PIANO 夏川 翼編
「先輩、少し良いでしょうか……?」
控えめに背後から声を掛けられた。
振り返った先にいたのは、痩せぎすな少女。
神月 麗歌、それが彼女の名だ。今年のソロの相手だった筈。
青年――夏川 翼は、今年の合唱部のソロを担う男子生徒だった。
ソロは男子1名、女子1名から選ばれる。毎年、合唱部のソロは顧問の教師が選ぶらしく、翼はそれに選ばれたわけだが。
「やぁ、神月さん。どうかしたのかい? 何か問題でもあったかな」
「あの私、………ソロ、辞めたいんです……」
「……!」
彼女の言葉に、いささか驚きを禁じえない。
ソロは大役だ。やりたいという者こそいても、辞退したいなどという者がいようとは思わなかった。
ましてや、彼女は教師に選ばれる中でも、はっきり言えば異例な人材だった。
彼女は1年。3年を差し置いてソロに選ばれるようなことは、めったにない。
「………何かあったの?」
そう訊ねると、麗歌は目を伏せた。
………恐らく、嫌がらせがエスカレートしているのだ。
元々“あの件”もあって嫌がらせを受けていた筈だ。それが、今回のソロ決定にあたり、それらが更に酷くなったということだろう。
「………大したことは、ないです。ただ、私には相応しくない大役ですから……他の方に一任しようと思って」
翼は、自分にこの話が持ちかけられたことの意味を考えた。
教師は麗歌の歌声を気に入っている。彼女ではなく、彼女の歌声を。
だから、今回のソロが決定された時、麗歌は焦ったのだろう。望んでもいない役につけられてしまったのだから。
だが、教師に頼んでも納得してくれそうにはない。教師は彼女の歌声を酷く気に入っている。彼女がどれほど拒んでも、ソロから外そうとはしないだろう。
……だが、翼が相談したとなれば、少々状況は変わってくる。
翼はここ夜久野学院の中でも、一際家柄が良い。
茶道の家元の息子で、気立ても良く、成績優秀。まさに傷無き玉、といったところである。
そんな人物が、教師に頼む。彼女をソロから外して欲しい、と。
それはつまり、
(邪魔だから別の人間を選んでくれ……そう言っているように聞こえるだろう)
教師としても、動かざるを得ない。
(………教師に頼んで欲しかったんだろうね。でも、……)
翼は優しく微笑んだまま、首を振った。
「他の人に肩代わりさせられないから、神月さんを選んだよ。先生は」
「でも」
「大丈夫。神月さんならできるよ。僕はそう信じてる」
にっこりと微笑んでみせると、彼女は俯いた。
「………私には……出来ません」
「どうして?」
そう訊ねると、彼女は唇を噛んだ。
「誰も、納得しないです。私が先輩とソロだなんて」
部員たちがソロをしたいという理由の中には、翼と一緒に歌いたいからという理由があることも彼は知っていた。
だから彼女の言いたいことは判る。
「でも、君の力量が認められてのことでしょう? 誰かの納得とか、考える必要があるかな?」
「………」
麗歌は困惑したように俯いた。
「君自身のことだよ。やめたいなら勿論、無理して続ける必要なんてない。でもね。君の声を期待している人とか、きっといっぱいいると思うんだ。先生が選んだのも、きっとそのせいだね。神月さんの声は本当に綺麗だから。僕もそう思う。君の声は聞いている人の心に訴えかけてくるものがある。だから、聞いてる側は何処までも惹き込まれる。……よく考えて答えを出すといいよ。何より君自身のことなんだからね」
翼が微笑むと、麗歌は目を伏せた。
判りました、と小さく呟き、一礼してからパタパタと走り去っていく。
それを見送ると、翼は窓の外に目をやった。
日はだいぶ暮れて、町は鮮やかな橙に染まってきていた。




