怪物たちの祝祭3
「今よ、オーギュスト・イグニシア。粉骨砕身で尽力なさい」
私は頭上で鳴り響く魔女の声にしたがって、左右に開いた金属扉の向こうへ大きく踏み出した。
もう一つの構造物に乗り移ったはずが、見慣れた場所に降りたっていた。
「リーンデース魔法学園、本校舎の回廊か」
この回廊なら、今更何が起きても驚くことはない。
ただ、なんて言ったらいいか分からないが、空気の質感がいつもと違う。
なんだか、肌に纏わり付くような感じだ。
不意に、肩に心地よい重みを感じた。
ゴールドベリだ。
「お前……私を探してくれてたのか?」
私の小さな妹は小さく鳴いて、頭をそっと頬に寄せた。
一応安全だという話だけど、身の安全を守ってくれる彼女と会えたのは助かる。
ゴールドベリは回廊の先に向かって、小さく鳴いた。
首を巡らせると、暗闇の中で金緑石色の瞳が輝いていた。
目を凝らせば、中型の黒竜のシルエットが浮かび上がる。
あれは教授のボアズだ。
ボアズは私とゴールドベリを交互に見つめた後、回廊の向こうに消えた。
あたりを見回し、安全を確認して、私は走り出す。
目的地は大聖堂。
例の仕組みのせいで、角を曲がっても曲がってもまだ同じ回廊だ。
「くっ、これ本当に間に合うのか……?」
私の役目は、初動の速度にかかっている。
なるはやで事態の制御に着手しないと、人的被害が取り返しがつかなくなると魔女に脅されている。
転移後三分間の行動をどうするかによって、被害の規模が段違いなのだそうだ。
気軽に言ってくれるものだよな。
まだ辿り着けないのか。
今は間に合うことだけを信じて、回廊を走る。
回廊の正面に、だし抜けにドアだけが現れた。
これに違いない。
ドアを開けると、そこは学園内の大聖堂になっていた。
目的地に到着。
学園の大聖堂は、内装や雰囲気こそ礼拝堂に似ている。
しかし、こちらの方が全校生徒が収納可能なほど大きく、左右と先方の壇上部には豪奢なステンドクラスもある。
ステンドグラス越しの月の光が大聖堂を照らしている。
私の残り時間は、あと一分ほどか。
床には見たことのない模様が広がっていた。
青い清浄な光の模様。
私が足を踏み入れると、それは黄金に輝き始めた。
朝日のような太陽の色だ。
私はドロレスの指示通りに模様の上を歩き、その光の中心部に跪いた。
この原初の模様は、魔法塔から外部魔力を吸い上げ、異能に直接利用可能な内部魔力に変換する。
それこそ馬車馬のように、私を働かせるための仕組みだ。
これが与えるもう一つの機能は、私の体感時間の加速。
実際に経過する時間の、約五倍程度の働きができるようになるらしい。
何にせよ、使える機能を用意してもらったのはありがたいことだ。
私は手を組んで祈りの姿勢をとり、精神干渉を開始した。
底無しの力が湧いてくる感覚がする。
おかげで、大陸上空にいる王竜十体との接続も、無理なく行うことが出来た。
無理を承知で、竜たちに今回の件を頼み込む。
返答として、柔らかく温かい感情が返ってきた。
どうやら快諾してくれたようだ。
だが、まだこれは第一段階だ。
ここからさらに大仕事が待っている。
気は抜けない。
──さあ、連合王国にいるすべての人間と精神を接続して、情報を共有しなさい。
精神にドロレス・ウィントが直接話しかけてきたのがわかる。
ずいぶん簡単に言ってくれるぜ。
──だって、あなただけがこの世界の普通の人々を救えるの。
──彼ら、彼女らがどれだけ大事なのか、あなたには説明の必要はないわよね?
──このたかが人間を守るために、どれだけあの天使が力を尽くしていたか。
そんなこと、言われなくたってわかってる。
だからこそ、私も彼女の守りたかったものを守りたいと思った。
王竜たちと強い接続を保ったまま、大陸の各地に散開させる。
今の私は王竜たちへの融合度が、今までと比較にならないくらいに高い。
あり得ないほどの没入感。
……分岐世界で天使と融合していたせいなのか?
彼女たちの魂を中継点にして、飛空域の人々と心を繋げ、感覚共有の網を作り上げていく。
竜と繋がるほどは、深く強くはしない。
そうじゃないと、つながった時点で私が、多分、終わる。
──っ!!
ほんの軽い接続のはずだった。
それでも、ジリジリとうまく言えない違和感が広がる。
まるで自分と他者の境界線が崩壊しそうな──
ダメだ、引きずられたか?
そんな時、歌うような声が脳内に響き始めた。
王竜たちの声だ。
これから、彼女たちが私にだけ特別な力を与えてくれるらしい。
──ああ、いいぜ。
私はその力を受け入れた。
竜から流れ込む力を受け入れた瞬間、今まで以上に膨大な視覚がリンクされていく。
押し流されそうな情報の渦に、私は必死で自己にしがみついた。
王竜たちは歌いながら、飛行する高度を上げていく。
それとともに、王竜から流れ込む情報もどんどん増えていく。
頭が破裂しそうだ。
これは、流石に、まずいんじゃないのか?
不意に、強烈な光を浴びせられたように、視界が真っ白になった。
それと同時に、精神感応の負荷がほぼゼロになる。
空白になった思考の中で、竜たちの優しい歌だけが響いている。
光に灼かれて失われていた視覚が、ゆっくりと戻っていく。
目の前には、淡く輝く光の帯があった。
光の帯は円環をなして、ゆっくりと廻っている。
廻る円環は幾重にも重なって、私を取り巻いていた。
円環に触れようとすると、手がすり抜ける。
実体ではないようだ。
その代わりに、手を近づければ、円環を思い通りに動かせるらしい。
作りだけ見れば、天体の運行を模した渾天儀に似ている。
しかし、そこに浮かんでいるのは、星ではなく別のもののようだ。
円環の一点に手をかざし、意識の焦点を合わせる。
すると、どこかの街を上空から見下ろす景色が映し出された。
円環を廻し、別の一点に集中すると、別の場所が見える。
「へえ、便利なものだな」
いきなり物事が分かりやすくなった。
つまり、本来なら私の頭の中に流れ込むはずの情報を、一旦王竜たちが受け止め、人間に受け入れやすい形に変換しているのだろう。
私はそこから必要な箇所を絞り込み、力の強さを調節して精神感応を使うことができるというわけだ。
頭から情報を取り出してもらったおかげで、負荷が軽い。
心も安定している。
さっきのような、自分が消えて無くなりそうな恐怖は、もう感じない。
じゃあ、とっと仕事を始めなきゃな。
手始めに過去に屍都だった場所を探す。
リーンデース以外の屍都は、都市ごと地下に沈められ、魔法的に封印されているはずだった。
しかし、今まさに封印の土地にはヒビが入り、歪んだ尖塔が顔を覗かせるところだった。
地面が割れ、砕け、呪われた都市が浮上する。
屍都はそれ自体が巨大な生物であるかのように身じろぎしながら、大地から這い出していく。
辺りにじっとりとした濃霧が立ち込める様は、血に飢えた怪物の吐息のようだ。
屍都は四方に備え付けられた顎門を開く。
得体の知れない太古の怪物たちが、現世に解き放たれた。
屍都から太い街道・河川は近く、それらはいくつもの都市に繋がっている。
ほんの一時間もあれば、壊滅的な事態が発生するだろう。
一度、ゆっくりと深呼吸する。
言葉を口に出しながら、両大陸の全ての人間たちに向かって思念を送った。
「聞こえるか。今から死者が復活する。狂王の狩場が広がる前に、安全な場所に逃げてくれ!」
人々がざわめき、不安そうに天を見上げるのが分かる。
なんとか隅々まで届いたようだ。
しかし、感度は人それぞれ。
例えばアウレリアの血とは相性が悪いし、雪銀鉱に触れている者にも届かない。
それでも、全ての街・集落から反応が返ってくる。
どうやら大人よりも子供が多いようだ。
──お母さん、天使さまの声が聞こえるよ。
──神さまが何か言ってるみたい。みんなは聞こえないの?
──天使さまが逃げなさいって。ここは危ないんだって。
みんな私からの精神感応を、天使の託宣とか神の声と誤解しているようだな。
王竜を経由して精神干渉したのが不味かったのか……?
でも、今は訂正してる暇はない。
とにかく、人の命を最重要項目として動こう。
反応が返ってきた相手を対象に絞り込む。
そして、今度は詳細を伝え、安全な場所へと誘導する。
「屍都近隣の都市に住む民は他の都市へ。管理者は転移門を民に開放せよ。屍都から遠い地の民たちも、できるだけ頑強な聖堂や教会へ。必ず助けが来る。信じて待ってくれ」
理想的な避難場所は、大きな都市の大聖堂などだ。
でも今は、どんな小さな教会でもいい。
少なくとも正常に機能している宗教施設ならば、避難場所にできる。
僻地の教会も、エーリカが汚染祭壇を破壊する過程で新築されていた。
それらは以前よりも堅牢になり、非常用物資もたっぷりと備蓄されている。
──あの丘の教会まで逃げれば、きっと助かると神様がおっしゃったのです。さあ、みなさま、今すぐ避難を。
──今すぐあの聖堂へ向かえと天使の声が教えてくださいました。
子供たちの言葉に従い、避難が始まった。
しばらくはその動きを見守りながら、細かく指示を出す。
居住区ごと死者に飲まれる前に、分散して退避させていく。
避難が安定したのを見届けて、視覚帯を廻した。
竜たちのもとへ「助けて」「神様」と救いを祈る声が届いていた。
怯え戸惑う声の主たちを、落穂拾いのように探し出す。
手が届く限り、目が届く限り、命を拾い上げていく。
親からはぐれて都市の片隅で怯える小さな姉と弟を。
村はずれに住んでいて逃げ遅れた老夫婦を。
細い街道に独り立ち往生する行商人を。
船着場にたどり着いたばかりの漁師たちを。
盲目の恋人を背負った青年を。
竜たちには、はぐれた人間たちを優先的に探すように指示を出しておく。
細かな救出作業を行いながら、平行して俯瞰視点に戻った。
──しかし、敵も速いな。
こうしている内にも、屍都が急速に復活していくのが見えた。
だが、人間たちも吸血鬼の跋扈を指を咥えて見ていたわけではない。
各地に派遣されているイグニシアの竜騎士や、各地方の騎士団は屍都から溢れ出る死者の対応をすでに開始していた。
私は彼らに呼びかけ、敵や要救出者の位置を教えていく。
全ての騎士団に指示が伝わったわけではないが、大半は私の言葉を信じて動いてくれた。
不足した箇所には、精神感応が通じやすい竜騎士を向かわせる。
やがて、あちこちで交戦が始まった。
最初にぶつかったのは、竜騎士と空を飛べるバケモノたちだ。
感応能力の高い指揮官クラスの竜騎士には、恐怖の感情を制御して戦うように伝えた。
誇り高い竜が、死者ごときにおびえることはない。
だが、乗り手である人間が恐怖すれば、そこが脆弱性になる。
──神がご照覧になっておられる! 今こそ不浄の敵を焼き尽くすときぞ!
──おお、幸いなるかな。見よ、輝く御手は我らが額に触れたり。
──声が……神の声が、聞こえる。みんな、諦めるな!
──聞け、天なる伝令の知らせは地に響きたり! 神は私たちを死の大鍋の中に捨て置かず、虐げられし者を一人たりとも見捨てはしない! 恐れるな、救いの時は来り! 反撃の角笛を吹き鳴らせ! まだ立てる者よ、まだ飛べる者よ、今こそ救い主の先触れとなるべし!
最後の奴、誰だ?
カルキノスの方からだし、何だか聞き覚えのある声だ。
もしかして、シャルルか?
怪物への対応を騎士たちに任せ、私は再び避難の補助に戻った。
経路を指示し、竜騎士を派遣し、時には直接その場にいる竜の力を行使する。
おかげで、まだ人の命は失われていない。
王竜たちによって軽減されていても、処理する情報の多さからか、徐々に目眩と吐き気が募る。
倒れてしまいたい、とも思った。
でも、ここで自分が倒れたら、きっとたくさんの命を溢すことになる。
人々は私を神様や天使と誤解しているけど、私はそんな偉大なものじゃない。
本当に、ただの普通な人間だ。
無理をしたら、あっという間に力尽きて動けなくなる、弱い生き物だ。
それでも、あの天使が何を望み、何を守ろうとしたか、よく知っている。
だから、私はあいつの代わりをやるんだ。
持って生まれたこの扱いづらい力に意味があったとしたら、それはこの時のために違いない。
あの、もう一人の自分みたいに、無力を嘆き、空虚に生きるよりはずっといい。
人を導きながら、各地の屍都周辺を確認する。
どちらも竜騎士やその地方の騎士団が殲滅に対応しているが、徐々に数に押されているような気がする。
しかし、イグニシアやその周辺は、他の地方よりも騎士たちが優勢だった。
屍都周辺の空域であっても、竜騎士たちが制空権を握っている。
大量の小型竜たちが、あらゆる場所に潜み、吸血鬼たちから人々を守っている。
彼らを淡く包む、温かくて優しい力を感じた。
あまりにも希薄なので、この力がなければ気づかなかった。
しかし、影響範囲があまりにも広大だ。
今の私ほどではないものの、イクテュエス大陸の四分の一くらいを覆っている。
その中心に向かって、力を辿る。
そこには、父の──イグニシア王の姿があった。
目を凝らさなければ、竜に対する、竜騎士としての精神感応しか見えなかっただろう。
しかし、それと同時に、無意識の精神干渉を行っているようだ。
父の感情に触れると、孤独や苦しみが薄らいでいく。
希望、勇気、愛情、優しさ……そんな前向きな感情が呼び起こされる。
その優しく温かな力が、騎士や竜を奮い立たせていたのだ。
私がこの男の血を引いているのだと、今ならわかる。
私は、父の力を確かに受け継いでいたのだ。
胸がいっぱいになるが、何とかこらえる。
喜びに浸るのは後だ。
私は唇を引き締め、父を見つめた。
「父上、ご武運を」
敬礼し、父の出撃を見送った。
父は大丈夫だ。
私には私の、父には父の役目がある。
視点の高度を上げる。
南方大陸で激しい戦いが繰り広げられていた。
カルキノスは屍都の数こそ少ないが、かわりに巨大だ。
その上、復活したタイミングが早かったのか、すでに不死者の大群がまるで大河のようだった。
幸いなのは、屍都がギガンティア側の、それも現在では僻地にあたる場所にあること。
都市が飲み込まれるまでには猶予がある。
視点を近づけると、シャルルが竜兵を率いている姿が見えた。
シャルルは父に比べれば小さくはあるが、類似の無意識下の精神干渉をおこなっていた。
彼の心は熱く燃える炎のようだった。
その心に触れれば、騎士たちは敵を必ずや滅ぼす意思の塊となる。
しかし、南方大陸では溢れ出てくる死者の数が多いし、空を飛行するバケモノの数も多い。
焼き尽くしても焼き尽くしても、キリがないように見える。
シャルルが敵に倒されることはないだろうが、これは果てしない消耗戦だ。
いつしか感応能力の行使に心と体が耐えられなくなったら、竜の背から落ちることになる。
そうなれば、配下の騎士・兵士たちも崩されていくだろう。
円環が廻る。
焦点を合わせると〈再征服の都〉から一騎の竜が飛び立つのが見えた。
騎乗しているのは──軽装鎧を纏ったルイ。
その眼差しは、あの時の狂気に染まったものとはまるで違う。
ルイの心の小さな炎には、決意が灯っていた。
竜が向かっているのは、シャルルのいる第一屍都の方向だ。
「もしかしてルイ……お前、シャルルを助けに行く気なのか?」
──あたりまえだ! あれは! あんな男でも、僕に残された、たった一人の家族なんだぞ!
虚空に向かって放ったはずの言葉に、強い思念が返ってきた。
右頬から涙がこぼれた。
この涙は、ルイのものだ。
すれ違いばかりだった兄と弟。
もしも、二人がもう一度寄り添い合い、助け合っていけたなら。
私は、そんな未来が訪れるようにと祈った。
私は視覚帯を廻して、各地の戦況を確認していく。
屍都の一つは海岸線にあった。
太古の呪われた都は、海を裂くように盛り上がり、復活しつつあった。
幽霊船のような気味の悪い船が、屍都の船着き場から何隻も出航していく。
死者の船団が海域に展開し、港町を取り囲む。
その次の瞬間、空を埋め尽くす光の雨が降り注いだ。
光に貫かれ、幽霊船団の半数が沈んでいく。
光は遥か彼方から発射されていた。
外洋の荒波も物ともせず、すさまじい速さで進むゴーレム駆動の船団。
青地の旗に描かれているのは、星の紋章。
アウレリアの保有する錬金術戦艦の艦隊だ。
最も大きな戦艦から、立て続けに五発の火球が打ち出された。
全ての火球は過たず命中し、一撃のもとに幽霊船を沈める。
おそらくは、あれが、噂に聞く長腕のエルンストの技だろう。
港町は解放され、避難船が戦艦に守られながら出航していく。
アウレリア公爵の船団は、屍都から現れた脅威を次々に撃ち倒していた。
海はエルンスト卿に任せて大丈夫そうだ。
私は再び意識を人々の避難に集中させる。
そうして気の遠くなるような細かな作業を続けていると、竜の呼ぶ声が聞こえた。
何が起きたのだろう。
焦点を合わせる。
場所は、大陸各地の魔法塔だ。
そこには異様な光景が広がっていた。
得体のしれない怪物が、魔法塔に張り付き、食らいついている。
いつの間に?
あの赤錆色の獣は一体何だ?
私は夜会で恐れられていた事柄を思い出す。
天使の残骸と魔蝗から作られた堕天使。
天使であった頃の見る影もない、ケダモノとも虫ともつかない哀れで不気味な姿。
その怪物を見ていると、どうしようもなく悲しくなる。
異形の獣の群れが飛び立っていく。
いくつもの赤錆色の影がリーンデースの空を埋め尽くそうとする、その時──
空に、光が見えた。
稲妻のような光が、雨のごとく空から大地に降り注ぐ。
赤錆色のケダモノは打ち砕かれ、焼き尽くされて落ちていく。
赤く輝く人型の光が、空に浮かんでいる。
獅子に似た耳と鉤爪。
背後に広がる眩い光はまるで翼のようだ。
炎を凝縮させて作った巨大な剣を振りかざし、光輝く鎧を纏った、完全武装の獣人天使。
いや、あれは。
あの姿は。
「パリューグ……!」
気がつけば、叫んでいた。
彼女と、目が合ったような気がした。
彼女はこちらを見つめて、優しく微笑む。
私のことが見えているはずはないのに、彼女はこちらに手を伸ばした。
竜の視界越しに、私は彼女と掌を重ねる。
錯覚かもしれないけれど、確かに触れた、ような気がした。
──オーギュスト。
彼女の唇が、自分の名を呼ぶように動いた。
彼女の言葉とともに、感情が弾けた。
堰を切ったように、とめどなく記憶が溢れ出す。
思い出した。
ずっと、私と一緒にいてくれた天使のことを。
懐かしさで泣きそうになる。
だめだ、今はまだ。
私には役目が。
それなのに、止めたはずの雫は、頬を伝って流れ落ちた。
次々にこぼれてくる涙を拭う。
涙と一緒に溢れてきた記憶の中に、エーリカといつも一緒にいた猫の姿を思い出す。
「エーリカもパリューグも……お前たちはさあ、本当に……!」
助けを求める、迷える人々の声が耳に届く。
ああ、泣いてる暇なんてないよな。
いいぜ。
天使の真似事を、きっちりやってやろう。
誰かのために、少しだけ身を割いて分け与える役だ。
ついでにパリューグ、お前の威光を人々に広めてやろう。
そうすれば、人々の祈りの力が、お前を守ることになるだろうから。
大丈夫。
お前がしていたような、終わりのない永遠の人助けじゃない。
星が落ちるまでの、ほんの少しの間だけ。
だから、私にだってできるはずだ。
最後にはエーリカが、全てを終わらせてくれる。