クロード・ルーカンラントの断片2
母親を失ってからのエドアルトは、よく学園外に行くようになった。
興味の裾野が広がり、古代遺跡の調査にも手を出しているのだという。
エルリックかブラドを野外調査に連れ出しては迷惑をかけるようになったらしい。
俺との約束をすっかり忘れているのか、例の資料室捜しもしてない。
仕方ないことだと思って、俺は約束の履行を求めずにいた。
悲しいときは、仕方ねえだろ?
俺にだって、それくらいの人の心くらいはある。
第一、金狼王子探索なんて、元から雲をつかむような話だ。
☆
そうして時は経ち、エドアルトと友人になってから三度目の春のことだった。
「よう、エドアルト」
「遅かったね、クロード」
待ち合わせたエドアルトと真夜中の学園を歩く。
西寮近くの公園にある東屋の横を通り過ぎると、何やら甘い花の香りがした。
「……ってことは、地下に定期的に転移しているってことなのか?」
「ああ、考えうる理由としては二つ。まず地下で未処理の祭壇が稼働している可能性」
諦めかけた頃になって、こいつは例の首なし王子についての話を俺に持ちかけてきた。
「もう一つは、地下に狂王カインの眷属が混じり込んでいる可能性だね」
「眷属って、マジかよ」
「狼の飢えを満たすと狂王の元へ向かうらしいから、学園関係者が実験している可能性もあるね」
「飢えを満たす? どういうことだよ」
狂王の被造物の飢え。
それは人の血肉でしか満たされない訳で、それはつまり──
「考えられるのは血液とかを少量与える……こと。かなり危険だけどね」
「リーンデースの奴らが、化物に人の血を?」
随分な冒涜的行為だ。
万が一のことが起こったらどうするつもりだ?
そんなことをしてるから、ハーファンの魔法使いどもは信頼が置けない。
やつらは根本が邪悪すぎる。
しかし、どうしてエドアルトは急にこんなキナ臭い約束を守りにきたんだ?
どういう気の変わり様なんだか、気になる。
長い間、お前は母親を思い起こすモノ全てから逃げていたくせに。
「なあ、お前さ。なんでいきなりそんなことが分かったんだよ」
俺の問いに、エドアルトは笑う。
母親が死んでから、こいつの笑顔の裏が読めなくなっちまった。
「つい最近、例の資料を手に入れた。今はその資料がまともに使えるか確かめているんだよ」
「じゃあ、約束通り、俺にも貸せよ」
「もちろん。ただ、資料の安全性が低いから、少しばかり時間をくれるかい?」
資料の安全性。
すこしばかり引っかかる言い方だったが、俺は聞き流した。
「ああ、いいぜ」
まだ色々と聞きたいことはある。
だが、今はこの話に乗らない手はない。
「で、どうする? 今から行こうか?」
「はあ?」
「潜り込んで首なし王子の顔でも見学してみるかいって誘ってるんだ。まあ、首はないけどさ」
趣味の悪い冗談を口にしながら、エドアルトはウィンクをした。
「そんなこと出来んの? ていうかよ、出来るとしたら、リーンデースの奴ら、油断し過ぎじゃねえか?」
「地下と言っても、少なくとも地下四百メートルより深いよ。そこで何か不測の事態が起こったとしても、すぐには地上に影響が現れることはない」
緊急時は地下区画を封鎖し、秘密裏に処理するのだそうだ。
封鎖は簡単だから、安全な実験環境だと思う、とエドアルトは続けた。
だがしかし、それは実験者を捨て駒にするってことだ。
「……つまり、誤報でも何でも一度閉鎖されちまえば、学園の連中も簡単には駆けつけられないってことか?」
「ああ、そうかもしれないね」
エドアルトは俺に言われて初めて気がついたような顔をした。
「へー、いいな。気に入らない奴を呼び出してシメるのに使える」
「絶対に、絶対に私刑に使うなよ。僕は君のそういう残酷さが大嫌いだ」
へえ、そうかい。
俺だってお前の迷いのない人間的な正しさと優しさが、どうしようもなく嫌いだ。
誰からも愛されるお前に、誰にも目をかけられることがない俺の鬱屈は分かりゃしねえだろ。
「ははっ、じゃあ、なんで俺のダチになったんだよ」
半目で睨むエドアルトの叱責を、俺は笑い飛ばした。
「君からは学ぶべき部分も多いからね」
「あー? 何だそれ。俺から何を学んでんの?」
「秘密だよ。聞いたらきっと君は笑うからね」
そうしてエドアルトと軽口を叩きながら、俺は幻獣博物館へ潜り込んだ。
「こんな場所にあったとは盲点だな。初めて入ったぜ」
「君、こういう施設興味なさそうだよね。博物館もだけど、図書館とか錬金術工房とか」
「ああ? 他にも何かあるのかよ?」
「いや、別に……そうだ、雪銀鉱の道具を何か持っているだろう?」
「おう。これでいいのか?」
首飾りを見せる。
父から貰った雪花の形の首飾りだ。
「十分かな。これなら僕でも解呪できないアレを破ることができる」
「アレ?」
「実物を見たほうが早いよ。途中まではこの袋に入れておいてくれるかな」
俺はエドアルトから受け取った小袋に首飾りを入れる。
雪銀鉱の効果を遮断する袋らしい。
「もちろん、今夜のところは下見だ。いいね?」
「俺はいきなり突入でもいいぜ」
「次回は綿密に計画を立てよう。日帰りできる距離にある狂王時代の遺構は貴重なんだよ」
エドアルトはニヤリと笑った。
「しかたねえな、今夜のところは合わせてやるよ」
「うん、じゃあ、まずは雪銀鉱の首飾りを使って、この扉の封鎖魔法を破ってもらえないかな?」
エドアルトは突き当たりにある扉を指差した。
物理的にも鎖がかけられている。
とりあえず斬るかと思って剣に手をかけると、エドアルトは自分の短杖を指して首を振った。
はいはい、解錠の杖ね。
気に喰わないが、下見なら証拠は最小限が鉄則か。
俺は扉に首飾りを押し当てる。
ガラスが割れるような音が頭の中で響き、見えない何かが砕けたような感触がした。
さて、御開帳だ。
「は〜、なんだかこういうの、懐かしいな」
「君との悪事は久しぶりだからね」
その夜の俺は悪友との久しぶりの悪巧みを、意外なくらい楽しんでいた。
☆
ドアが閉まりきる前にぴたりと受け止め、がちゃりとノブを鳴らす。
相手がドアが閉まったと錯覚している間に、音もなく部屋の中に滑り込む。
ルーカンラントでは初歩の侵入術だ。
俺がブラドを尾行して辿りついた先は真っ白な書庫だった。
「へえ、ここがお前らの秘密ってわけか」
ブラドとエドアルトは、やっとこ俺に気がついて振り向いた。
「ごめん、エド」
「いいや、君の所為じゃない。普通は尾行が得意な級友がいるなんて思い浮かばないからね」
「エドアルト、資料を貸すってのは前からの約束だ。コソコソするんじゃねーよ」
俺は二人のやりとりを気にすることもなく、一番近い本棚から一冊引き抜いた。
白い本のページをパラパラとめくるが、すべて白紙だ。
なんだこりゃ?
「僕は貸し出すとは言ったけど、ここに招くとは一度も約束したことはないな、クロード」
「俺がアレについてもっと調べる必要があるってのを、お前も知っているはずだろ」
幻獣博物館地下の首なし死体。
一応その在処は分かったものの、本当にアレが金狼王子なのか確信を持ちたい。
だから狂王支配が瓦解した後、何か起こったのか調べる必要がある。
「もう少し僕はここの資料の安全性について検討したくてね」
「へー、そんなに危険なのもあんのか?」
「どうやら吸血鬼関連が本物らしくて、下手に関わると命が危うそうだ」
本物の血啜りの資料か。
丁度いい。
俺が知りたいのは血啜りと魔法使いの動向でもある。
「俺はそこらを彷徨いてる血啜りなんかに興味ねえ。それはお前も知ってるだろ」
「あとは、司書が難物でね。特に君との相性は最悪だと思うんだ」
「司書?」
エドアルトがそっと空中を指差す。
そこには天井から逆さまにぶら下がる気味のワリぃ女がいた。
「盗むんじゃないわよ、野蛮人」
その女が俺をゴミを見るような目で見据えてそう言った。
──人間じゃねえな?
返事の代わりに、軽く跳躍して鋼の剣で一閃する。
「何するのよ! 最低な野蛮人!」
やったと思った女は、別の場所に移動していた。
意外と反応が速いな。
「愚かな貴方に教えてあげる」
「ったく、キーキーうるせえな……」
「運命を笑うものは、運命に嗤われるのよ!! 今のうちに己を悼むが良いわ!」
言うだけ言って、逆さまの女は跡形もなく消え失せた。
もう一撃加えるつもりが、空振りしちまった。
それにしても、気味の悪ぃ捨て台詞だ。
床に着地してエドアルトに訊ねる。
「なんだあの妙な女は? ていうか何言ってたんだ、アレは」
「この書庫の司書代わりの人工精霊だよ。人工精霊の擬似的な知性が相手に最適な助言を考えて、教えてくれる親切な機能だそうだよ」
「なっ」
「あの子のご機嫌を窺いつつ資料を借りる必要があるんだけど、君はまたあの子と会話したいのかい?」
「なんだと〜〜〜〜〜?」
俺の声が真っ白な書庫の中で反響した。
「……思った通り、彼と彼女の相性は最悪みたいだね、エド……」
「だよねえ。火を見るより明らかだ」
ブラドとエドアルトはため息混じりに頷き合う。
「ああー? お前等、何をわかった風な会話してんだよ!」
「だってねえ、ブラド……」
「こういうものは、本人ほどわかっていないよね……」
二人とも、やれやれと言わんばかりの目で俺を見つめたのだった。
☆
クソ女をなだめすかして、資料をかすめ取る生活が続いた。
面倒ごとは多かったが、首なし王子と金狼王子の関係について、ようやく目処が立ってきた。
死を貪り喰らう者という仮称がつけられた、いくつかの吸血鬼の事件。
その発生箇所を結ぶ線は、金狼王子に関連する土地と一致する。
金狼王子の施術が行われた場所。
金狼王子と東の魔女の決戦と終焉の地。
最後に金狼王子が目撃された地点。
そこから緩やかにカーブした線は、ここリーンデース——つまり、首なし王子の霊安室に繋がる。
やはり、隠し場所はこの学園だという確信が深まる。
直近の死を貪り喰らう者関連の事件は、リーンデース近郊の村で起こっている。
村人全てを食い殺した吸血鬼が、生き残りの修道女に化けて逃げおおせたという顛末だ。
血塗れの聖女という怪談にもなっている。
何かに使えそうだな。
本人を炙り出し、捕まえて情報を吐かせるか?
「悪くねぇ考えだが、確実じゃねぇな。ひとまずは、地道に行くか……」
派生した金狼王子の伝説のバリエーション。
ついでに学園の七不思議の逸話も、丁寧に調べる。
俺は赤革を張った帳面を開き、不格好な字でそれらを書き写していく。
ちょうど帳面を閉じたところで、隣の部屋の住人がやってきた。
「クロード様、俺のところに間違ってあなた宛の荷物が届いてました」
「よお、ありがとな」
受け取って荷物を見る。
送り主は、ウィント伯爵。
あの司書のモデルがドロレス・ウィントとかいう名だったはずだ。
だとすると、そのドロレスの父親か。
──何故、俺に送ってきた?
「まあ、調べてみるか」
そこに詰まっていたのは、書簡の束だった。
故人フレデリカ・ボルツと故人ドロレス・ウィントとの間でやりとりされた書簡。
そしてルーカンラントでも使われる特殊なインクと粉末のセットが同封されていた。
これは、本当ならエドアルトに宛てるつもりが、何らかの手違いで俺のところに届いたんじゃないのか?
そんな疑問が脳裏に浮かぶ。
なら、返すべきだ。
だが俺はボルツとドロレスの肉筆文字にふっと惹かれてしまった。
端正な文字のボルツと、神経質かつ昂った筆致のドロレス。
そうして業死した女二人の謎めいた書簡に、俺はなんとなく目を通し始めた。
内容は、どこそこへ行けとか、あれそれを購入しろみたいな雑用が多い。
そんな他愛の無い手紙四十通ほどに目を通していく。
たいしたもんじゃねえな。
そろそろ飽きてきた。
これで最後にしようと思いながら、俺は少し厚めの手紙を手に取る。
その手紙のドロレスの筆致は、他の手紙と違い、とても丁寧で美しかった。
その内容は──錬金術師オスヴァルト・ボルツについて。
自らの魂を元に賢者の石を錬成し、生命の水を生成した狂気の錬金術師。
そして、あと一歩のところまで狂王カインを追いつめたが、滅ぼし損ねた男。
何故彼はそんなことをしたのか。
それは、数百年前のウィント家の当主に、手駒として選出された故。
未来視と因果干渉を行うウィントのせいで、彼は狂王殺しの錬金術師になったのだ、と。
ドロレスは、ボルツに心の底からの謝罪を繰り返していた。
我々が彼に関与しなれれば、あなたがこんな風に苦しむことはなかったのに、と。
賢者の石に因果干渉だあ?
荒唐無稽な話だ。
バカバカしいと切り捨ててしまいたくなるような空想話だ。
でも、俺は何故か息が詰まりそうになっていた。
戦争の英雄・邪眼のボルツと、東の名門ウィント家の夭折した天才ドロレス。
その二人が、本当にただの空想でこんな話をするのか?
その時、俺は同封されていたインクと粉末の意味に気がついた。
このインクと粉末の仕組みは、ルーカンラントやアウレリアならある程度は知られているものだ。
──このインチキ話は目くらましで、本題は隠しインクで記されているのか?
俺は、訝しみながら、一度読み切った書簡に粉末をふりかける。
書簡を覆う淡い光の中に、暗闇で綴られた文字が現れた。
そこに浮かび出たのは、第一王女エレオノールの死の真相だった。
曰く、オスヴァルト・ボルツがもたらした狂王カイン抹殺失敗の影響で、運命に歪みが生じた。
滅びかけた狂王は新しい肉体を欲しがったのだ。
狂王により選ばれたのは、宗主国イグニシアの双子の王女と王子だった。
紆余曲折を経て、標的は王子に絞られる。
しかし、狂王はより適切な肉体を見出してしまう。
王子と密かに交際していた恋人が、南の異能だけでなく東の魔法特性も強く受け継ぐ息子──ブラド・クローヒーズを身籠ってしまったがために。
エレオノールは吸血鬼に攫われた兄と義姉を救おうとして、彼女はその身に呪詛を受けてしまう。
そして、完全に吸血鬼化する前にドロレスに自らを殺させた。
これが第一王女怪死の真相だ。
他の書簡に書かれていたのは、ボルツとビヨルンの娘に宛てた、殺すべき吸血鬼のリスト。
市井の人間から、高位貴族まで。連合王国から、ギガンティアまで。
膨大な名簿の中には、確かに近年不審死を遂げた人物の名前が含まれていた。
全てを読み終えるころには深夜になっていた。
窓辺を照らす月は丸く、明るい。
すっかり乾いていた唇を、舌で湿らせる。
「これが本当なら」
俺は、赤い瞳のブラド・クローヒーズの顔を思いだした。
これが本当なら。
あいつは狂王の器として選出された子供だという。
しかも既に身体に狂王の血を受けて、あとは生け贄の魂を流し込むだけで完成する器。
あいつは火種なのだ。
あいつはこの世の全ての人を燃やし尽くす大火になる可能性がある。
ルーカンラントだったら──いや、俺だったら、こんなに育つまで生かしはしない。
とっとと殺してやるのが情けってもんじゃないのか?
俺は書簡をもう一度確認した。
殺すべき吸血鬼のリストの最後に書かれた名は、ブラド・クローヒーズ。
ブラドに対して危険が生じたら処理をしろと魔女からボルツへの指示があった。
命に代えても守り、もしその時が来たら殺せ、と。
それはボルツだけでなく、息子にまで履行を求めていた。
「──最悪じゃねえか」
つまり、フレデリカ・ボルツが海に沈んだ今。
ブラドの処刑人は、よりにもよってあのエドアルトなのだ。
あいつは。
ブラドを守れと言われて育てられて、その涯にブラドを殺すことになるのか。
だが、普通は締める予定の獣なんかに心を移さないだろ。
哀れみなんて感じないように。
でも、あいつはそうじゃあない。
それを、誰よりも分かっているはずなのに。
何もかも先読みしているくせに、指示しているのだとしたら。
このドロレス・ウィントとか言う奴は、俺なんかよりずっと人でなしだ。
残酷にも程がある。
──だったら俺が。
あいつの代わりになってやろうか?
それは、俺の脳内でそんな言葉が紡がれた瞬間だった。
☆
「よお……エドアルトはいねえの?」
夕刻、エドアルトの自室に本を返しにいくと、そこにはブラドだけがいた。
書きもの机で、メモを取りながら古びた巻物を読んでいる。
「ああ、ちょうど先生に呼び出された所だよ」
「また何か悪さでもしてんの? 相変わらずだな」
「いいや、今度の野外調査についてプランの変更があって、細部の調整だって」
ブラドは俺に目も合わせずに答えた。
「そっか。じゃあ少しここで待つとするか」
そのまま帰っても良かったが、俺はブラドの後ろ姿をしばらく眺めることにした。
身体のシルエットがやたらと細い。
ブラドは食が細いからだろうな。
意外なくらい大食で、何でも好き嫌い無く喰うエルリックとは正反対だ。
「お前は何やってんの?」
「調べ物だよ」
無防備な後ろ姿。
そっと近づいて、ちらりと覗き込む。
「君たちの嫌いな魔法の話。しかもハーファンの魔法の源流」
「へええ」
巻物の中には、よく分からないグルグルとした図表が広がっていた。
入学のときに見た何とかいうアレに似ている。
「俺は嫌いじゃねえよ。だた縋る気にはならねえだけだ」
「……縋る、か」
訳ありげにブラドは呟いた。
「で、何を調べてんの?」
「全てを変える魔法。イグニシアの天使が与えてくれる奇跡以上の奇跡……かな」
「はあ?」
「本当かどうかは分からないけどね。あまりにも古い魔法だから、大袈裟に言っているのかも知れないし」
ブラドは俺に向き直って、説明を始めた。
学園で全生徒が記録することになっている模様。
実は、それはハーファンの古代魔法の秘密につながっているのだそうだ。
学園は密かに生徒の模様を利用して、古代の模様の解析を進めようとしている。
模様が生体のどこに組み込まれているか、どのように働いているか。
魔法や異能との関係。
模様と世界との深い関わり。
ぐちゃぐちゃと面倒な説明が続いたが、つまるところ秘匿された古代の模様を所有した者は、その上を歩くだけで、世界を改変できるのだそうだ。
一度ではほんのわずかにズレた可能性への移動しかできないが、繰り返すことであらゆる可能性を改変できる。
例えば、小石一個だけ増やす。
それを気の遠くなるほどの回数繰り返せば、海を埋め立てることすらできる。
果てはこの世界を好き放題に作り変えたり、別の世界に転移したり、別の世界を創造することすら出来るらしい。
「そんなことが本当に可能だと思ってるのか?」
「思ってないよ。ただ調べてみたかったんだ」
ブラドは、戸惑いがちに目を伏せた。
「へえ、そうかい」
おそらくは、自分が呪いから解放されるためだろう。
こいつは、こいつなりに自分の運命を切り開こうとしているのだろう。
でも、こいつが本当にそんな魔法を手に入れたら?
そして、こいつを化物どもに奪われたら、こいつがどれほど危険な化物の王様になるのか。
俺には想像ができなかった。
☆
長剣を鈍器のように振り下ろす。
エルリック・アクトリアスは容易く昏倒して倒れた。
「……!」
「……!?」
前を歩いていたエドアルトとブラドが振り向いた。
すぐさまエドアルトが俺とブラドの間に移動する。
「君は何を……?」
「エドアルト、お前はすっこんでろ。用があるのはそいつのほうだから」
跳躍して、首なし王子の寝台の上に乗る。
そして短剣の刃に指の腹を押し付け、傷つける。
鮮やかな赤が、死体の上に滴った。
「クロード、君はまさか……!」
幾つもの呪縛によって拘束された、首なし死体が暴れ始める。
同時に、部屋がぐらりと揺れた。
空気の匂いが変わる。
深く、古く、そして穢れた匂いだ。
エドアルトの想定通り、空間転移が起こったようだ。
「さて……ここなら誰にも助けは求められないな」
俺は首なし王子の寝台から跳躍した。
ブラドまで一メートルほどの場所に、すとんと着地する。
「なあ、ブラド、選択させてやる。今すぐ死ね、それが出来ないなら俺が殺してやる」
「……君は、何を言っているんだ……?」
ブラドはよろめくように後退る。
「クロード!」
剣に手をかけた瞬間、目の前の人物が、ブラドからエドアルトに変わる。
お得意の場所替えだ。
「エド!」
「逃げるんだ、ブラド。お願いだ、遺跡へ逃げてくれ!」
俺はブラドを追おうとする。
しかし、必死の形相のエドアルトが立ち塞がった。
こいつと闘るのはダチになったあの日以来だな。
懐かしさを覚えながら、俺はゆっくりと剣を抜いた。
☆
一通り拘束をすませてから、俺は縛り上げたエドアルトの背中の上に座った。
戦闘は、あっという間に終わった。
閉所のうえに至近距離という、剣士に有利な間合い。
切り札のいくつかは俺に見られたこともある。
しかも、触れてはならない禁忌の死体と、昏倒した友人を守りながらの戦闘だ。
さすがのエドアルトも、勝てる状況じゃなかったらしい。
「ところでよ、こんなところにブラドを一人にして大丈夫なのか?」
「君のようなケダモノといるよりはずっとマシだ。それに彼は人間相手じゃなければ十分に強いよ」
さて、困ったな。
この遺跡は第四屍都アンヌンだ。
広大で入り組んだ場所に隠れた人間を探すのは、魔法を使えない人間には厳しい。
だが俺には手元にエドアルトがいる。
こいつは便利な錬金術師だ。
手袋を外して、中に込められた短杖を取り出していく。
恐ろしいことに、コイツは手袋の中に三十本もの短杖を格納していた。
「なあ、エドアルト。ブラドの場所の場所を知るためには何を使えばいい?」
「僕が、答えると、思っているのか?」
「さあな」
反撃の機会を折るために、指の関節一つ一つを外していく。
意図的に神経に障るように痛みを与えながら。
「……っ!!」
誇り高いエドアルトは、声を上げなかった。
強情だな。
だが、このくらいは想定内だ。
指から手首へ。
外すついでにあらぬ方向に曲げて、伸ばす。
「答える気になったかよ、エドアルト?」
「…………っ」
「そうかい、気長にやるとするよ」
ブラドを守れと言われて育ったお前の意志を俺が折ろう。
お前は最善を尽くして、万全に行動していた。
こんなことになったのは、俺がお前より少しだけ非道だっただけだ。
エルリックを盾にしたとき、短杖を使えなかったお前の甘さと弱さが俺は嫌いじゃない。
友を失って悲しむ前に、俺を憎んで気を紛らわせれば良い。
これは、お前の悲しみになんて寄り添えない俺が出来る、唯一の慰めだ。
「……っ、く……、ぐ…………っ!!」
指が終わったら、肘の関節を外す。
そして、肘が終わったら肩の関節を外した。
その頃合いには、さすがのエドアルトも痛みから意識が曖昧になってきているようだった。
そろそろこいつも堕ちるだろう。
「これは……何が……なんでこんな……クロード……?」
声がする。
卒倒していたエルリックが起き上がっていた。
「へえ、もう起きたのか。思ったよりずっと頑丈じゃねえか。三年くらいは床に伏せてると思ったのに」
エルリックが驚愕の表情を浮かべる。
「……君は、何をしている?」
「見て分かんねえの? ブラドの居場所を探すために、エドアルトに聞いているところだ」
「……何故ブラドを? なぜ彼はここに居ない?」
「さあ、何故だろうな」
俺は誤魔化した。
イクテュエスの内部ですら口にすべきでない秘密を、敵国生まれに漏らす訳にはいかない。
「理由はいい。今すぐエドアルトから離れろ」
「わりぃ、無理だ。俺も訳ありでな」
「どんな理由があろうとも、友人をこんな嬲り方をする必要があるわけないだろう?!」
激昂するエルリックは初めてだ。
どんな侮辱を受けても涼しい顔で受け流しつづけたお前でも、譲れないものはある訳か。
俺はエドアルトの拘束をキツく締め上げて立ち上がる。
目の前の男の手の皮膚が銀色に変色し始めていることに、俺は気がついた。
「お前……そうか、普通の人間じゃないな? 釘打ち、ここで狂うなよ?」
「君こそ死ぬなよ。手加減は苦手なんだ」
エルリックの肘から先と膝から先が甲冑の様な形状と色彩に変化していく。
噂に聞く巨人とは随分と違い、その姿は美しく思えた。
エルリックの繰り出す拳をとっさに拳で受ける。
骨が砕けた。
距離を取り、即座に治癒する。
肥大化してなくても、巨人は巨人ってことか。
なるほど、確かに加減なんてしてたら命がねぇ。
脚力を強化し、斜めに壁を駆け上がる。
剣を抜き、跳躍。
腕力に速度、重さを上乗せし、対応しにくい角度からの斬撃。
叩き斬るつもりが、銀色の装甲に傷一つつかない。
痺れが肘まで伝わってくる。
鋼鉄の剣は折れこそしなかったが、握力を失った右手から弾き飛ばされた。
──接地。
流れるような筋肉の動きで、即座に推進力を打撃力に変換する。
本命は、左の掌底。
回避不能な間合いから、身体強化を最大にして放つ。
殻が分厚いなら、柔らかい中身を潰すまでだ。
「くっ!?」
エルリックはよろめき、脇腹を押さえて後退る。
血を吐いて倒れるはずだったんだがな。
流された?
随分とケンカ慣れしてるじゃねえか。
優等生のくせによぉ。
エルリックはダメージにも怯まず、俺に対して身構える。
俺もまた折れた手首を繋いで、構え直した。
おもしれぇ。
反応速度も技量も高く、膂力は俺以上。
もっと早くこいつに出会えていたら、俺はずっと楽に人生の暇がつぶせたろうに、残念だ。
再び拳同士が交差する。
破壊される度に繋がなきゃいけない俺が、若干分が悪い。
長引けば長引くほど、俺が押されていく。
ついに一手ズレてしまい、拳を受けるだけで精一杯になってきた。
チャンスと思ったのか、エルリックの攻勢が強まる。
俺は、あっという間に首なし王子の寝台まで追いつめられていた。
次の一撃は耐えられない。
そう確信した時、とっさに俺は、首なし王子を盾代わりにしていた。
首なし王子の死体は、エルリックの拳に心臓を貫かれた。
死体の胸に開いた穴から血が噴き出す。
視界が赤で埋め尽くされる。
死体としてはありえない血の量だ。
それだけの致命的な損傷を受けていながら、死体は修復を始めている。
ただの眷属ならあり得ない再生力。
それこそ狂王が手づから作った太古の怪物でもなければ。
「……はは……っ、これはこれは……この金狼王子、本物なのか!」
返り血でエルリックは真っ赤に染まっていった。
その表情は畏怖に凍り付いていた。
触れてはならぬ物に触れてしまった、恐怖。
「くっ、君はなんてことを……!」
「この感じだと、次の感染者はお前だな、エルリック」
「……っ!?」
首なし死体を貫いたショックのせいか、エルリックの動きには隙が生まれていた。
俺は、その隙をついてエルリックに殴り掛かる。
ダメージは期待できない。
左右から打撃を加え、頭部を揺らす。
仕上げとばかりに顎を打ち抜いた。
さしもの巨人も、脳震盪には勝てなかったようだ。
倒れたエルリックに、すぐさま馬乗りになった。
「巨人はこう仕留めるんだそうだな」
俺はエルリックの服を引き裂き、背骨に食い込んでいた釘を乱雑に抜いていく。
エルリックの悲鳴が、霊安室に響いた。
十本ほど抜いた頃合いに、俺は背中に焼け付くような衝撃を受けた。
炎の魔法による攻撃か。
俺を殺すつもりにしては、悪意がまったく足りない攻撃だ。
振り向くとブラド・クローヒーズがいた。
濡れたような赤い眼の、魔法使い。
「今更戻ってきたわけか。残念だったな、お前の守り手はもういねえよ」
「私は、守ってもらうだけなんて御免だ!」
ブラドが詠唱とともに呪符をバラ撒く。
呪符の塊が、火炎、稲妻、冷気、旋風を纏う。
それぞれの塊は、小型竜のような輪郭をしていた。
人工精霊だ。
しかも、四体多重起動か。
器用な真似をしやがる。
人工精霊たちに射撃を任せながら、ブラドは新たに呪符を取り出して拘束の魔法を繰り出す。
魔法使いにしては、守られるだけのお姫さまにしては、なかなかだ。
だが、その程度だ。
敵意を隠すのが下手な術者の魔法の起動も、単調な作り物の竜の行動パターンも、まるわかりだ。
先ほどまでの攻防に比べれば、退屈極まりない。
俺は全てを回避して、ブラドに肉薄する。
魔法障壁が目の前で展開するが、それも読めていた。
掌に隠していた雪銀の首飾りで防御を突き破り、ついにブラドを捕らえる。
残念だったな。
精霊の同時召喚なんてやれる魔力があるなら、部屋ごと蒸し焼きにすれば勝てたのに。
「エドアルトやエルリックの努力を無駄にしたな」
ブラドの首を押さえつけ、吊るし上げた。
「それにお前はなんで俺に殺されるのか、本当は分かってんだろ?」
「……っっ!」
ブラドの瞳が一際赤く染まったような気がした。
「その顔。やっぱり自分が生きていてはいけない人間だって知っていたんだろ?」
首を締め上げられながらも、ブラドは唇を動かす。
だが俺は構わず首を締め上げた。
このまま、華奢な首を握りつぶしてしまえば、すぐに済む。
全てが終わる。
そのハズなのに、そのために全て仕組んだはずなのに──
俺はブラドの軽い身体を石床に叩き付けていた。
──まだだ。
未だ、時は満ちていない。
脳裏に浮かんだ強烈な確信が、俺を動かしていた。
そうして、俺は屍都への扉を潜り、古い迷宮へと向かう。
まるで知り尽くしているかのように迷宮を駆け抜けながら、俺は地上を目指したのだった。
☆
己が手を見下ろす。
血にまみれたそれは、獣の形をしていて──
「……はっ……この俺が……金狼に呪われたってわけか」
俺は大叔父の死体を投げつけて、シグリズルを牽制する。
大広間には、そこかしこに死体が溢れていた。
足元には父の死体が転がっていた。
俺を見て欲しかったのに、もう二度と目を開くこともない。
ああ、俺は何が欲しかったっけ?
気づけば俺は、シグリズルの剣に穿たれて身動きが取れなくなっていた。
義母の喉から、狼の咆哮が漏れる。
──ああ、次はあんたなのか。
泣きながら縋る声が聞こえる。
ああ、あのスレイの息子ハーランが、泣きながら誰かを悼んでいる。
血を流しすぎたせいか、意識が遠くなっていく。
今頃になって、俺は全てを悟った。
俺はあの時、霊安室にいた時から、とっくに呪われていた。
だから、あの時、狂王の器としてカインの血を受けたブラドを殺せなかった訳だ。
あれは、我が主。
我らが、主なのだから。
☆
気づけば俺は、暗い森の中にいた。
喉の乾きを抱えながら、獣のように走った。
森を抜ける。
光の差し込まない暗い森から外へ。
月の輝く夜空が開けた。
眩しい。
丸く満ちた月が、俺の心をも満たす。
「ああ……思い出した……俺がいったい何だったかを……」
脳裏に浮かぶのは懐かしい顔ばかりだ。
皆、険しい顔で俺を睨んでいる。
ああ、そうかい。
そうだろうとも。
俺だってこんな有様になるとは思わなかった。
「俺は……」
果たして俺は何が本当に欲しかったのか。
今はそれすら失って、ひりつくような乾きを癒す何かを欲している。
あそこへ。
もう一度あそこへ。
居ても立ってもいられないような懐かしさに駆り立てられて、俺はまた走りだした。




