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元来た道を辿って、僕のマンションに辿りついたのは夕方ぐらい。
昼間の興奮が冷めると、多少疲れもあったのか、僕らはすっかり無口になっていた。運転を任せていた僕としては、そのまま帰ってもらうのは申し訳ないと言う思いで、「珈琲でも飲んで行くか?」と、気軽に彼を誘っていた。
これが男と女の場合、家に誘うと言う事はどこかに暗黙の了解がある。単純な男の発想かもしれないが、この時誘った僕に彼がなんだか戸惑いを見せるから、どうしたんだろうと考えて、その発想に辿り着いた。
まさかとは思うが、彼は僕に触れたいと言っていた男だ。
その言葉の重さに、僕は今になってうろたえる。
「少しだけ」
そのまま走って逃げようかと思っている間に、工藤は既に決断していた。僕は今さらながらに自分で掘った穴に落ちるような、情けない男と成り果てていた。
「久しぶりだよな、家に来るの」
出来るだけ平静を装ってエレベーターを待つ。実はこの時からジワジワと緊張が始まっていた。階数を表示する数字がゆっくりと1階へ降りてくる。気の利いた台詞も言えず、見上げる状態がなんとも気まずい。乗ったら乗ったで、窓もない小さな箱の中では閉所恐怖症にでもなったかと思うぐらい息が詰まりそうだった。それに僕に触れたいなんて言う男と二人きりだと思うと、どうしても平静ではいられない。
こんな精神状態で、彼を僕の部屋に入れても大丈夫なんだろうか。
僕の背中は真後ろに立つ工藤の存在にピリピリとする。エレベーターの中にはカメラもあるし、彼が僕に何かするとは思わないが、すっかり神経質になっていた。
4階のライトが消えると、僕は何時ものクセで『開』のボタンを押して、中に乗っている人間を先に降ろす。サラリーマン生活で身に着いたマナー。狭い箱の中、彼が僕の脇をすり抜ける。おしゃれな工藤らしく、透明感のあるフレグランスの香りが僕の鼻を擽る。それだけでも、妙にドキドキするものだ。
僕の部屋はエレベーターを降りて突き当たりの角部屋。何度か訪れた事のある工藤は、僕を待つ事もなく先を歩く。
ため息ひとつ。
なんだか項垂れたまま後をついて行く。
突然、工藤が足を止めた。それこそ警戒心全開の僕は、ぶつかりそうになって必要以上に驚いた反応をした。
「な、なんだよ」
ビックリ箱でも開けたような驚き方だった。
そんな僕にちらりと先を促す。僕の部屋の前で携帯電話を耳に当てて佇む人影があった。
同時にポケットの中で僕の携帯電話が暴れ出す。それを取りだす前に、人影の方から先に僕らに気付いた。
「なんだ、おまえら」
明るく屈託のない声が聞こえて、携帯電話が鳴り止む。念の為に取りだしたディスプレイには『関本』の名前を確認。僕は何だかホッとしてそれをポケットに滑り込ませた。
「休日出勤したら一之瀬もいて、ここまで送ってきた」
工藤はいつもの感じで関本に歩み寄る。
「工藤もいるなら丁度いい。実家から美味しい肉送って来たから一緒にどうだ?」
手にぶら提げている箱を掲げる。
「神戸牛か」と工藤。
「美味いぞ」
関本がニコリと笑った。
結局、僕らは三人で鍋を囲む事になり、関本と工藤は車で買出しに出掛けた。僕は部屋に戻って仕舞っている鍋を取り出し、結婚式の引き出物に貰った小鉢を洗ったりして、今晩の宴会の準備をする。
鍋なら当然飲むことになる。
工藤は車で来ているし、どうするんだよ、帰りは。
明日も休みだし、泊まるんだろうな、やっぱり。
それってかなりやばくないか?
飲んだら乗るな。飲むなら乗るな。
交通標語が僕の頭の中をグルグル回る。




