首無し王子の霊安室7
私はすぐさま靴底を接地させて長靴を起動し、リエーブルから離れた。
ティルナノグを盾にするように跳躍で回り込み、安全を確保する。
とてもじゃないが、あの速度にはついていけない。
「ああ、もう。困ったわ。急いでいるのに……でも、どうしても二人足りなかったから、ある意味好都合でもあるのが悩ましいのよね」
リエーブルの姿をした怪物は、右頬に手を添えて眉間に皺を寄せた。
二人足りない。
行方不明になっている少女の人数は十人。
私とクロエを加えればちょうど十二人になる。
ならば、パリューグが追っていた誘拐事件もこの吸血鬼の仕業というわけか。
「それは、あなたがここ最近起こっている少女誘拐の犯人ということなの?」
「そう、そうなのよ。私も頑張っていたのだけど、最近急に仕事がし辛くなっちゃってね。だから、あなたたちを使うのが最良だとは思うのよ。でも──はあ」
リエーブルは大きなため息をついてから、悩ましそうな紅い眼で私たちを見た。
ぞくり、と背中に寒気が這い上る。
「とっても扱い辛そうじゃない? 殺さないで捕獲できるか不安で困っているのよ、私」
リエーブルは、世間話をするような調子でそんな物騒な話題を口にした。
「できれば、もっと、二人とも油断したタイミングを見計らって隙をつきたかったのに……」
私は返事の代わりに、水晶塊の杖を収納の手袋から取り出して、即座に巨大な槍を生成して放つ。
しかし、着弾した時には既にリエーブルは黒い闇にとけて消えていた。
目標を失った水晶槍はさらに後方の壁面を抉るのみに終わる。
霧散した何か──黒い霧のようなものが蠢いて、何十、いや何百もの動物に姿を変えた。
蝙蝠だ。
たくさんの蝙蝠が天井付近に集まり、再び人の姿をとっていく。
「やっぱり一筋縄ではいかないわよねえ」
どこか投げやりに言葉を放ちリエーブルが天井をぽんと軽く押したと思った次の瞬間、いきなり彼女は私の目前に現れた。
回避不可能な速度に、さあっと血の気が引いていく。
『させるか!』
ティルナノグが巨体に見合わない素早さで丸太のような前肢を振り抜く。
リエーブルはいとも簡単に弾き飛ばされた。
華奢な女の体が宙に放り投げられる。
「ほら、脆そうなあなたを狙ってもゴーレムが邪魔だし……ほんとに困っちゃうわ」
リエーブルは空中で姿勢を整え、反対側の壁を蹴って衝撃を吸収し、とんと石床に降り立つ。
ティルナノグの攻撃が当たった左腕がぐしゃぐしゃに壊れているのに、リエーブルは気にしてすらいないようだった。
破壊されたリエーブルの左腕は肘の辺りから沸き立つように膨らんで、歪に変形していく。
それはちょうど、耳と眼のない黒い獣の首のように見えた。
この世界の吸血鬼は、肉体の変異に取り込んだヒトの魂を使うという。
あれが、死してなお捕縛されている犠牲者たちの魂か。
「死を貪り喰らう者」
そのとき、クロエの声が遺跡内に響いた。
いつの間にか彼女は、私たちとリエーブルの間に進み出てきた。
だらりと剣を下げて身構える素振りもない。
ゆらり、ゆらりとリエーブルに近づいていく。
「一〇九一年、ルーカンラント北部。雪によって隔離された山岳部の村落七十二箇所の住民が消失。これが最初の確認事例」
クロエはあたかも資料を読み上げているかのような淡白さで続けた。
「一二九二年、ルーカンラント南東部。ある港町を出発した船十五隻のうち十四隻が乗員や積荷ごと消失。目的地に到着した最後の一隻に残っていた乗員一名は、尋問に当たっていた剣士四名を喰らって逃走し、行方不明。一四六六年、ルーカンラント・ハーファン国境線付近の魔法塔の消失を観測。一六四九年、ハーファン北部の城砦都市の全ての住人が一夜にして消失」
今更ながらに私は気がついた。
おそらくこれは、あの赤革の日誌に書かれていた情報なのだ、と。
「一七八九年、リーンデース周辺の村落における少女十二名の失踪事件。それに前後して当該村落を担当していた修道女一名が失踪。深夜、全身に鮮血を浴びて徘徊する修道女の姿が目撃されており、学園に伝わる七不思議の一つ、血塗れ聖女の原型となった」
クロエとリエーブルの距離は縮まっていく。
リエーブルは、クロエに接近されても特に身構えもしなかった。
「その修道女に化けた血啜りと交戦し生存した者の記録が残っている。体内に無限拡張された空間を持ち、捕食可能な量に上限がない。本性を隠して庇護を求めようとする性格、捕食能力を生かした戦法を得意とする点から、過去の大規模失踪事件の実行者と同一個体であると推定。ただし、報告を残した生存者は二ヶ月後行方不明となった──これらの事件に出てくる血啜りは、あなたなの……?」
問いを投げると同時に、クロエはリエーブルを斜めに斬り上げた。
ごぽり、と傷跡から真っ黒い液体が流れていく。
「ふふ、恥ずかしいわね。九十七年前は修道女として潜り込んでいたのよ、私」
リエーブルは頬を染めてはにかむように笑う。
クロエが再び斬りつけると、リエーブルの左手の黒い獣の顎が剣を受け止めた。
みしり、と音をたてて、リエーブルの足元の床石が割れる。
「そして、死を貪り喰らう者が狂王に与えられた命令は、呪われた狼の奪還でいいの?」
「あらら、そんなこともバレちゃっているのね、私」
「移動経路を全て襲っているから。じゃあ──あなたが、あなたこそが、七年前にクロード・ルーカンラントに金狼を取り憑かせて狂わせた犯人なんだね?」
「あらやだ、クロードって誰なのよ?」
より負荷をかけられたリエーブルの肩の骨が折れ、雪銀の刃が首に食い込む。
しかし、それでもまだ彼女の顔からは笑みが消えない。
「嘘、嘘、嘘。ちゃんと知っているわ。あの暴力事件を起こした少年の名前だもの」
リエーブルの背後の暗闇に何か蠢くものが見え始めた。
まるでリエーブルの背中が闇に解けてるように見える。
「でも、残念ね。私は犯人じゃないわ。私としてもね、勝手に同胞を攫われて心底迷惑しているのよ。狼はよりによってあのハーランに幽閉されているらしいし……色々教えて欲しいのは私のほうなのよ?」
「ウルス辺境伯が……どういうことなの……!?」
クロエが声を絞り出す。
クロエと吸血鬼から漏れた、予想外の男二人の名前。
クロエの兄、クロード・ルーカンラント。
血腥い噂の絶えない男、ウルス辺境伯ハーラン・ルーカンラント。
なんで、こんな場で彼らの名が出てくるのか。
「はあ、何を勘違いしているのか知らないけど、別に親切で教えてあげてるんじゃないのよ。私は単に愚痴をこぼしているだけなんだけど?」
そうリエーブルが吐き捨てると、彼女の背中が黒い霧状に崩れた。
霧は先端に乱杭歯の生えた顎のついた触手のような形で再集束し、クロエに襲いかかる。
クロエが回避のために力を緩めた隙に、リエーブルは後方に飛び退いた。
「最近はどんな辺鄙な村落にも修道騎士がいて、やりづらくなってるのよね。なぜか知らないけど、教会の資金が潤沢になってるみたいで、ここ数年で増員されてるし。王命で動いている錬金術師のせいで、せっかく生贄を確保しても輸送もままならずに何度も失敗してるし」
もしかして魔獣退治で儲けたお金を教会に寄付してたのが、効果をあげてたのかな。
修道騎士の活動の足しになっていたのなら、私も荒海に出て潮にまみれていた甲斐があったというものだ。
でも王命で動いている錬金術師って、まさかお兄様……?
いやいや、どうなんだろう。お兄様が吸血鬼を追っているなんて。
「何より最悪なのが、大昔に不活性化したはずの炎の幻獣が、ここ最近また彷徨っていることよ! あれは〈伝令の島〉から出てこないと思っていたのになんなの!? おかげでこっちは、魔力供給網がドンドン削られてジリ貧なのよ!」
この炎の幻獣というのは、パリューグのことだろう。
やった! さすがパリューグ、良い仕事してるね!
汚染祭壇の浄化は、吸血鬼たちに確実にダメージを与えていたみたいだ。
「でもね、やっと今夜、十人の生贄がここに届く予定なの。だから、本当はね、あなたたちを早く帰そうとしていたのよ? それなのに、階段が繋がる時刻まで長居するし、せっかく変異させた怪物を倒してしまうし、本当に迷惑なの」
リエーブルは、私たちの反応を窺うように上目遣いで笑う。
そんな自然な仕草をしながら、彼女の背後から現れた触手の攻撃は止まない。
いや、止まないどころか、射程範囲を拡げていた。
「早く戻って受け取らないと、朝には大事件になっちゃうじゃない!」
クロエは何事もなかったかのように触手を切り払いながら、本体にまた近づいていく。
私もまた、クロエを襲う触手の一つ一つを水晶塊で撃ち抜いて援護する。
「だから、運と己の行いが悪かったと思って、諦めてもらえないかしら?」
リエーブルがそう言うと、いきなり私の真横に闇色の触手が現れた。
目の前に、人を丸ごと飲み込めそうな位の大きさの真っ赤な口が広がる。
回避不能の絶体絶命。
しかし、私が飲み込まれかけた瞬間に黒い触手は引き裂かれていた。
「ティル!」
『当然だ。俺がいる限り、お前を毛一筋たりとも傷つけさせるものか!』
私を狙ってあらゆる角度から次々と襲いかかる触手を、ティルナノグが斬り裂き、引き毟っていく。
しかし、千切れた矢先に、触手はのたうちながら犬のようなものへ姿を変えた。
目も耳もない歪な四足の肉塊は、本体から切り離されてもなお、愚直に私を狙って飛びかかってくる。
おそらくこれは吸血鬼の〈猟犬〉だろう。
吸血鬼が取り込んだヒトの魂もつ、意思持つ肉塊。
彼らの哀れな眷属のひとつだ。
(パリューグからこの世界の吸血鬼がどんなモノか聞いてはいたけど、思ったよりずっと醜悪だな……)
犬に似た、でも犬ではない四つ足の獣を、ティルナノグが薙ぎ払い、踏みつぶしていく。
しかし、どれだけ破壊しても〈猟犬〉は再生し続ける。
あっという間に私たちを取り囲んだ〈猟犬〉を牽制しながら、ティルナノグが私に問う。
『エーリカよ、どうする? このままあの女だけに任せておいていいのか?』
クロエとリエーブルは互いに攻めあぐねていた。
雪銀鉱の剣は〈猟犬〉の再生は無効化できるものの、本体のリエーブルに対しては決め手になっていないらしい。
リエーブルは物量で圧倒しているが、殺さずに捕獲しなければならない制約が足を引っ張っているようだ。
(リエーブルが捕獲を諦めれば崩れ去る、脆い均衡だ)
ティルナノグがリエーブルとの戦闘に加われば優位に進みそうだが、私の守りが薄くなる。
それに、無限拡張された空間を持つ怪物が相手というのが何だか不安だ。
ティルナノグがいくら超巨大幻獣だからと言っても、喰らい合いになったら分が悪い。
そう言えば、無限回廊の探索のときに、クラウスから何か重大な危険について聞いていなかったか。
(いや、むしろこれは……)
クロエの情報によると、アレが生まれたのはかなり古い時代だ。
だとすると、クラウスに聞いた無限拡張の重ね合わせによる空間崩壊が使えるかもしれない。
本当に有効かどうか、確実とは言えないけれど、試す価値はある。
「ティル、少しだけ私に時間をちょうだい」
『ほう、策があるのだな?』
私は少し考えて、ティルナノグに頷いた。
「ええ、任せて。すこし賭けになるけど、上手くいけば一撃で落としてみせるわ」




