25
自分が降りる駅が近付くと、現実が静かに戻って来る。見慣れた景色に紐づけられた雑多な記憶が、束の間、僕を工藤の呪縛から解放してくれる。電車を降りるとコンビニの明るい光に吸い寄せられ、特に欲しい訳でもないのに店内を一周すると、カップ麺とミネラルウォーターを買っていた。カサカサと鳴るコンビニの袋をぶら下げて、自分のマンションに戻ったのは午後八時頃。テーブルにそのまま袋を放り出し、ベッドの上に服を脱ぎ捨て、バスルームへと向かった。
シャワーに頭を突っ込み、眼を閉じる。ややもすると、工藤の記憶が僕を捉えそうになる。振り払うように、僕は盛大に泡を立てて全身をくまなく洗い出した。それこそ工藤の唇の感触や、僕に触れた時の記憶、もしくは僕に触れたであろう仮想の掌の感触を。それらを拭いさるように、半ばムキになっていた。
どうにもならなかったからこそ、僕は工藤の呪縛からいつまでも逃げられないのか。中途半端にあんなキスするんじゃなかった。工藤が触れた唇が、いつまでもその記憶を押し留めていた。それでも、随分時間を掛けたせいか、シャワーから出た時は、少しは気分もスッキリとしていた。
洗濯したてのスウェットに袖を通し、バスタオルで髪の毛を乾かしながら、いつものように冷蔵庫から缶ビールを取り出す。そのままベッドルームに戻ると、だらしなく脱ぎ散らかした服が眼に入った。やれやれと、掴んだ服の塊から、携帯が滑り落ちる。
青く点滅するディスプレイ。
ベッドに座り込み、携帯を開いた。そこに工藤の名前を見つけても、僕は動揺しないだけの気分には回復していた。そのまま携帯を閉じてベッドに放り投げる。缶ビールのプルトップを開けて、それをお伴にベランダへと出た。
都会には空がない。
どこかで聞いたようなフレーズが僕の頭を過る。確かに星はほとんど見えないが、それでも数えるぐらいはある。ビールをちびちび口に運びつつ、僕はおぼつかない記憶を辿りながら星座を探し始めた。
背後で携帯が鳴り出した。
確かめなくても、それが誰なのか分かっている。そのまま無視をして、冷たく光る星の点を結ぶことに、一時意識を集中させる。残念ながら、2つ探したところで早々に行き詰まった。
ため息と共に振り返ると、悲しげに携帯電話が青く点滅していた。ホタルのようにも見えるその点滅は、どこか儚げで、僕は少しだけ胸が痛んだ。
部屋に戻って携帯を掴むと、ベランダに出て着信を確認する。着信が2回。留守番電話にメッセージが1件。
躊躇いはしたが、僕はそのまま耳に宛がって、そのメッセージを再生する。
『一之瀬……』
その一言で僕はまたふりだしに戻る。
『今日は、悪かったな……』
工藤はもともと早口でしゃべる方ではないが、考え込むようなその間合いが、僕の胸をざわつかせる。いっそこのまま切ってしまおうと思いながらも、僕はそれができない。そんな僕を見越したかのように、メッセージは続く。
『一之瀬にあんなことをさせるつもりはなかったんだ。勇気いっただろうな。おまえが無理することはないんだ。おまえは、そのままでいい……』
工藤の声は消え入りそうで、僕は考え込むように親指で自分の唇をなぞっていた。その行為が工藤の唇の感触を思い出す引き金になり、僕は慌てて手の甲で唇を拭った。
『今の俺には……あれが精一杯なんだと思う……』
メッセージはそこで終了したかのようだった。何か言いたげな空白だと思っていると、最後に唐突な一言でメッセージが終了した。
『月が綺麗だ』
続いて、再生が終了したと言うメッセージが流れて、僕は我に返る。
――月?
僕は、徐に夜空を扇ぐ。
この夜空を工藤も眺めているのか。
僕は身を乗り出すようにして、月を探す。そのままうっちゃっておけばいいのに、僕は律義にも彼が綺麗だと言った月を探しまわる。
反対側か。
僕はわざわざ玄関を出て、廊下側に身を乗り出した。
どんな月を想像していたのか自分でも意外だったが、びっくりするぐらいにくっきりとした丸い月に眼を奪われた。そんなに意識して月を鑑賞する趣味も無い僕は、丸い月を見るのは、随分久しぶりのような気がした。満月の夜には不吉な事が起きる。縁起でもないことを考えたが、工藤が綺麗だと言った月は綺麗と言うより、どこか禍々しいような赤い月だった。僕が狼男なら、間違いなく変身している。
月に向かって吠えたりはしなかったが、僕は暫く工藤の綺麗だと言った月を眺めていた。その間に、携帯のメッセージを何度か再生する。
『月が綺麗だ』
万感の想いが込められたような一言が、何故か何時までも耳に残っていた。




