巨石の祭壇1
遥か彼方から、物悲しい鳴き声が響く。
壁や天井には、青く輝く星水晶の銀河。
足元には、巨石からしみ出してきた、しかし巨石の体積を遥かに上回る量の黒い水の海。
波の音が、潮の香りが、湿った風が、心の中にするりと忍び入ってきた郷愁が、ここが地の底ではなく星空の海だと錯覚させようとする。
懐かしい、来航者たちの故郷の海だと錯覚させようとする。
私は頭を振って、入り込んできた妄想を振り払う。
しっかりしなきゃ。
私は今まで船に乗ったことはないし、転生前だって通算で五時間も船に乗ってない。
懐かしい海とか、ないですから!
「クラウス様! アン様! なんだか危険な感じです、今のうちに逃げ──」
振り返ると、ハーファンの兄妹は黒い海の上でうずくまって苦しんでいた。
えっ!? なんか大変なことになってる!?
「悲しい、悲しい、悲しい……ああ、お兄様、エーリカ様……助けて……頭が……」
「くっ……気をしっかり持て、アン……! 魔力の循環に集中して、魔法抵抗を維持するんだ!」
アンが真っ青な顔で何かうわ言のような言葉を口走って震えている。
クラウスは彼女を抱きかかえ、自分の防御陣の結界で包むようにして守っていた。
彼はアンの口に魔力回復の水薬を押しつけ、無理にでも飲ませる。
クラウスもまた水薬を一本飲み干し、いくつかの呪文を詠唱して防御用の結界を重ねがけしたようだった。
「二人とも! 大丈夫ですか?」
「エーリカ、お前は何ともないのか!?」
「え、ええ……むしろ、何かされたのか教えてほしいくらいで……」
「あー……そうか、アウレリアは、こういう魔法に対して鈍いんだったな」
うっ、確かにアウレリアはある種の魔法に対して鈍いけど。
しかも、私はアウレリアの中でも特に鈍いって、お父様に太鼓判捺されてるけど。
今はむしろ役に立ってるんだから、いいじゃないですか。
「とんでもなく強力な精神干渉を受けた。懐かしさや寂しさを掻き立て、最終的には魂そのものを捕らえるような」
「心が乗っ取られて、私が消えてしまうのではないかと思いました……」
「危ないところでしたね」
「本当に鈍いんだな……まさかアウレリアが羨ましくなる日が来るとは思わなかった」
なんだか、褒められている気がしない。
念のため私もクラウスの防御陣の中に移動する。
巨石の方を見ると、更に変化が進んでいた。
星水晶の塊は、長い年月を経て浸食されたかのように、溶けて小さくなっていた。
伽藍のあちこちに転がっていた怪物の死骸も、黒い水による浸食の影響を受けていた。
肉や内臓などの柔らかい部分から順に、皮、鱗、骨……と溶かされていく。
「あれ? クラウス様、このまま、この液体の中にいたら、私たちも危険なのでは?」
「慌てるな。知的生物には効かない類いの魔法効果のようだ」
「さっきの精神干渉能力で心を破壊されてたら危なかったでしょうね」
ハーファンの兄妹は霊視の魔眼で得られた情報で解説する。
私の方こそ、こういうところはハーファンが羨ましいんだけどなあ。
でも、何となくわかった気がする。
本来なら、アンは一人で八階層の崩落に遭遇したはずだ。
当然、軟着陸の短杖も、クラウスの強固な防護陣もない。
アンは魔力の大半を消費して防御魔法を展開するも、完全には防ぎきれなくて怪我を負い、伽藍に辿り着く。
彼女を待ち受けていたのは、破壊的な精神干渉魔法と、それにかかったものを融解して取り込む黒い水。
だとするならば、この水って──
私の導きだした答えを肯定するかのように、部屋全体に広がっていた黒い水が動き始めていた。
もうすっかり溶けてしまって、小指の先ほどの大きさになっていた星水晶の巨石があった場所に、黒い水が集まる。
黒い水は渦を巻きながら持ち上がり、凝縮していく。
「ええーー? じゃあ、やっぱり、これが悪霊ーーーー!?」
「悪霊? 神の祭壇だったのに? でも、液状の悪霊なんているのですか? お兄様、エーリカ様?」
「俺も聞いたことはない。確かにあの液体を構成しているのは一種の霊体──生霊の魔法構造に似ているが……」
しまった。声に出してたよ。
それにしても、生霊だなんて、なおさらおかしな話だ。
彼は賢者の石を作ったせいで同胞に殺された錬金術師の霊のはずだ。
それなら、死霊じゃないの?
黒い水の塊は、膨張と収縮を繰り返し、次第に一つの形を成していく。
液体だった体は変質し、硬質の鱗が体表を覆っていく。
羊や山羊に似た、拗くれた二本の角。
鉤爪を生やした丸太のような四肢。
突起物のついた甲羅に覆われた、山のように大きな体躯。
それは竜に似て非なるもの。
それは亀に似て非なるもの。
前世でも今世でも、見たことも聞いたこともない怪物。
言いたい……誰にも伝わらなくても言いたい……。
乱数と戯れながらモンスターを育てるあのゲームの、ラプ○スとサ○ドパンを合わせて黒く塗ったらこんな感じになるよ。
──ギュルルルァァアアアアアッッ!!!
怪物の咆哮が伽藍に響く。
鼓膜を破らんばかりの大音声は、逃走を意識していた私たちの足を竦ませるに充分なものだった。
「あれは何なんだ!? 悪霊とお前は言うが、俺にはあれが生きているのか死んでいるのか、竜なのか別の怪物なのか、判断することができない」
「悪霊……のはずです。彼は〈来航者の一族〉をこの大陸に導き、万物を黄金に変える賢者の石を作り出した、ザラタンという名の伝説の錬金術師です」
「そんな偉大な人物がなぜ悪霊になっている?」
「それは──その人物が、私たちアウレリアの祖先に裏切られて殺されたので、その怨みで……」
怨みで?
怨みで悪霊になるのはわかる。でも、怨みだけであんな姿になるのだろうか?
黒い怪物は私を見つめ、唇を歪めて嘲笑ったような気がした。
いや、気のせいじゃない。
怪物の鳴き声は、次第に人間の声に近いものに変化していく。
『この俺が……この、俺が、人間? 錬金術師だと?
ククククク……何もかも間違っている……貴様は……』
怪物の巨体が、ぶるりと震えた。
嗤っている?
──いや、今度は違う。
彼は怒っていた。抑えきれない激情に身を震わせて、怒っていた。
『貴様は、忘れたのか、アウレリア!
俺は覚えているぞ……幾星霜経て、片時も忘れたことはない……!
お前の匂いと、お前に与えられた痛みを!!』
「痛み……? では、やっぱり、あなたは……」
『ああ、懐かしいな……。
その顔、金色の髪、緑色の目……
──それなのに、お前は……俺のことを……この、たった数百年の間に、忘れたのか!
この俺を!
……お前達が殺した、この俺を!!!』
全身が固いものに叩き付けられたような衝撃を受け、視界が一瞬ぐしゃりと歪む。
肺から無理矢理に空気が押し出され、戯れにプールに引きずり込まれたときのような混乱が酸素の供給を絶たれた脳を襲う。
気づけば私は、黒い巨体の怪物の前脚によって、石の床に押さえつけられていた。
『ハ、ハ、ハ、ハ、ハーー!
優しく撫でてやっただけでこれだ……人間とはなんと弱い生き物か!
こればかりは、数百年経とうと変わらぬと見える』
「ぐ……、っ……、か、は……」
『ククククク、安心しろ、黄金狂。
この程度で殺してやるものか……楽になど、殺してやるものか……!
存分に味わってから死んでもらうぞ……俺の痛みを、俺の無念を、俺の孤独を、俺の、俺の……。
俺はお前達を信じていたのに! お前達を真の友だと思っていたのに!
よくも……よくも、俺を裏切ったな!!』
私を覗き込む虚ろな眼窩から、黒い雫がぽたぽたと垂れ落ちる。
ああ、間違いない。
言い伝えやゲームの設定とは違うけれど、彼は確かにアウレリアの祖先に裏切られた人物なのだ。
『覚えておけ……。
貴様の命の火が消えるまで、しかとその魂に刻んでおけ……穢れた黄金狂どもの末裔よ!
ザラタンとは俺の名ではない。
貴様が人間という種族であるように、俺はザラタンという種族なのだ。
俺はたった一匹のザラタン。
名無しのザラタン。
俺は、名を得る機会を未来永劫失った者だ……お前達、裏切り者のアウレリアによってな!!!』
怒りの籠った、それでいて自分の身を引き裂くような苦しみに満ちた独白だった。
私は拘束されたまま、小さく頷いた。
懐かしさや悲しさを訴えてきた精神干渉の能力よりも、私にとっては彼の怨みの感情の方が、なぜか心にすんなりと入り込んできた。
私の心が揺れた瞬間、小さな爆発が眼前で巻き起こった。
衝撃に圧されたためか、ザラタンの拘束が緩む。
その瞬間、私の体に何かが巻き付いて、すごい力で引っ張られた。
「わからない……何一つわからないな、怪物。俺たちを無視して、勝手に話を進めるな」
内陣の出口の前には、ハーファンの兄妹がいた。
クラウスは火焔の矢の短杖と長杖を構えて黒い怪物に突きつけ、アンは私に巻き付いた魔法のロープの反対側の端を握っていた。
そうか、私の鞄……ザラタンに組み敷かれたときに、落ちてたんだ。
「エーリカ様! お怪我はありませんか!?」
「ん……大丈夫です。お陰で助かりました、アン様、クラウス様」
「俺は大丈夫じゃない」
「は、はい? 何ですかクラウス様?」
「お前が勝手に死んだら、俺が大丈夫じゃない。あの怪物の言葉よりも深く魂に刻んでおけ。ハーファンの男は、目の前の女を何があっても守る! だから、そんな何もかも諦めたような目をするな!」
してないよ。そんな不吉な目とかしてないよ。
──してないよね?
どうでもいいけど、助けてくれるのはありがたいけど、いちいち暑苦しい考え方だなあ。
「お兄様……もっと素直に……」
「アン! 余計な口答えをするな! 早くロープを解いて支度をしろ!」
アンはため息をつきながらロープを解き、鞄と一本の短杖を私に返す。
クラウスの妹って苦労しそうだなあ。
強く生きて欲しいものだ。
アンは呪符を一束と長杖を携え、クラウスの斜め後ろに立つ。
私も気を取り直して立ち上がり、アンから渡された杖を構える。
既にザラタンは体勢を立て直していて、ゆっくりと私たちの方に歩を進めていた。
空気の中にはまだ焦げたような匂いが残っているが、怪物の体には焔による負傷の痕跡すら見当たらなかった。
硬い鱗に阻まれたのか、それとも既に再生したのか。
『懐かしい……何もかもが懐かしいな……。
覚えているぞ。小賢しい錬金術師の魔法か。
あまりに久しぶりなので驚いたが、そんな小手先の手品、二度と通用せぬ』
「そうか。ならば次はハーファンの妙技に驚愕してもらうだけだ。俺の魔法とて、二度も生きて目にする機会があると思うな」
『ハーー! 威勢のいい小僧だ!
貴様らはアウレリアではないようだな。匂いが違う。
小金に釣られたか、小娘の色香に惑わされたか──
どちらでも知ったことではないが、貴様らとて、最後には俺と同じようにアウレリアに裏切られるのだ。
そこを退け。貴様らには怨みもなければ興味もない』
「退くものか。お前が退けよ、怪物。そろそろ、この派手女と妹を連れて帰らないと、お前より百倍恐ろしい俺の父上に大目玉を食らうんだ」
クラウスは私たちを庇うように仁王立ちしたまま、巨大な怪物に向かって大見得を切った。
内心恐ろしくてたまらないはずなのに。
俺様で責任感の強いところは、幼くても変わらないんだなあ。
(でも──)
私はアンに渡された杖に、ちらりと目を落とした。
杖頭は岩塩。軸は桜。
持ち手には猪の皮が貼ってある。
芯材は……防腐処理のされた、豚の脂身。
そう、これは脂の杖だ。
クラウスの指示だと思うんだけど……彼は私に、この杖で何をさせたいの?
怪物とクラウスは剣呑な雰囲気のまま睨み合う。
一触即発の状況の中、私の困惑は深まるばかりだった。