔犬のように人懐っこいままらしい。
「戻りたい場所がありましたら、お伝えください。あなたの民は、きっとあなたを待っているでしょうから」
『うん、ボクも北の地に戻りたいよ。故郷だからね。一等素敵な麦畑の近くにお願いしていいかな?』
「ええ、承りました。必ずそこへあなたの祭壇を建てましょう」
ホレは頷き、霧散した。
呪符を確かめると、今まではなかった狼の爪痕がついていた。
破れてはおらず、優しくそっと引っ掻いたものだというのが分かる。
「約束は必ず果たします」
もう一度遠くから鳴き声が聞こえた。
呪符の上に麦の穂が一つ。
──君へのプレゼント。豊穣を約束した麦だよ。
豊穣神の権能を持つ、神狼ホレからの贈り物。
これを持って故郷に帰ることができたなら、それはどんなに素敵なことだろう──
呪符を大事に手帳に挟む。
脱ぎ捨てたローブを羽織り、麦穂と手帳をポケットに入れる。
「あとは……君か」
体が壊れないように、そっとクロードを背負う。
ゾッとするくらいに軽い。
限りなく死体に近い匂いがする。
止めようと思っても抑えきれずに、涙が溢れた。
☆
瞳を開くと、私はあの列車の中にいた。
ガラス窓の向こうには、夜空が広がっていた。
車内を見回す。
千里眼のドロレス・ウィントは不在だ。
八面六臂で忙しい彼女のことだ、味方を助けたり、敵を妨害しにでもいっているのだろう。
足元の床が光っている。
原初の模様だ。
本当にクロードを救うことが出来るのか、今は信じるしかない。
「もし君が戻ってこれるのなら──」
私はクロードを背負ったまま、奇跡を信じて原初の模様を歩く。
「今度はちゃんとした喧嘩をしようか。クロード・ルーカンラント」