原初の模様9
本校舎の手前まで移動すると、中央寮の方向から声が聞こえた。
「エーリカさんだ!」
「えっ、どこに……あ、エーリカ様!」
クロエとベアトリスが二人揃って学舎に向かって来ていた。
「嫌な予感がして、今夜の実験は止めなきゃって思ったんだ」
「私は先ほど、お爺さまからの伝書烏でこんな手紙を受け取ったので、皆さんに相談したくて」
ベアトリスが手紙を見せる。
本日をもってウィント家の当主はベアトリスが継承したと記されていた。
そして手紙に同封されていたのはチェスの歩兵の駒がひとつ。
「エーリカさんはどうして?」
クロエの問いに私は答える。
「ふと気になったことがあって……」
私はクロエとベアトリスにここに来た理由を話した。
クロードの眼帯の件。
ホレくんが視覚情報を得ていたこと。
狂王カインが呪術の天才であったこと。
そして私の飛躍の多い悪い妄想──狂王の傀儡として原初の模様を踏破するクロードの可能性について、クロエとベアトリスに伝える。
「私の妄想かもしれないのだけど、不安でここまで来てしまったの」
「行って確かめてみようよ。何もなかったらそれでいいし、そうじゃなかったら、どうにかするだけだよ」
「そうね、クロエさん」
私たちが本校舎の扉を開いて中へ入ると、扉が大きな音を立てて閉じられた。
回廊はまだ変化していない。
間に合った?
……いや、なんで誰もいないんだろう?
「クローヒーズ先生と、それに介添えのお兄様とアクトリアス先生もいるはずなのに……」
「皆さん、どちらにいらっしゃるんでしょうか」
ベアトリスは怯えた表情で辺りを見回す。
「エーリカさん、扉が開かなくなってる」
クロエが鞘から剣を引き抜く。
雪銀鉱の剣だ。
「ごめん、実験はしばらく出来なくなっちゃうけど──」
彼女は問答無用とばかりに床に剣を突き刺した。
「っ!?」
目の前で信じられないことが起こった。
魔法を無効化するはずの雪銀鉱の剣が、一瞬にして黒く酸化したのだ。
「どういうこと……?」
クロエから困惑の声が漏れる。
『用心するのだぞ、エーリカ!』
「嫌な気配がするわね〜〜〜〜〜! みんな、妾たちの後ろへ!」
ティルナノグとパリューグが私たちを守るように前に進み出る。
その時、一瞬だけ床が赤く光った。
そしてあの声が聞こえてきた。
獣の声だ。
獣の遠吠えが聞こえた。
おそろしく近い場所から。
世界が揺れたような気がした。
本校舎正面玄関にいたはずだったのに、次の瞬間には私たちは例の鏡の部屋のすぐそばの廊下にいた。
いや、なんで、一緒にいたティルナノグとパリューグがいないの?
床に血が広がっている。
何かを何度も転がしたような、荒々しい血の跡だ。
壁や床にも壊れた箇所がある。
明らかな戦闘の形跡だ。
血の軌跡を辿ると、そこには、頭から血を流して倒れているエドアルトお兄様が転がっていた。
悲鳴をあげそうになった瞬間に、ぐらりとまた世界が揺れた。
お兄様がいない?
鏡の部屋の扉が開く。
そこから、片方の目を怪我している金髪の青年が現れた。
ところどころ破けて血に濡れたリーンデースの学生服を身に纏っている。
彼には一度もあったことがないはずなのに、私には彼の名前がわかった。
クロード・ルーカンラント。
「兄……さん……?」
私の少し後ろで、クロエが声を絞り出した。
答え合わせが終わった。
何故あの時クロードはブラドも兄もアクトリアス先生も殺さずに逃げたのか。
それは、このタイミングに時間を飛び越えて未来の世界に、今この瞬間に現れるためだ。
クロード・ルーカンラントは、無限回廊が霊脈から魔力を吸い上げている時間帯に、原初の模様を踏破する必要があった。
狂王は暴力事件の時にブラドの肉体の主導権をわずかな時間、奪った。
そして、狂王は金狼に原初の模様を踏破するように指示した。
ブラドが原初の模様を起動したタイミングで、この場所に介入できるように。
これが原初の模様を誰より早く解析した狂王その人により組まれた計画だ。
クロードが右手で引きずっていた大きなモノを放り投げる。
鈍い音を立てて落下したそれは、赤い軌跡を描いて床の上を滑り、止まった。
クロードが投げたモノは、ブラド・クローヒーズの体だった。
胸の真ん中……に大きな穴が開いている、ように見える。
「ひっっ」
ベアトリスが短く叫んだ。
ブラドの胸の穴から、真新しい血液が床に広がっていく。
とっくの昔に失血死していてもおかしくない量だ。
その顔は蒼白で、それはどう見てもブラド・クローヒーズの死体に見えた。
広がった血から、床に魔法陣が展開していく……赤く黒く……それは見知った呪いに似ていて。
「我が主人。我が創造主よ。古の盟約を、今こそ果たそう」
クロードが自らの手首を切る。
そこから迸る血は、まるで生き物のようにうねりながら、ブラドの体に開いた穴の中に潜り込んでいった。
──開いていたはずの穴が、にわかに塞がっていく。
さっきまで限りなく死体のようだったブラドが、ゆるり、と起き上がった。
彼はゆっくりと目を開く。
開いた瞼の向こうからは、真っ赤な、瞳が現れた。
──ああ。これは。
クロードはすぐさまブラドに跪く。
ブラドは、満足そうな笑みを浮かべて彼の前に立った。
「傷ついているな?」
ブラドがクロードに手をかざす。
血に塗れたボロボロの姿から、一瞬にして血痕も服の破れや解れもない姿に変わる。
血を流していた目もまた修復されたかに見えたが、再び血が一筋流れてクロードの頬を伝った。
「奇妙な呪詛が仕込まれている……どこまでも忌まわしい錬金術師だ」
ブラドは立ち上がって、眼帯を無から生成してクロードに渡す。
クロードは恭しく受け取った。
金狼に呪われたクロードが眼帯をしていたのは、エドアルトお兄様が一矢報いたためだったのか。
「金狼よ、北へ。北の狼どもを一匹残らず殺し尽くしたまえ」
口調はブラドそのものだけど、彼が決して口にしないような言葉を吐く。
クロエは目を見開いた。
そうか、彼は、今から一族を殺しに行くのか。
「そうだな。君なら三、四日も駆ければ抜け出せるだろう」
クロードは静かに頷いてから、腰を上げて回廊の奥へと向かっていく。
ダメだ、止めないと。
そう思っているのに、足が動かない。
これが恐怖によるものなのか、もうすでに干渉されているのか、私にはわからなかった。
「さて、次は君にしようか」
ブラドの口調で、ブラドの顔で、化け物がゆっくりと私に向かって歩いてくる。
「君の顔を見ると懐かしい人間を思い出す。いや、君は顔だけでなく思考も似ているのだったね」
ブラドだったモノが私を見た。
いつもよりずっと赤い、赤い瞳が光る。
目の底に、計り知れない憎しみが見えた。
「我が最後の友にして我が永遠の敵、オスヴァルト・ボルツ……お前が愛したその全てを俺は……」
ブラド・クローヒーズなら決してしないだろう、牙を剥き出した獣のような表情。
「お前さえいなければ、全ての苦痛を忘れていたというのに」
表層を覆っている人格が混ざっている?
これはブラドじゃあない。
むしろこれは、狂王カインその人?
「いや、苦痛だけではない。お前は……」
狂王カインは、吹き出すような憎悪を隠そうともしない。
足元では赤黒い光が、寄せては返す波のごとく荒れ狂っていた。
私は彼から目を離すことができなかった。
おそらく、今この怪物の意識は混濁していて、私と母と伯父と兄がきちんと区別できていない。
強烈な憎しみが、私や、私の親族へ向けられている。
全身の細胞は逃げた方がいいと訴えるが、足が全然動かない。
「くっ……」
身動き一つできない私の横を、誰かが通り抜けていく。
三つ編みにした黒髪。
ベアトリスだ。
ベアトリスは歯を食いしばりながら、私とクロエの前に出ていった。
足元の波が押し留められていく。
「クロエちゃん、エーリカ様、ここは私が足止めしますから、二人で逃げてください」
「ベアトリス……!」
「ダメだよ、そんなの!」
クロエが叫んだ。
「時間がないの、クロエちゃん。お願い、私の頼みを聞いて。大丈夫だから。私も絶対にすぐ逃げるから!」
ベアトリスが長杖を構えて、少しずつ狂王に自ら近づいて行った。
ブラドの動きが、わずかに止まる。
回廊の外に見える光景が歪み始め、光の色が変わっていく。
赤から青へ。
これは──ベアトリスが狂王カインの世界改編を、さらに書き換えている?
「ベアトリス・グラウ。ウィント家最後の差手にして駒か。この私に制約をかけるなど小賢しい」
ブラドだったものが笑った。
今まで見たことのない残酷な笑顔だ。
こんな笑顔を見たくはなかった。
「お願い、逃げて!!」
ベアトリスの叫び声を聞くと同時に、私はクロエの手を握って駆け出した。
私の足元に再び青い光の模様が広がる。
私は自分が驚くような速度で走ることができていることに、走りながら気がついた。
だから、とにかく全力疾走で、走って、走って、逃げた。
☆
どこまで逃げただろう。
いつまでも続く回廊を、私は駆け続けた。
いつの間にかクロエと手を離してしまい、彼女を見失っていた。
ブラドの瞳を思い出す。
曇りのない真っ赤な瞳が記憶の中で輝いていた。
全てがもう後戻りできないくらいに間違ってしまったのだろうか。
どうして、どうして、あれだけ積み上げてきたのに。
みんな頑張ってきたのに。
少なくとも、あの狂王と呼ばれた男の計画は、私たちよりも上手だったのだ。
敵は私たちの想像を上回るほど緻密な計画を組んでいた。
完全に優位を奪われた。
思考は迷路に迷い込み、それでも私は走り続けて、そうしていつの間にか、私は気を失っていた。
☆
曖昧な意識の中、私は微かに揺さぶられていた。
ガタン、ガタン。
ガタン、ガタン、ガタン、ガタン。
なんだか懐かしい音がする。
これを私は、昔よく聞いていた。
「ここは……」
目を開くと、ビロード仕立ての長椅子のようなものに倒れ込んでいた。
……長椅子の向こうは広い窓。
空の色は紫・ピンク・黄色・オレンジが入り混じっている──黄昏時だ。
窓の外には、懐かしい街並みが広がっていた。
これは、電車だ。
見回す。
見慣れた、いや、前世において見慣れていた路線の電車に似ている。
磨かれた床には、回廊と同じ模様が広がっていた。
原初の模様。
「どういうことなの?」
ていうか、無人なの?
こんな夕方に?
ゆっくりと車両を歩いていく。
いないと思っていた人たちが、床に倒れていた。
エドアルトお兄様に、アクトリアス先生。
クロエ、ベアトリス、ティルナノグ、パリューグ。
全員意識がない、ように見える。
揺すって起こしても誰も起きる気配がまるでない。
まるで人形のようだ。
でも、良かった。
呼吸もしているし、脈もある。
みんな生きてる。
私の大事な家族も友達も、生きてるんだ。
エドアルトお兄様とアクトリアス先生には、治療が施されていた。
それぞれ頭部と右腕、頸部と右拳に包帯が巻いてある。
クロエの頬にはたくさんの涙の跡があった。
ベアトリスは疲れ切った青白い顔をしている。
だが、二人とも外傷はない。
安堵のあまり、その場にへたり込む。
目の端に涙が滲みそうになったけど、今は泣いている暇はない。
ここが一体何処なのか調べて、早くみんなを安全な場所に退避させないと。
「……ふふふ」
隣の車両から笑い声が響いた。
女性の声だ。
抑えきれずに笑い出した、ような声。
どういうこと?
視線を向ける。
ドアが開いて、前方の車両の中が見えた。
ガランとした車両のど真ん中には一人の女性が立っている。
「やったわ、計算通り」
ベージュ色の厚手パーカーと、濃藍色のジーンズに、濃灰色のスニーカー。
黒くて真っ直ぐの髪。
そして、その顔はよく見知った顔だ。
散々罵られたので忘れようがない。
好戦的な表情と、高圧的な態度の、見慣れたドロレス・ウィントだ。
異常な状況なのはわかっているけど、今はその見慣れた顔に安心してしまう。
「もしかして、あなたはドロレス・ウィント?」
「ええ」
目が合う。
澄んだ青い瞳は彼女の聡明さを証明してるようだった。
「落ち着いているし、頭は悪くないみたいね。割と気に入ったわ、エーリカ・アウレリア」
なにを言っているですか、と返す前に、彼女は口を開いた。
「ねえ、あなた。不躾な相談なのだけど、今から救世主になってみない?」




