24
結局、僕も工藤もその夜最後の一線を越えることが出来なかった。確かに工藤は、僕を抱いたらどうだろうかと悩んでいたと思う。友情と言う言葉だけでは安心できないぐらい、僕を欲していたのは間違いないだろう。だが、僕に触れてキスをすることはできる彼でも、最後の一線を越えることへの躊躇いはあった。そのことが僕には新鮮な驚きだった。
僕らの前に横たわる一線。
男の僕を好きだと言う、彼の一線。
少なくとも、友人であり、同性であると言う一線を、彼は軽々と越えた来た。僕が、焦ったり戸惑ったりした時のような混乱は、微塵も感じられなかった。そんな彼をしても、最後の一線は、遥かに高いハードルだったらしい。
最後の一線。
肉体を重ねると言う、動物的で本能的な衝動。
この経験で、僕はひとつ分かった事が有る。今までちょっと気になる子がやがて友人と呼ばれる存在になり、その友人の中で一番気の合う子が恋人となって行った。そしてそう躊躇うこともなく、最後の一線を超えて来た。男女の間でのその一線は、僕にはそれほど高いハードルではなかったと言う事だ。考えたらこれまでも、そんなに深く相手を思って、セックスして来なかったのかもしれない。所詮僕なんて、それだけの不実な男だと言うことか。
だから、彼があんな風に躊躇うとは思いもしなかった。それこそ、僕と本懐を遂げる事が彼の望みであると思い込んでいた。あまり協力的でなかったにしろ、僕はそのまま流されていたと思う。男同士で寝ることによって何を見出すのか。少なくとも彼が束の間の安寧を得るのであれば、僕はそれだけでも意味が有る事のように思えた。
いっそ彼が同性愛者であれば、話はシンプルだったのかもしれない。僕がそれを受け入れられるのか否か。試してダメなら、彼も僕も諦めがつく。
工藤のマンションを出た僕は、何処へ向かっているのか分からないまま夜道を歩いていた。いつか彼と食べたトリッパの感触がふと蘇る。呑み下そうと焦ったあの時の夜の記憶が、切ないぐらいに鮮明に思い出された。後悔の味が有るとすれば、僕はトリッパを思い浮かべるに違いない。
携帯電話がポケットでひっきりなしに震動していた。工藤らしく、フォローの電話に違いないと思いながらも、僕はそれを無視する。
今更、話す事なんてない。
手の中で暫く握りしめていると、息絶えたように静かになった。取り出して確かめはしないものの、僕はいつまでもその無機質な塊を玩んでいた。
通りに出て、道路標識を探す。自分の位置関係を確認すると、最寄駅の見当をつけ、歩き出す。横をすり抜ける自転車を交わし、赤信号には立ち止まり、帰り道を模索する思考能力はあるものの、頭の中の大半は彼で占められていた。
「一之瀬の事が好きみたいなんだ」と、躊躇いがちに言った工藤の顔。
「一之瀬」と、独特の響きで囁く声。
玄関先の触れるだけの軽いキスと香りの記憶。
「一之瀬……一之瀬……一之瀬……」
僕は彼の声が好きだった。僕に圧し掛かって来た時の彼の綺麗な睫毛と、唇の感触。何か生まれそうで生まれない、ギリギリの綱渡り。僕は、すっかり彼に取り憑かれそうになっていた。 最後まで突っ走らなかったからこそ、僕はこの呪縛から逃れられないのか。




