巨石の祭壇2
クラウスは雄叫びをあげながら古の黒い怪物ザラタンに向かっていく。
彼の周囲に展開された無数の呪符の塊は、ザラタンのものに負けない巨大な腕のようにも見えた。
子供向け絵本を思い出す。小魚が集まって体を大きく見せてるのと同じ方法だ。
でもこれで対抗できるの?
ザラタンが前腕を振り上げた。
クラウスは呪符を盾のように前面に集中させ、丸太のような腕を受け止める。
怪物の鉤爪が接触した瞬間、整然と隊列を組んだ呪符から一際大きな魔法陣が展開された。
両者の間に大きな火花のようなものが散り、魔力の残滓が鱗粉のように宙に舞った。
クラウスは二メートルほど押し戻され、膝をつく。
なんとか無傷のようだ。
おおっと、ドヤ顔でこっち見た。
強いのは分かったけど、心臓に悪いから、や、め、ろ。
「何をしている、エーリカ! 杖を使え!」
「はい! クラウス様!」
おっと、ドヤ顔じゃなくて睨んでたのか。
考えてみればそうだよね。
クラウスは展開した呪符のほぼ全てを防御陣に組み込んでいる。
攻撃手段は火焔の矢の杖だけ。
しかも、あの杖の残り弾数は一発くらいじゃなかったっけ?
そんな有様で、いくらクラウスでも、明らかに強そうな怪物と一対一で戦わないはず。
アンの方をちらりと見る。
彼女は内陣と祭壇に向かう主道路を隔てる壁の影に隠れているようだった。
私もアンに倣って柱の影に飛び込む。
魔法使いクラウスと巨獣ザラタンの攻防は続いていた。
クラウスは防戦一方だ。
時折、呪符に魔力を纏わせて攻撃している。
しかし、怪物の硬そうな鱗には傷一つついていない。
防いでいるだけでも凄いとは思うけど、彼の魔力は無尽蔵ではない。
その上、魔力回復の水薬にも限りがある。
(クラウスを援護しなきゃ……!)
しかし、脂ではダメージにならない。
私は鞄を開け、短杖を探す。
こんなボス戦みたいな状況は想定していなかったので、戦闘に使える杖は少ない。
私はベルトのホルダーに挿した杖を入れ替えていく。
雷光の矢。
魔弾。
金縛り。
突風。
場所替え。
浮遊。
クラウスの指示した脂も、一応は戦闘用かな。
入れ替えていくうちに、切り札として使える杖に気がついた。
死の腕の杖だ。
材質は糸杉。杖頭は十二個の苦礬柘榴石。
杖の表面は艶やかに磨かれ、アウレリア式の哀悼の言葉が刻まれている。
芯材は没薬を染み込ませた麻布で包んだ、自然死した生物の末期の吐息。
死の腕の魔法で殺せるのは、芯材に使われた息を吐いた生物よりも小さな生き物だけ。
対人が中心の戦争などに持っていくときは、馬の末期の吐息を使う。
この杖は迷宮探索用だ。
猛獣や怪物と戦わなければならないから、それなりに大きな生物の末期の吐息が使われているはず。
ザラタンは、象より少し小さいくらい。
(残りは一発。芯材が象か鯨ならこの杖の勝ち。熊や虎だったら、諦めて逃げよう)
クラウスがザラタンの鉤爪を逸らし、数歩距離を取る。
そこにタイミングを合わせ、私は柱の影から飛び出した。
「こっちよ、化け物!」
私の言葉に反応し、怪物が動きを止める。
彼はこちらの姿を見て、歓喜の笑みを浮かべた。
『ア、ア、ア、ア、ア、ア、ア、アウレリアァーーーーーー!!!』
深い怨念の籠った叫びが、伽藍の空気を震わせる。
恐ろしいはずなのに、何故か心地いい。
怪物はクラウスから視線を完全に切り、私の方に向き直って後肢に力を込めた。
その一瞬の隙を狙って、私は短杖を使う。
深紅と黒で構成された、暗く目立たない魔法陣が杖の先に浮かぶ。
そこから、歪んだ三本の手のようにも見える昏い影が巨大な怪物に向かって伸びていく。
死の黒く長き手は、彼を静かに撫でた。
『覚えている……その魔法を覚えているぞ、卑怯者の侏儒ども!
愚かな女よ。
この俺より巨大な生き物など、この世界のどこにも存在するものか!
俺はこの大地……お前ら宿無しの侏儒どもを乗せて海を渡ってきた、この都市そのものなのだからな!』
……元は都市サイズ!? 鯨でも無理だった!
巨獣ザラタンは地を蹴り、その巨体に見合わないスピードで突進してくる。
私は弾切れの死の腕の杖を放り捨てて金縛りを抜く。
(ダメ! 間に合わない!)
私は思わず身をすくめ、目をつぶってしまう。
分厚いコンクリートの壁に車が衝突するような激突音が、私の鼓膜を震わせた。
クラウスが、私と怪物との間に割り込み、庇うように立っていた。
彼は更に数百枚の呪符を防護陣に上乗せし、ザラタンの攻撃を受け止めている。
「クラウス様!」
「エーリカ! お前、どうして攻撃を……ああ、いや、悪い、俺の説明が足りなかったのか」
「ええっ? ごめんなさい、ダメだったんですか?」
「お前があの獣を攻撃したら、俺が攻撃を引きつけても無駄になるだろう?」
ネットゲームでいうところのヘイト管理をしてたのか、クラウス。
防御力の高い人間が攻撃を引きつけて、他の人間は脅威にならない程度の援護を行うというアレだ。
だから私には援護として脂を仕掛けろってことだったのね。
でも、この戦い方だと誰かが決定的な攻撃を行わないと、引きつけ役のクラウスの身が危険じゃない?
高位の治癒魔法を容易に扱えるのは、北の人間くらいなのだから。
「まだ金縛りや雷光の矢があります。倒すのは無理でしょうけど、隙を作って逃げましょう」
「気持ちはありがたいが、攻撃用の杖は温存しておいてくれ。一斉攻撃が必要な瞬間は、その時がくれば……」
ザラタンの鉤爪が防護陣を打擲する。
連続攻撃によって呪符の結束が緩み、その半数近くが弾き飛ばされた。
防護陣の裂け目から、ザラタンの笑みが覗く。
『ク、ク、ク、ク、ク、三文芝居は終わったか?』
「エーリカ! 脂だ!」
「はい、クラウス様」
クラウスが何とか半分になった呪符をやり繰りして怪物を抑えている。
その隙に、私は脂の杖を抜く。
果たして脂はこの状況に有効なのか?
クラウスを信じてみるしか無い。
脂の杖を振ると、白い球体の魔法陣が杖頭で膨らんでいく。
バスケットボール大に展開した魔法陣によって魔力が物質に転換され、大きな油脂のしゃぼん玉が形成された。
「当たって!」
私は杖を振り回し、油脂の玉をザラタン目がけて投げた。
脂はふわふわと上下しながらゆっくりと飛んでいく。
油脂の玉が鼻先まで近づいたところで、ザラタンはつまらなそうな顔で身を翻す。
軽々と回避されてしまった。
鎧を着てる人間が相手なら兎も角、縦横無尽に飛び回る怪物相手にこれを当てるのは至難の業だ。
クラウスが防護陣の呪符ごと弾き飛ばされた。
「クラウス様……っ!?」
そのままクラウスは部屋の反対側に転がっていく。
そして、ゆっくりとした歩調で、状況そのものを楽しんでいる様子で、ザラタンが私に近づいてくる。
「……くっ!」
『無駄な小細工だったな、矮小な人間よ。
そうだ、お前達はいつもいつも、小細工ばかりだ。
全てが懐かしいな……俺を殺したときもそうだった。
この大陸に辿り着いたあの夜、疲れ果てて眠っていた俺に、お前達は……!
恥知らずの黄金狂ども! そんなにも、俺を無数の星で殴り殺してまでも、賢者の石が欲しかったのか!?』
「賢者の石ですって?」
錬金術師の、〈来航者の一族〉の悲願。
卑金属を金に変える──すなわち、万物を思い通りの物質へと変じせしめる奇跡の石。
ゲーム設定において、錬金術師ザラタンが殺された理由が、彼からその賢者の石を奪うためだったはずだ。
『賢者の石のことが気になるか?
なるほど、お前も強欲者のアウレリアの末裔だ。無理もない。
だが、無駄だ。
その浅はかなお前達の考え、全てが、無駄だ!
賢者の石とは、俺の魂そのもの──俺の腹を割こうが、臓物を抉り出そうが、見つけられるものか!』
私は理解してしまった。
アンを助ければ死亡フラグが折れるなんて、甘い考えだった。
ザラタンは──彼は、私や、私の一族を絶対に許さないだろう。
彼の憎しみや怨みは、アウレリアの民全てに向いている。
彼の死は、アウレリアの民全てが負った罪だ。
私たちがアウレリア──黄金の秘蹟を求める錬金術の民である限り、その罪は付き纏いつづけるのだ。
『杖を捨てろ、アウレリアの娘よ。
お前達の魔法は一つ残らず知っている。それこそ星でも落とさねば、俺は殺せぬ。
さて、どうする?
お前は俺と一緒に育ったあの娘に似ている。
お前一人だけなら、情けをかけてやっても構わない。
ただし……他の二人を裏切って、その手で殺すことができればの話だ!
お前の祖先が俺にしたようになあ!!』
怪物はその大きな口を裂けそうなほどに開け、一本一本が軍用ナイフほどもある牙を剥いて笑顔を作る。
「そんな事が出来るわけないわ!!」
気持ち悪さに私は大声を上げてしまった。
なんて真っ黒な命の取り引き。
『だよなあぁぁぁぁぁぁぁぁ!?
口先ばかりの大嘘つきお前達が、人間を殺すなんて言えるはずがないよなああぁぁぁぁ!?
だから、こっちが本命だ。
そこに隠れている小娘ェェェ!
アウレリアの娘を置いて尻尾を巻いて逃げるなら、お前と小僧は助けてやろう!
どうせこいつは、祖先の裏切り者どもと同じように自分の身だけが可愛い下衆女だ。
同じ捨てるにしても、心は痛まんだろう?』
ザラタンは舞台俳優のように大げさな身振りで両手を広げ、アンが隠れている方を見た。
小さな女の子に、そんな選択肢を突きつけるなんて、それだけで暴力みたいなものだ。
私はその怪物を睨んだ。
怪物は私の敵意を受け止めて、心の底から楽しそうに嗤った。
「勝手に他人の妹を誘惑しないでもらおうか」
クラウスの声とともに、風を切る音がした。
怪物の両膝関節に呪符が取り巻き、三重の輪を作る。
対象を空間の一点に固定する、拘束の魔法だ。
ザラタンは三重に重ねがけされた拘束によって、つんのめるように足を止めた。
「どうしても、と言うなら、まず俺を倒してからにするんだな」
『小僧、まだ動けたのか。せっかく見逃してやった命を、自ら投げ捨てるとはな』
「誇りを捨てるくらいなら、命の一つくらい捨ててやる。俺は一度守ると決めたヤツを見捨てはしない」
クラウスは長杖から拘束を形成している呪符に魔力を注ぎ込みながら、ゆっくり歩いてくる。
彼の服はところどころ破れ、打ち身や擦り傷が出来ている。
まさに満身創痍といった格好だが、大きな出血や骨折の様子はないのは一安心だ。
クラウスは血混じりの唾を吐いた後、続けた。
「……こんな鼻持ちならない派手顔のヤツでもな」
それは余計な一言じゃないかな。
どうしても今言わなきゃいけない言葉なのかな。
ていうかなんで顔をディスるの、この人。
『無駄だ、小僧。お前の魔法では俺の装甲は貫けん。そのアウレリアの火焔の矢の杖でも同じことだ』
「東の魔法を甘く見るな、怪物」
『人間とはどんなに流れる血が違っても、等しく皆愚かなものなのだな。
三度もアウレリアを庇い、俺の復讐を妨げるか。
しかも、よりにもよって俺に軛をつけようとはな。
俺がどんなに情け深かったか、二目と見れぬ肉塊と成り果てた後で思い知るがいい!』
ザラタンは拳を握り、地鳴りのような声で咆哮した。
彼が全身に力を込めると、鋼鉄か岩石のような体はヒビ割れ、歪な力こぶのように膨らんでいく。
まるで、内側からの圧力に装甲が耐えきれなくなったかのようだった。
壊れた鱗や甲羅の間からは、黒い海水のような体液がしみ出し、再び硬質化する。
それを繰り返して、怪物はどんどん膨張していく。
あたかも、元の姿を取り戻そうとしているかのようだ。
ザラタンの脚は、拘束がかけられた膝関節以外の部分が倍以上の太さになっていた。
拘束をかけている箇所も、次第に内側からの力で呪符そのものが押し返されていく。
術を構成している魔法陣が歪んだ。
引きちぎられかけた拘束の魔法から、魔力が細かな光の粒子となって漏れだしている。
「クラウス様、拘束の術が!」
「まだ早いと言うのに……くっ! やむを得ん!」
クラウスは長杖を縦横に揮って呪符を操る。
無数の呪符がザラタンの表面を覆い隠すように張り付いた。
「ただの火焔の矢が通らないなら、脂で火力を増した火焔の矢ならどうだ!」
よく見ると、ザラタンを覆う呪符には油脂のようなものが付着していた。
どうやらクラウスは、避けられた脂を密かに呪符を使って回収していたようだ。
脂で覆われた怪物目がけて、クラウスの手にした短杖から火焔の矢の魔法が放たれた。
焔は一瞬で扇形に広がってザラタンを包み込む。
可燃性の油脂はあっという間に燃え上がり、ザラタンの背丈の数倍の火柱となって立ち上った。
膨れ上がった炎が、仄暗い迷宮をまるで昼のように照らす。
「……やったか?」
クラウスの呟きに呼応するように、低い哄笑が聞こえてきた。
『なんだ、小僧。あれだけ威勢のいいことを言っておいて、この程度か?
こんなチンケな火では、羽虫も殺せまい』
凄まじい勢いで燃え上がる炎に包まれたまま、ザラタンは平然とこちらに歩いてくる。
拘束は既に破られたようだった。
怪物は肥大化した両腕を広げ、ゆっくりと閉じる。
その手の動きに合わせて、彼を取り巻いていた炎は手のひらの間に吸い込まれるように小さくなっていく。
ザラタンが完全に両手を合わせる頃には、炎は完全に消え去っていた。
「しまった! もう一度拘束を……」
『同じ手を二度も、喰らうものかァァァ!』
ザラタンは呪符が陣を形成する前に蹴散らしながら、一歩一歩間合いを詰めていく。
心なしか、巨大化した分だけパワーが増しているような気がする。
次はクラウスでも受け止め切れないかもしれない。
私はザラタンを阻むため、雷光の矢の杖を使った。
杖から放射された雷光の矢がザラタンを貫こうとする瞬間、怪物の口から火焔の矢に似た焔の奔流が迸った。
炎と雷が打ち消し合う。
二つの魔法効果が晴れたあとには、無傷のザラタンが立っていた。
「魔法? どうして……」
「何だと……その能力、もしや……」
『今更何に気づこうが無駄だ!
二人で仲良く、潰れて死ねえええええ!!!』
クラウスが急いで防護陣を張り直そうとしているが、間に合いそうにない。
私は金縛りの杖を抜いた。
でも、錬金術師の手袋をはめた方の手は雷光の矢の杖で塞がっている。
こちらも間に合わない。
私たちの頭上に、丸太を数本束ねたような巨大な腕が振り上げられる。
私の目の前に、両腕を広げて庇おうとするクラウスの背中が飛び出してきた。
──光が視界をよぎる。
私たちの背後から投げかけられた、細く強烈な光は、ザラタンの左膝に命中した。
分厚い怪物の鱗が砕け、反対側まで貫通する。
一瞬の後、光によって穴があけられた箇所で青白い炎が爆ぜ、内部から膝関節を爆砕させていた。
踏み込もうとしていたザラタンは片足を失ってバランスを崩し、その場に倒れて両手をつく。
「お兄様! エーリカ様! 逃げてください!」
「アン、よくやった!」
クラウスは私の手を引いて内陣の出口に向かう。
そこには長杖を構え、額に汗をびっしょり浮かべたアンが待っていた。
私たちと入れ替わりに、アンが投げた一本の壜がザラタンの方へと飛んでいく。
あれは、覆い隠す霧の壜だ。
ガラス製の壜は怪物に命中して粉々に砕け、濃い乳白色の霧をまき散らす。
霧はどんどん膨れ上がり、伽藍の内陣全体を覆い尽くした。
「アン、遅いぞ。危うく死ぬところだった」
「戦闘訓練の経験すらないんですよ。撃てただけでも上出来でしょう?」
「魔力を集束させ過ぎだ。もう少し弱くても貫けたはずだ」
「もう! お兄様、口じゃなく足を動かしてください!」
私だけ状況が分からないんですけど。
ハーファン兄妹の会話に聞き耳を立てつつ、とにかく全力で走る。
それにしても、喧嘩してるのに仲がよさそうな兄妹って新鮮。
前世一人っ子だったし、エドアルトお兄様とは仲良し過ぎて喧嘩したことないからなあ。
「お兄様。説明くらいしてくれても良かったんじゃないですか?」
「ええ?! アン様にも何も言わなかったんですか!?」
「ああ、悪かった。だが、そんな悠長なことをしてる暇は……」
「一言エーリカ様を助けて逃げるぞと言うだけで充分伝わります! お兄様があの怪物に立ち向かって行ったときは、気が触れたかと思いましたよ?」
「アン、そこまで言うか……」
「むしろ、いつも通りのクラウス様だったので、私は余計に不安でした」
「お前達は俺のことを何だと思っているんだ」
走りながら、私とアンはクラウスから目を逸らす。
「クラウス様は……チャレンジ精神旺盛な自信の塊ですね……」
「お兄様は勇気があって、勇気があって、とても勇気がおありですね……」
「お前ら……」
背後で轟音が響いた。
振り返ると、内陣と身廊を隔てる隔壁が崩れている。
土埃と覆い隠す霧の混ざった黄土色の靄の中に、巨大な影が見える。
靄の中から怪物が飛び出した。
片足を失ったザラタンは、両腕を地面につき、三本足で走って突撃してくる。
「あいつ、もう動けるのか!? 二人とも、急げ!」
私たちは身廊を通り抜け、細い通路へと飛び込む。
間髪入れずに、衝突音とともに通路が震えた。
土埃が狭い通路に充満する。
ザラタンの巨体が通路の入り口を通り抜けることができず、壁に激突したようだ。
崩落しかけた入り口から、巨大な何かが伸びてきた。
私の鼻先を、処刑斧のような鉤爪がかすめた。
「うわっ!?」
「エーリカ、奥だ! 奥に進め!」
「エーリカ様、急いで怪物の腕が届かないところまで!」
恐怖に竦んだ私を、クラウスとアンが引っ張った。
私たちの眼前を、ザラタンの鉤爪が縦横に振り回される。
怪物は手探りで私たちを攫もうと、何度も何度も入り口付近の床や壁を引っ掻いていた。
私たちが手の届かないところにいると理解したザラタンは手を引っ込め、目だけでこちらを覗き込む。
虚ろで真っ暗な洞穴のような目で。
『……怨む……怨む、怨む、怨む、怨む、怨む、怨む、怨む怨む怨む怨む怨む怨む怨む怨む怨む怨む怨む怨む怨む怨む怨む怨む怨む怨む怨む怨む怨む怨む怨む怨む怨む怨む────
卑怯者のアウレリア……アウレリアの味方をする餓鬼ども……。
どちらも絶対に許さぬぞ。
お前達が自ら死を懇願するまで、じわじわとなぶりものにしてくれる……』
ザラタンはそう言って引っ込むと、入り口付近の壁を鉤爪で崩し始めた。
硬いはずの石材が、まるで発泡スチロールか何かのように軽々と抉り取られていく。
とんでもない腕力だ。
「ひいっ!?」
「きゃああっ!?」
「い、行くぞ! 話は後だ! 今はとにかく逃げろ!」
今度こそ、死ぬかと思った。
ショッキングな状況の連続で思考停止気味の私は、無我夢中で足を前に進めつづけた。