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工藤が月に拘る理由が僕には分からなかった。「月は見たか?」と聞くからには、彼には何か特別な意味があるのだろう。月と言う言葉が韻を踏むとか、単純に同じ月を見ると言う行為を、ロマンチックな事として捉えたかったのかもしれない。彼なら、「月が綺麗だね」と言っても様になる男には違いない。ただ、そんな台詞を同期の彼から言われるのは、どうも落ち着かない。
同期は僕に恋愛感情のようなものを抱いている。もう、これは疑いようのない事実だ。それは僕も認める。ただ、彼は僕を抱くことはできなかった。決意の問題なのか、知識の問題なのか、男としての生理の問題のか。要するに、僕で起つ勃つか勃たないのか。本能的な部分で、彼も僕も同性愛者ではないから、二人してこんな泥濘に嵌ってしまった。最早以前のような、純粋な意味での友情を築くことはできない。僕は失ったものの大きさを今更ながら思い知った。あの夜の月は、禍々しいまでに赤かった。どこか不吉な予感をさせるような赤い月に、僕は今、翻弄されている。
五階のフロアに戻ると、関本を筆頭に同じ課の連中が集まって来た。通常だと人事異動の正式発表までは、一切公言しないと言うのがルールだが、今回は部全体の改革もあり、ほとんどオープンな状態で、全員が辞令先を明かしていた。
「企画だよ」
僕の辞令に「おー」と言う歓声が起こる。良かったじゃないかと言われても、僕にはこれが良いことなのか、今一つピンと来ない。確かに異動先の第一希望として、企画を上げる人間は多い。能力もセンスも問われる仕事だし、僕にそんなものが備わっているとは思っていない。
これまで以上に大変になることだけは漠然と分かっているし、先行きは不安ばかりだ。ある意味社会人として、一つの岐路に立たされたことになる。今まで、何かと関本に助けられてきた。仕事の上では同じチームであり、良きライバルであり、目標でもあった。そう言う存在がいたからこそ今の自分がいる。クラス分けで別れる友を想うような、切なさにも似た喪失感が僕を支配する。
実はこの部屋に戻ってから、僕は意識的に関本の視線を避けてきた。考えていることが直ぐに顔に出る僕は動揺が隠せない。
関本と離れること。
工藤と同じ課に異動だと言うこと。
その事実をまだ関本が知らないこと。
僕は何に対して動揺しているのか。人間の浅い僕は、ひとつの綻びから全てが露呈してしまいそうで、嘘をついている子供のように眼を逸らすしかできない。
フロアに電話の音が響いていた。どこか落ち着かない営業部は、今日は電話に対する反応が鈍い。赤くチカチカと点滅するボタンと、忙しない呼び出し音で外線電話だと分かる。電話に近い位置にいた僕は慌ててそれに出た。そのタイミングでなんとなく課のメンバーが其々に自分の席へとバラける。その電話がたまたま僕の得意先だった為、僕は儀礼的な挨拶を交わし、先方の要件を聞く為、他人の机の上でメモになりそうな紙きれを捜す。横からメモブロックを寄こしたのは関本だった。僕はそれに応えるように関本をちらりと見る。その目が何か言いたげだと思うのは、僕に後ろめたいことがあるからに違いない。不自然に思われない程度のタイミングで、要件を書き止める為メモに視線を落とした。
先方の要件は打ち合わせの日時変更。スケジュール確認の為に一旦保留にして、自分の席へと戻る。もう一度受話器を肩に挟んでスケジュール帳を繰りながら、会話を続ける。その視界の隅で、工藤が戻って来たことを確認した。僕は吸い寄せられるようにその姿を目で追っていた。
工藤は一旦同じ課のメンバーに囲まれ、早速質問攻撃に遭っていたが、そつなくそれに応えながら、迷うことなく僕のいる方を見た。「同じ企画だよ」と目が語っている。「知ってるさ」とは返せない僕は、得意先とのやりとりをしながら、困った顔をするしかない。
スケジュール調整の上、要件を終えて受話器を置くと、工藤がこちらにやって来る。工藤は同じ課に異動だと聞いて、単純に嬉しいのだろうか。関本と僕に距離ができることで、何らかの安らぎを得るのだろうか。その隙間を埋める為に、僕との距離を縮めようと思っているのだろうか。頭の中でそんなことを考えていると、胸の鼓動が速くなり、口が渇いた。
「どこになった?」
僕の頭上から関本の声がした。背後に関本がいる。僕に向けられていた視線が、ゆっくりと上に上がる。
「一応、企画だよ」
どこか挑発するような言い方だ。
「一応ってなんだ、一応って」
関本が突っ込みを入れる。僕も心の中で同じ突っ込みを入れていた。
「なんとなく実感が湧かなくて。この場合、餞別はないんだろうな」
工藤が僕を見る。
「残念だな。俺も異動だし」
僕の表情は硬い。工藤が餞別に何を期待していたのか、想像ができるだけに気まずい。
「異動って言っても、同じ社内だろ。別に何も変わらないさ。お前たち、晩飯誘えよ。一之瀬も心配することないからな。ちゃんと毎日遊んでやるぞ」
くだけた様子で関本の腕が僕の肩にかかる。それを見守る工藤の視線を意識しながら、僕はちらりと関本を見上げる。
「なんだよーそのいい方。遊んでやってるのはこっちだろ」
「おお、俺にそんな態度ですか。そんな事でいいのかな、一之瀬君」
関本が不敵に笑う。やばい。思ったより先に、関本の羽交い絞めに襲われるていた。
「反則! 放せよ、バカ」
「降参と言え!」
「い、言わな……い」
「言え!」
「嫌だ!」
ふざける僕らを見ていた工藤が笑い出した。その笑顔はかつて僕の知っていた、同期の工藤の顔だ。いつも冷静沈着で、静かに笑いながらそこにいるだけで僕が安らげる存在。僕はそんな工藤が好きだった。いつまでも、そうあって欲しいと思うのは僕の我儘なんだろうか。
「ほんとに、おまえら兄弟のように仲が良いんだな」
その言葉に何の含みも無かったと思う。それでも僕は、どこか淋しげな色をしていると思わずにはいられなかった。




