31
課長が思いがけず『月が綺麗だ』の秘密を解明してくれたせいで、僕は工藤の事を考えずにはいられなくなった。
工藤が僕を愛してる。
この事実が僕を動揺させた。『愛してる』と『好き』とは、似ているようで非なるものだと思う。少なくとも僕は、誰かに『好き』とは言えても、『愛してる』と言った事はない。僕が人を愛せない欠陥人間だとは思わないし、今まで付き合う彼女がいないほど寂しい人生を送って来たわけでもない。照れくさいとも少し違う。
僕にとっては、この言葉がしっくり来ないのだ。『愛してる』は重量がある。長い年月を経て、想いを重ね、最後の最後に口にできる言葉が『愛してる』じゃないだろうか。
性格や頭のデキは違っても、根本的に僕らは同じ価値観を持っている。だからこそ、僕らはこれまでの友情を築けたと思う。僕も同期も、間違っても、チャラチャラと『愛してる』を連発するような人間ではない。だからこそ、この僕に『愛してる』と言った工藤の想いの深さに愕然としたのだ。
少し遅れて関本が到着した。すっかり月の視線に取り憑かれていた僕は、窓の外を見ることが出来なくなっていた。月から工藤が僕を見ているとは思わない。それでも、どこかで彼の思念のようなものが、僕に降り注いでいるかのような錯覚を覚えた。当然、僕の態度はいつもと違ったものになる。普段なら鋭い観察者である課長も関本も、僕が今回の異動に対して感傷的になっていると誤解したようだ。なんだか二人揃って僕を慰めてくれる。ある意味その誤解は僕にとっては好都合だった。
二人のそんな心遣いに乗っかって、その夜はどこかもの憂げな風情を纏いながら、極上のイタリアンをご馳走になった。残念なことに、ほとんど味は覚えていない。普段ならその後、課長の行きつけのバーに繰りだすところだが、月曜だったこともあり、僕らは極上のイタリアンの余韻を残したまま帰宅をする。当然の如く課長はタクシー帰還で、僕らにタクシー代を握らせてくれる気の使いようだった。
「大丈夫か?」
エレベーターの降り際に腕を掴まれた。関本が心配気に僕を見ている。
「そんなに飲んでないよ」
僕はするりと腕を振り解きエレベーターを降りた。
「そっちを心配してるんじゃない」
今日はそっちの僕を誤解されていたんだと、自分の役割を思い出す。
「バーカ」
僕は振り返って笑ってみせ、陽気に手まで振ってやった。
「じゃ、明日」
関本は振り返してはくれなかったけど、僕はさっさと背を向けて歩き出す。だから、関本がどんな顔をしていたのか知らない。さっさと扉を閉めて上がったのか、僕の後姿を何秒か見ていたのか。そんなことより僕は月に捉われていた。
マンションの扉を開けて、僕はまるでトイレを我慢していたようなせっかちな動作で、靴を脱ぎ棄て、コートの袖から腕を引き抜きながら寝室に入った。携帯の履歴の二番目に、工藤の名前がある。ネクタイを緩めながら、躊躇わずに僕はボタンを押した。
コールが続く。
何してるんだよ。
僕はイライラとする。
何度目かのコール音で留守番電話に切り替わった。僕はそのままベッドに倒れ込んだ。真っ白な天井にシーリングライトの無味乾燥な景色。メッセージを促す無機質な声。僕はそのまま電話を切ると、携帯電話をその辺に転がした。
僕は何をしようとしているのか。
電話をかけて工藤に何が言いたかったのか。
ただ、工藤の声を聞きたかった。その衝動だけで、僕は考えなしに行動をしている。それは分かっているが、説明のできない焦燥感のようなものが僕を突き動かしていた。
頭を冷やす意味で僕はベッドから起き上がり、お風呂にお湯を張って入浴の準備をする。考えたら、自分の行動が浅はかな気がした。スーツをハンガーに吊り、放り出した携帯を拾い上げ、ベッド脇の定位置に充電セットした。
少し早いけど、お湯を張りながら頭を洗ったり、身体を洗ったりして、少し浅めの湯船にずぶずぶと身体を沈めた。普段は、ぱぱっとシャワーで済ましてしまうことが多いが、湯船に浸かると芯から身体が温まるし、気分もリフレッシュできる。バカな自分を諌めてくれるような気もした。自分にしては長めなお風呂タイムを楽しみ寝室に戻ると、携帯が着信を知らせる青色に発光していた。
その頃には僕の気分もすっかり落ち着いていて、開いたディスプレイに工藤の名前を見ても、慌てることはなかった。僕はそのまま携帯を戻し、ガサガサとバスタオルで頭を拭きだした。
テレビを付ける為に和室に行く。
立ったままリモコンでチャンネルを探るけど、特に気を引く番組は見当たらなかった。結局はニュース番組に落ち着き、台所の冷蔵庫内を物色する。あんなご馳走を食べたくせに、妙に小腹がすいたような気がした。
残念ながら、僕の食欲を満たすような食材は入っていない。がっくりと肩を落として、冷蔵庫の扉を閉めたところで、ドアチャイムが鳴った。
直ぐに顔が浮かんだのが工藤。
電話に出ない僕に、工藤が業を煮やして駆けつけた。まるで恋愛ドラマのような展開に僕は内心苦笑した。
「はい」
僕の悪い癖で、よく確かめもせずにドアを開けた。
そこに立っていたのが関本だったのに驚いて、僕は息を呑む。




