顔のない男の正体4
「さて、困りましたね。何から話せばいいのやら。俺には秘密が多過ぎる」
ハーラン・スレイソンはぐるりと私たちを見回し、視線を真上に向けた。
資料庫の天井からは、白い清浄な光が落ちていた。
「全てを。貴方がなぜ醜聞塗れの吸血鬼殺しの長に成り果てたのか」
エドアルトお兄様の言葉を聞いた後、ハーランは深いため息を吐いた。
「今の俺は、いつ、どこからこうなったのか……そうですね。全ての始まりは、あの日の海でした」
ハーラン・スレイソンは先代ウルス辺境伯スレイの次男として生まれた。
優秀な兄がいたため、ハーランが家督を継ぐ道は早々に断たれていた。
そのため、ハーランは母方のコネを頼ってイグニシア王立海軍に入隊したのだそうだ。
そうして順調に出世してきたハーランの人生に、一つの転機が起こる。
それは密輸船捕縛の任務だった。
貨物は南方大陸に輸出禁止になっているアウレリアの星鉄鋼とルーカンラントの雪銀鉱。
故に、ハーランの指揮する捕縛船にはアウレリアとルーカンラントの人間が上官として乗り込んできたのだという。
乗り込んできたのは、毒婦の悪名高いボルツと、祖国の貴人たるシグリズル。
「それがあのお二人との出会いだった」
ありがちな任務の一つでしかなかったそれが、ハーランの運命を狂わせた。
恐るべき事に、捕縛船の乗員のうち彼ら三人以外の全員が吸血鬼の眷属だったのだという。
「海のど真ん中で奴らは本性をあらわしやがった。俺はたった数匹の〈猟犬〉に手も足も出ず、体中食いちぎられましてね」
右膝、左手、脇腹。
ハーランは自分の体を順番に指差していく。
彼の窮地を救ったのは、シグリズルだった。
九死に一生を得て生還したハーランは、シグリズルに忠誠を誓った。
これが吸血鬼が頻繁に起こす事件の一種なのだと、ハーランは後にシグリズルたちから聞かされた。
当時のボルツとシグリズルは、吸血鬼絡みの事件を嗅ぎ付けて秘密裏に解決していたのだそうだ。
「だから俺は、どうにか、あの人の役に立ちたかった」
そのために、ハーランは何でもやった。
体組織を錬金術で再生し、身体を元に戻した。
自由になる資金と立場を得るため、尊敬していた兄を謀って家督を奪った。
吸血鬼事件の生存者を集め、教導し、吸血鬼退治の専門家集団として組織した。
北部のみならず、北西部、王立軍、教会などに地盤を築いた。
薬学、錬金術、魔法、精神感応、学べるものは何でも学び、身につけられるものは何でも身に付けた。
沢山の吸血鬼を殺した。
無辜の民も殺してしまった。
そうしているうちに、二度ほど吸血鬼に暗殺されかけて、自らの顔を隠すようになった。
「殺しに殺して殺されそうになってギリギリで生き残って、なんてのを繰り返しているうちに、あの人が──フレデリカ・ボルツが太古の吸血鬼を含む数百の眷属を道連れに海に沈んだ」
海難事故のはずの母の死は──。
ハーランの口からさらりとこぼれ落ちた真実が、私の心にざくりと刺さった。
鏡の向こう側にいた少女の姿が、脳裏に浮かぶ。
あの子はそんな死に様をしたのか。
「貴方は貴方の母君が何者であったか知っているんでしょう、エドアルト卿?」
お兄様は私を一瞬見てから、視線をハーランに戻して頷いた。
「ええ。ある因縁から母は吸血鬼を追い、そして殺していたことは知っています」
フレデリカ・ボルツは何者だったのか。
ハーランの話に寄ると、彼の原型は私たちの母だったと言う事だろうか。
「そして、八年前のあの事件だ。シグリズル様を失って、一人きりになった俺は、あの二人の残した仕事を引き継いだ」
人狼虐殺事件。
ルーカンラント公爵家の一族がことごとく皆殺しになった惨劇。
クロエが家族と過去を失ったその日、ハーランもまた命の恩人を失っていたのか。
ハーランは笑顔を浮かべた。
「さて俺の来歴はこんなものですよ。信じるも信じないも自由だ」
そう言ってハーランは再び私たちを見回した。
「だから、あなたは私たちのこと恐れていたの?」
やっと納得した様子でクロエが言った。
「ああ、そうです。死人が甦ってきたみたいで、目を見るたびに許しを乞いたかった。守れなかったことを、助けられなかったことを」
告白をするシトロイユは、あの日のヤン・カールソンに似ているような気がした。
助けられてしまった生き残り達。
彼らは命を助けた人間の思い及ばぬ形で、強烈に呪縛されている。
「今回の茶番の目的について、お話ししましょう。俺にはどうしても知りたい事があったんです」
シトロイユが兄を見据えて言葉を続けた。
「俺はここに、呪われた金狼の解呪法、つまりクロード・ルーカンラントを殺さずにすむ方法を探しにきました」
「……クロード・ルーカンラント」
お兄様がその名前を復唱した。
その声に、ほんのわずかな感情の揺れを感じる。
「八年前のあの事件の後に、俺は彼の身柄を預かってましてね。ただもうだいぶ呪詛にやられちまって……とても表沙汰にはできない姿になっていた。この資料庫になら手がかりがあるはずで、だから俺はどうしてもここに来たかった」
それを自らの手で確かめる必要があったと、ハーランは続けた。
八年前、遅れて惨劇の現場に辿りついた彼はクロードと相打ち寸前のシグリズルと出会ったそうだ。
多大な犠牲を出しながら、ハーランはようやくクロードを生け捕りにすることができた。
金狼の呪詛は、どういう理屈か雪銀鉱の剣を持っていたシグリズルにすら転移しかけていた。
シグリズルへの呪いの転移が完了する前に、彼女は自らの介錯を願ったのだと言う。
「あの人を、あなたの母君を手にかけたのは、俺です」
クロエが口元を押さえた。
しばしの間をおいてお兄様が口を開いた。
「そうですか。貴方が彼女を」
お兄様が憐れみの視線を投げ掛けると、ハーランは視線を逸らした。
その眼は空ろだ。
「俺はあの人を守れるような男になりたかったのに、この有様ですよ」
炎上する居城の奥、大時計に隠されていたクロエを救い出し、彼女の記憶を出来る限り洗い流した。
クロエがクロードに、そして金狼の呪詛に関わらないように。
クロエを縁故のある豪商に預けたのも、その後もずっと資金提供していたのもハーランだという。
「クロード様をお救いしてから、クロエ様をお迎えに行くつもりでした」
そこまで話すとハーランは顔を両手で覆って、深く静かに息を吐いた。
「しかし、呪詛の解析は難航を極めてしまいましてね」
雪銀鉱の鎖で金狼自体をある程度は封じることは出来たが、呪いを解くには至らなかった。
かろうじて過去に遡及し感染する時間魔法の系統だということまでは分かったのだと言う。
なるほど。
呪われたという結果を導くために、感染可能な時点まで遡って呪うということか。
ノットリードの上空に現れた〈炎の剣〉に似ている。
雪銀鉱や解呪が無効なのも無理はない。
「でも、その手がかりはシグリズル様の秘密の書庫に収めてあった写本だったんですよ」
「〈奇譚蒐集者の会〉の所蔵本、というわけですね?」
「ええ。だから、ここになら原本があるはずだと、俺は考えたわけです」
ハーランは真っ白な書庫を見回した。
「しかし、あんな人工精霊が索引を担当しているとはね。間抜けな話なんですが、誘拐事件の原因は俺が検索に失敗して人工精霊が起動しなくなったせいなんですよ」
ドロレスのあの性格が誘拐事件の遠因だったなんて。
なんとも言えない複雑な気持ちになってしまう。
「正体が見破られると、学園には居られない。俺には時間がなかった。だから、ウトファルとは別口で集めていた魔法使いたちを引き入れて、空間ごと複製してしまおうという計画を立てた」
「そこで、万霊節を利用したわけですか」
複製とは大胆な手法だ。
でも、あの書庫の本は人工精霊が貸し出してくれるまでは白紙のままで、掠奪不可能だものね。
とはいえ複雑な仕掛けなので、解析にも複製にも時間が必要だったらしい。
大人数を長時間滞在させるには、いくら部外者が潜り込める万霊節を利用しても限界があった。
「この学舎から有能な魔法使いや錬金術師を、特にあなた達を引き離す必要があった。そのためにはグラウ嬢を攫うのが最適だと分かった」
「あなたがベアトリスを選んだんだ」
「ええ、そうですクロエ様。もちろん安全にお返しするつもりでいました」
ハーランは、常に私たちを観察していた。
ベアトリスがクロエにとってどれだけ大事か簡単に分かったのだろう。
「俺の替え玉が乗り込んできたのは、もちろん学園長以下の教師や王太子、そしてクラウス・ハーファンを足止めする時間稼ぎです」
すると私が攫われたサードシナリオでハーランが止めたかったのはお兄様辺りだろうか。
そこから何がどうなって私が水死体になるのかは謎のままだけど。
今となっては、サードシナリオで何が起こるはずだったのか確かめる術はない。
「ついでとばかりに反乱分子も片付けた、と」
「ええ。俺としてはウトファルを一度イグニシアの管理下に置きたかったんですよ」
「人の営みの裏側で何が起こっているかを、白日の下に晒したかった?」
「それもあります。でも単純に彼らを止めたかったというのも大きな理由です。吸血鬼と向きあっていると、どうしても人の心が削れてしまう。心に本当の限界が来る前に、彼らを俺の狂猟から抜けさせたかった」
暴走した馬車を止めるために、馬を殺すより車輪を壊すほうがいいと考え直した。
そう語るハーランの言葉に、私は万霊節で交わした会話を思い出した。
「さてここからが一番大事なことになります」
ハーランは二度ほど深呼吸してから、口を開いた。
「今から121日前に呪狼が覚醒し、その逃亡を我々は防ぐことができなかった」
「……逃亡……!?」
クロエが呻くように言葉を漏らした。
「クロエ様、これが洞窟城からの脱出時に詳しく語れなかった事です。その結果、ウトファル騎士団の統制が崩れました」
まさかのクロード・ルーカンラントの逃亡。
しかも重篤な呪いにかかった状態で?
古い吸血鬼どころの問題じゃない。
「ウトファル騎士団だけで、少なくとも五十人以上の被害が出ているようですね?」
「百人以上です。情報は秘匿しているつもりだったんですがね。さすがエドアルト卿だ」
「四ヶ月前ほどから北の情勢が探りやすくなりましたからね。それがまだ続いているということは、クロードは……」
「ええ、今もそこら中を食い荒らしている可能性があります」
お兄様が問い返すと、ハーランは頷いた。
人を貪って喰らう人狼が暗い森を彷徨っている姿が、脳裏に浮かぶ。
なんてことだ。
「一刻も早く、我らは彼を捕らえねばならないのです」
殺しても感染して殺した相手に取り憑く呪い。
そんなもの、どう倒せば良いのか。
それ以前に、どう捕らえれば良いのかも不明だ。
前回捕縛した時の状況から考えて、捕らえられるくらいに狼を弱らせた時点で、その相手にも感染してしまうのだから。
──いや、確かな方法が一つだけある。
そこで私は初めて気がついた。
捕らえるには、シグリズルとハーランがやったことを誰かがもう一度やる必要があるということを。
でも、誰がそんな過酷な役目を負わなければいけないのか?
「ハーラン卿、その役目を僕にも任せていただけないでしょうか?」
「……それは駄目です。あなたの役目は真実の解明だ。あなた以外にはできないことがある」
「もう貴方では背負えないからここに来たのではないですか?」
お兄様の視線がハーランの視線とぶつかり合う。
「僕も彼とは因縁が深いんですよ。今更逃げる事が出来ないくらいにはね」
「だからこそ、未来ある貴方にはこれ以上金狼の呪詛に関わって欲しくはないのです」
「僕が、クロードがああなった原因の一つかもしれないと言っても?」
「……っ!」
ハーランの表情が固まった。
「旧友と僕自身の救済のために力を尽くさせてください、ハーラン卿」
ハーランは言葉を失い、考え込む。
兄はくるりと私に向き直った。
いつも通りの優しく甘い面差しに、少しだけ切実な色が混じっている。
「そのために、エーリカ、君も僕を助けてくれないだろうか」
錬金術師エドアルト・アウレリア。
彼はすべてを見透かしたような眼で私を見つめて言ったのだった。
 




