ドロレス・ウィントの六回目
今日は運命の日だ。
まあ、この私──ドロレス・ウィントにとって運命の日なんてものは、朝から雨の降る日ぐらいありがちでくだらないものなのだけど。
悲劇は雨のようなものだ。
そして、悲劇の予兆は雨雲のごときもの。
それは涙と血の雨を降らす、御しがたい雨雲なのだ。
いいかい、ドロレス?
だからウィント家の人間は運命に干渉して雨雲を追い払う風の役割をしてるのだよ。
私が生まれるずっと前に若死にした祖父は鏡越しに繰り返しそう言っていた。
ウィント家の因果干渉の仕方は、ごくごくシンプルだ。
例えば、幼い頃に繰り返し読まされた物語どおりの状況に置かれる。
例えば、引き出した本の間に小さな紙片があって、その日決して右に曲がってはいけないなどと忠告を受ける。
未来視した人間の都合の良いように、動かしたい人物に繰り返し繰り返しメッセージを仕掛ける。
たったこれだけ。
しかし、一見たいしたことのない干渉も、何代にも渡って偏執的に繰り返されれば無視しがたいものになる。
ついには干渉された人間の生来の行動原理をねじ曲げるほどに。
不審死、自殺、発狂死、暗殺、行方不明。
同盟者殺し、君主殺し、夫殺し、妻殺し、親殺し、子殺し。
歴史書のページを適当にめくれば、不可解な事件や不自然な事件がチラホラと見つかる。
いずれも、より大きな惨劇を取り除くためにウィント家に関与された人々の悲劇だ。
わが祖先の仕業ながら、どれも芸術的でうんざりするほど的確だ。
さて、話は私の現在に戻る。
今日の朝、十三歳の私の目の前に古い魔術教本が落ちてきた。
とても不自然なタイミングで。
床に叩き付けられて壊れた本の表紙の隙間から、一枚の紙片が姿を現した。
それは百五十年前の祖先の走り書きで、今日私が殺すべき人間の名前と条件が記述されていた。
エレオノール・イグニシア。
私の仕えるべき王女。
たった一人のまともな親友で、幼い頃からの腹心の友だ。
またかよ。
というのが私の隠さざる本音である。
これと同じ内容のメモは、もう五回見たことがある。
最初にメモを受け取ったのは、私とエレオノールが八歳の頃だった。
幼い王女殺しは、本来はウィント家当主である私の父の役割だったのだけど、彼は拒否した。
拒否したい気持ちは私にも分かる。
そりゃ、宗主国の幼い王女を殺すのは感情、道徳、倫理、立場的に全てにおいてアウトだろう。
するとその三日後から、父の代わりに私が繰り返し祖先からのメッセージを受け取るようになった。
最終的に、亡き曾祖父や祖父から鏡越しに延々と説得されたのである。
あの子の因果は、度重なる干渉を受けた挙げ句、ウィント家直系子孫が直接手を下さなければいけないほど拗れているのだそうだ。
当時八歳の私としては、すべてに絶望しそうな役割だった。
大事なあの子を、雨から逃れるために殺すなんて嫌だった。
たとえ彼女が、歴史上もっとも忌むべき狂王カインの器になる可能性があろうとも。
結果的に、今まではどうにかエレオノールを殺さなくてすんだ。
けれど、私は暗殺用の魔法を仕込んだ五度の孤独な苦しみを、多分永遠に忘れない。
☆
さて、今日は宗主国イグニシアの王城で降臨祭を祝う日だ。
私はターゲットを誘き出して、二人きりになれる場所──バルコニーで夜空を眺めていた。
夜空は濃灰色の雲に覆われていて、新月の日だというのに星一つも見えない。
まさに私の人生のように、ぱっとしない辛気くさい空だ。
「とまあ、今朝はこんな感じな訳よ、エレオノール」
殺害対象者の名を伏せて、私は笑い話のように今朝のできごとを語る。
「まあ物騒。でも腹心の友として決して口にしないわ、ドロレス。あなたが人殺しになったって、きっとずっとトモダチだもの」
私たちはずっと親友的な甘ったるくて幼児的な執着。
殺害対象が自分だと知りもしない王女様はお気楽で、心底羨ましい。
ああ、魔法塔から魔力でも横取りして大規模天候魔法で雲を散らしたい気分だけど、ここは南だ。
近場に都合の良い魔法塔なんて一本も建造されていない。
私の自前の魔力は、王女暗殺用の魔法の準備に費やしてほぼ底をついているので、何もやりようがない。
「それにしても、あなたのご先祖様って本当に大変なのね。繊細な戯曲作家みたい」
「私が大変なのよ」
お気楽な王女様につっこみを入れる。
でも、この子はお気楽なままでいて欲しい。
できれば、他人の苦労なんてこれ以上知らないままでいて欲しい。
「それはもちろん理解しているわ。だってあなたの最初の殺人計画は私でしょ?」
エレオノールの言葉に、私は耳を疑った。
こいつ、今なんて言ったの?
私の動揺を知ってか、彼女は追い打ちするように言葉を重ねる。
「そして今回も私じゃあないの?」
「……まさか心を読んだの?」
過呼吸になりかけたのをぐっと抑えて、問い返す。
人の気も知らないで、エレオノールは思わせぶりに私を見つめた。
こういう時のこいつの作り物みたいな美貌が、最高にウザい。
「いいえ、あなたの顔に描いてあったから」
「この嘘つき。私は表情なんてまったくも変えてないわ」
「表情を顔に出さない代わりに、右手で左の二の腕を握り込むのに気がついてないの? 辛い選択を迫られているときの癖でしょ? 可哀相なドロレス!」
エレオノールはしてやったりと言わんばかりの顔を作る。
小憎らしい悪戯っ子の笑顔だ。
私が言い返す言葉を探している間に、エレオノールが問う。
「それで、今日はどんな条件なの? 私がどんな理由で死ぬのか教えてもらえる?」
「一人の少女があなたの前に現れる。その少女とあなたが友人関係を築けない場合、速やかに殺害せよって」
この王女が人見知りなのを知っての命令かと思うと、祖先が心底憎い。
「まあ、怖い!」
「だから、どんな嘘つきで卑怯者で詐欺師のような最低な人物が現れても、友達になってあげて」
「ええー!」
エレオノールは、楽しげにイヤそうな声を上げる。
ああ、こいつ、私の言う事聞く気ないな。
「あなたね? 私がどんな気持ちで言ってるか分かってるの?」
「人の心なんて誰にも侵されるべきでないのよ、ドロレス」
そこからエレオノールの主張が始まった。
自分は強力な能力者ではあるが、その力を人間に対しては使わない。
何故なら、自分は幼い頃から周りの人間をずっと無意識に書き換えてきたからである。
物心ついたときに、実母が手ずからココアを練って作るような母親でない事に気がついた。
無意識に実母の心を書き換えていたショックゆえに、一時期心を閉ざしていたのだ、と。
「だから人の心を変えるのも、変えられるのも絶対にイヤよ」
分からないでもない話だが、あいにく慮る暇が私にはない。
「それでも命くらいは惜しいでしょ? 事の重大さを分かっているの?」
私は懸命に説得する。
条件から外れると歯車が狂って、あなたが吸血鬼の女王様になってしまうんですって。
強力無比な精神感応能力ごと血啜りの王に乗っ取られるそうよ?
その吸血鬼の女王の築く屍の山の高さたるや、空前絶後になるの。
「だからね、命が惜しいなら私の言う通りにしなさい」
私の手札を公開して説得しても、エレオノールは動じた様子すらない。
「でも、私が生きている限り、あなたは私を監視する務めから逃れられないのよね? それじゃあ貴方は私の番人になるために生まれてきたようなものじゃない? ずっと縛られたままは嫌でしょう?」
ええ、もちろん嫌に決まってるじゃない。
だからって、私にはどうしようもない。
私は悲劇の王女の番人で、歴史の裏方として定められているのだ。
「私、どこかの沢山の誰かの平和のためになら、ドロレスに殺されてあげてもいいのに」
エレオノールは情け容赦なく、私に親友を殺すような人でなしになれという。
酷い話だ。
「どこかの誰かのために死ぬんじゃなくて、私のために生きなさいよ!」
私がヒステリックに叫ぶと、エレオノールは何故か笑い出してしまった。
一通り笑いが引くと彼女は目を擦りながら広間を指差す。
「そうは言っても、私たちに近寄ってくる人なんていないじゃない? 大人はみな忙しそうだし、子供はみな私とあなたに酷い目にあわされるってバレちゃってるし」
「完全に、あなたのせいよね……」
「あら、ドロレスがいけないのよ!」
私たちは二人とも基本的に人嫌いで閉鎖的だ。
見た目と振る舞いはまるで昼と夜のように違うが、心は同質なのである。
こうして人気のないバルコニーで甲斐のない人待ちを続けていると、それらしい人物が現れた。
同年代くらいのご令嬢に囲まれた中から、一人の少年が歩み出た。
丁寧に一人一人別れの挨拶をして、こちらにやってくる。
「ほら、あの子がこっちにくるわよ、エレオノール」
「あの顔の綺麗な男の子……?」
「いいえ。あれは男装している女の子みたいね」
服は豪奢なのに、サイズが微妙に合っていないのはどういうことだろう。
濃い金髪や顔立ちから推測するに、西の錬金術師の家系のようだ。
「それは面白いわ。楽しい事が起こりそうな予感!」
「楽しむ前に怪しみなさい、エレオノール」
バルコニーにやってきた男装の少女は、深々とお辞儀をして私たちに微笑んだ。
その笑顔は、どこかしら嘘っぽい。
冗談じゃなく詐欺師の卵が来てしまったのだろうか。
「エレオノール殿下におかれましては、ご機嫌麗しく。私はボルツ家の末子、フレデリカと申します」
ボルツ。
ちょっと前にどこかで盗み読んだ気がする名前だ。
アアル仮説とかいう論文を発表して怪死した学生の家名だっけ。
狂王現存説は大正解なので、何者かによって抹殺されたんだろうな。
「噂に違わず美しいお方だ。本当に天使が降臨なされたかと思いましたよ」
「あら、悪魔のようだという噂も聞いたことがあるけれど?」
「そのような心ない流言は初耳ですが……あなたのように可憐な悪魔になら、私は魂を奪われても構いませんよ」
虫酸の走るような美辞麗句。
なんだ、こいつ。
何からなにまで気に食わない。
エレオノールは一見それなりに楽しそうだが、その実玩具を遊ぶ仔猫のノリだ。
「魂なんていらないけれど、あなたは悪魔との契約の対価に何を望むの?」
「そうですね。生憎ながら美貌も才能も間に合っておりますので、強いて言うならば富でしょうか」
「あら、私の心はいらないの?」
「そこは実力で射止めてご覧に入れましょう」
少女はにっこりと微笑む。
コネと金銭目当ての俗物か。
没落寸前の崖っぷちで、継嗣であるはずの近親者が死んでいては足掻きもするか。
まあ、こいつの事情なんて興味ない。
正直者なのは悪くは無いが、あまり好きになれるタイプじゃない。
第一、こいつは何から何まで嘘くさい。
「私、あなたみたいな人は嫌いじゃないわ。では、そうね……」
エレオノールは思わせぶりに考え込むフリをした。
「もしも今日この夜空に星が流れたら、私があなたのパトロンになってあげるわ」
曇り空を指差して、エレオノールは微笑んだ。
無邪気そうな顔をして、随分と無理難題をふっかけたものだ。
まず、雲を散らせなければ話にならない。
島を覆う雲の一部だけを晴らしても、流れ星は見えない。
大規模な天候魔法などが必要だ。
雲の問題を解決しても、流れ星そのものはどうしようもない。
今は流星群の時期でもない。
完全に運任せな上に、勝ち目も薄い。
エレオノールの要求は実力と運の両方を試すものなのだろう。
「ああ、素晴らしい。それなら私でもお見せできるかもしれません」
姫君の無茶な要求に、その男装の少女は自信満々の笑顔を浮かべた。
「どのような星がお好きなのですか、姫君」
「一条の光の尾を引いて、あの空を横切って海に落ちる、とにかく綺麗な流星がみたいわ」
「かしこまりました。この一命を賭しても、麗しき姫の願いを叶えて差し上げましょう」
大袈裟なセリフを言って、彼女は空へ浮き上がっていった。
どんな大規模魔法でも短杖次第の錬金術師だ。
まずはどうやって〈伝令の島〉全体を覆う厚い雲を払うか、お手並み拝見と行こう。
そうして待っていると、高い場所から歌が聞こえ始めた。
それは故郷の古い子守唄に似て、どこかしら懐かしいような錯覚を憶えた。
「そういえば、ドロレス」
「何よ、エレオノール」
二人して呑気に錬金術師の歌を聞きながら、エレオノールは噂話でもするように話し始めた。
「アウレリアの錬金術には、星を落とす秘術があるって知っているわよね?」
「来航者の伝説でしょ? 辛うじて古い書物の中で読んだ事があるわ」
イクテュエス大陸に来航者の民が辿りついたその日、彼らは地形を変えるほどの数の流星を落としたと言う伝説だ。
自らの力を誇示するにしても、もっとマシな方法があるだろうに。
先祖代々、浪費家の愚か者なのだろうか。
「その星を落とす呪文の詰まった杖を使った者の百人中九十七人は死んでしまうらしいわ」
「ふーん、それで?」
「その杖を使うためには、ある歌を歌わなければならないそうなの」
「……は……?」
たっぷり七拍ほど絶句した後、私はエレオノールに問う。
「はぁ〜〜〜!? あいつ、よりにもよって今それをやろうとしてるってこと〜〜〜!?」
「お父様から聞いた話が本当なら、そのはずよ」
「じゃあ、このままだと十中八九あいつの死体が空から落ちてくるわけ!?」
「だから八割九割どころか、九割七分だって」
連合王国の重要人物がそろう降臨祭の宴の最中。
王城の獅子の間の目と鼻の先のバルコニー。
高所から転落し、目も当てられない姿の没落令嬢の死体。
第一発見者は何かと噂になりがちな人嫌いの王女と、人嫌いの伯爵令嬢。
冗談じゃない!
醜聞もいいところでしょ!
「なんて出鱈目な奴なのよ!? 気まぐれな王女の余興のために、いえ、たかが金銭のためにそんな危険を冒すというの?」
意味が分からない。
でも、それだけあいつが後に退けない立場だという事だけは分かった。
迷惑にもほどがある。
私がエレオノールを殺さないで済むように、どれだけ心を砕いていると思っているのか。
肝心の友人候補が死んでしまっては台無しだ。
あの女が条件の少女じゃなかったとしても、そんな不審死が発生したら、もはや誰も近づいて来ないだろう。
空を見上げる。
私の霊視の魔眼には、糸状の魔力の光が広がっていくのが見えた。
解析不能の魔力の糸は、絡み、結び、編まれて、整然とした紋様を形作っていく。
それは一種の荒削りな魔法陣のようにも、古代魔法の模様にも似て思えた。
魔法に精通した私ですら、こんなものは知らない。
なんなの、これは。
少なくとも、杖も歌も本物だというのは分かるけれど。
歌が終わる前に、あの錬金術師を空から引きずりおろさなければ。
「っ! あのバカが杖を振る前に止めてやるわ!!」
「私も行っていい?」
「ああもう、ぐずぐずしないでよね!?」
手早く飛行魔法の詠唱を終えると、私はエレオノールと一緒に空の上の錬金術師の元へ向かう。
あと少しで辿りつくという時に、強い風が吹き荒れた。
私は飛行魔法に不慣れなエレオノールを支えるように寄り添う。
風は厚ぼったく空を覆っていた鈍色の雲を一瞬にして晴らしてしまった。
月のない漆黒の夜空に、一面の星空が広がる。
天候魔法……?
いや、ただの突風の魔法だ。
ただし、伝令の島の上空を覆うほどの、とてつもない範囲に拡張されている。
星を落とす呪文の展開と平行して、こんな大掛かりな魔法を準備できたはずがない。
あらかじめ仕掛けておいた? たまたま広範囲化した短杖を持っていた?
まさか、そんな偶然があるわけがない。
短杖拡張とかいう高次魔法か。
──こいつ!
私が少しだけ錬金術師の実力を認めかけたそのとき。
光の雨が降り注いだ。
それは確かに流れ星だった。
天の頂きから、光の尾を引いて、海と空の交わる彼方へ。
数え切れないほどの星が流れ落ちていく。
幾筋も、幾筋も。
まるで天を覆う星々が残らず降ってくるかのようだった。
凪いだ海の水面には星々の軌跡が映り、海も空も光り輝いている。
虚空なる星々の海の果て、星が生まれる場所に迷い込んだかのようだ。
それは初めて見る光景だった。
私は息をするのも忘れて、流れる星を眺めていた。
ふと気づけば、エレオノールもまた吸い込まれるように彼方を見つめていた。
「はは、困った。最後の一発だったのに……」
か細い声に気がついて、視線を向ける。
錬金術師は、これだけの見事な技を見せたというのに、困惑した表情を浮かべていた。
「制御は完璧だったはず。どこで組み間違えた……ああ、もう、こんな杖、売り払っておくんだった!」
その顔は、先ほどまでの自信家で傲慢な印象とはあまりに違っていて──
それは、もうどこにも行き場のない子供の顔に見えた。
だから私は、どうでもよかったはずの彼女の事情をどうしても知りたくなったのだ。
「姫君。すみません、一筋のはずだったのに……! お見苦しい失敗を!」
「そんなことないわ! こんな素晴らしい流星を見たのは生まれて初めてよ!」
隣にいたはずのエレオノールが、弾むような声を上げて錬金術師に抱きついた。
人付き合いの悪い姫君は、この錬金術師をいたく気に入ったようだ。
つまりこれは、ウィント家の祖先の望む条件を満たしたことになる。
その事を思い出して、私は安堵から深い息を吐いた。
☆
それは正に運命だった。
その日、私は王女エレオノールを殺すことなく、もう一人の友──この哀れで救いがたき友フレデリカ・ボルツを得たのである。