20
翌日、あれほどの悪酔いだった割には、自分でも驚くぐらい朝早く目が覚めて、常にないぐらいきびきびと仕度をして、僕は会社へ向かった。何か遣りかけの仕事が有った訳でもないから、パソコンを立ち上げた後はすっかり手持無沙汰で、すぐさま喫煙室へと直行。
その日は早朝出勤しているメンバーもなく僕の貸し切り状態で、朝靄のかかった景色をぼんやりと眺めながら、煙草片手に自販機で買った珈琲を啜っていた。
「へぇ、早起きは三文の得ってホントだな」
白い靄のなかに浮かぶ幻想的な街路樹を見て、僕にしては珍しく奇特な言葉を口にしていた。
この時の僕は、目の前の景色同様真っ白で、何も考えてなかった。
建てつけの悪いパーテーションのドアが開く音に、ふいと顔を向けると、工藤が入って来る姿が見えた。
前言撤回。
一瞬にして、僕は緊張状態になる。
工藤は僕を認識すると、淡く笑って自販機で珈琲を買う。当然の如く、僕の前に来てなんだか軽いため息をひとつ。心なしか、顔色も優れないようだ。
「疲れてるな」
と言ってから、工藤生贄作戦を思い出した。
同性の僕を好きだなんて言い出す工藤なら、もしかしてあの後、北澤さんと何かあったのかもしれない。その可能性をチラリと考えはしたが、工藤に限ってそれは無いだろうと言う、妙な確信もあった。
「おまえ、無事に帰れたのか?」
それでも、一応工藤をからかうのは基本として忘れない。
工藤はジロリと撲を睨んだ。
「面白がってるんだろう」
「そんなことないよ」
と、言う顔がにやけてしまう。
「一之瀬、分かってるんだろうな」
敢えてその先は言わないが、工藤は別に男が好きなわけではない。そう言いたいのだろう。
「ずっと口説かれてたのか?」
相変わらず、僕はニタニタと嫌らしい笑みを浮かべて工藤を見る。男に迫られると言う体験を、おまえも身を持って味わってみてどうなんだ、とでも言う具合に。
工藤はダルそうに煙草を取り出して火を点ける。
「あの人、ああ見えて無茶はしない人だよ。それに興味深い話も聞けたしな」
「どんな?」
「一之瀬には聞かせたくない」
そう言われると不思議なもので聞きたくなる。僕が催促するような眼をすると、工藤はニヤリと笑って煙を吐く。
「聞きたいか?」
同期はこの駆け引きが絶妙だ。
「勿体つけるな」
早朝の喫煙室は誰もいなかったが、工藤は少し身を乗り出し、声を潜める。
「男同士のSEX」
そう言って、実に艶やかな眼をして僕を見た。
撲は思わず変な声を上げそうになるが、工藤はいたって平気な顔をしている。
「聞かなければ良かったかもな。俺にあれが出来るかな」
「そ、それ聞いてどうする気だよ」
僕は脇の下に冷たい汗を掻く。
今度は工藤がからかうように唇の端をスッと上げた。
「試してやろうか」
なんてこと言うだよ、こいつ。
撲は金魚のように口をパクパクとさせる。そんな撲を見て、工藤にしては珍しく声を立てて笑い出した。
「嘘だよ」
「おまえな」
撲は脱力しそうになりながら、頭を抱える。笑いの治まったところで僕は顔を上げた。
工藤はそんな僕をジッと見ている。
その眼はもう笑っていなかった。
僕はその視線の鋭さにドキリとする。
嘘だよと笑ってみせた同期のその言葉の裏に、どれだけ秘められた想いがあるのかを、撲はその瞳の中に、ちらりと垣間見たような気がした。
「おまえを抱いたら……俺は安心できるのかな」
僕にと言うより、まるで自分自身へ問いかけるような言い方だった。
僕は何も言えずにただ彼を見詰める。
彼の眼には僕がどう映っているのだろう。
先に眼を逸らしたのは彼だった。少し考えるように俯き、何を思ったのか僕の手を掴んだ。
振り払うことも、手を抜き取ることもできたはずなのに、僕は黙って彼の思い通りに手を委ねた。こういう状態になると、流石に彼がどんな顔をしているのかを見るのが怖くなって、僕も食い入るように彼の手を見た。男にしては長くて綺麗な手だ。
僕が逃げないことに安心をしたのか、彼はいつまでも僕の指先を確かめるようになぞる。
手ぐらいで彼が満足するなら僕は「どうぞどうぞ」とこの手を差し出すだろう。ただ彼は今、僕を抱いたらどうだろうかと思い始めている。
そこが問題なんだ。
「おまえ、何が不安なんだ。俺はこうしておまえの側にいるじゃないか、な」
僕は、焦っていた。
男の工藤に告白されたからと言って、僕は彼を遠ざけたりはしなかった。関本には危険だと言われたけど、間違いなくこれからも同期で友人として有り続ける自信がある。それだけでは彼は満足できないと言うのか?
どう言えば彼を説得できるのか。僕は正に崖っぷちまで追い詰められていた。そんな、僕の焦りが分かったのか、工藤はチラリと一度だけ僕を見てから、又指先に視線を戻した。
「俺は自分に自信がないんだ。これから先も、一之瀬にとって必要な人間でいられるのか。それが、たまらなく不安なんだよ」
こんな弱気な同期を見るのは初めてだった。彼は物静かな男だが、強い意志の持ち主だ。彼が何かに迷っている姿を、僕は今まで一度も眼にした事がない。撲なんかが及ばないぐらい、頭も良いし、仕事もできる。天津さえ容姿にも恵まれていて、人も羨むぐらいの人間なのに、撲なんかの為にそこまで思いつめる事が不思議だった。
不安を埋めるために撲を抱いてみる。彼がその考えを、何処かで最後の望みのように思い始めているらしい。そうまでして撲を手に入れたいと思う感情は、もはや友情ではないのだろう。
撲はその想いの深さに息苦しさを覚える。
まるでプールの底から、ユラユラと揺れる水面を見上げているような気分だった。
このままでは窒息しそうだ。酸素を求めてプールの底を思いっきり蹴る。
こんな状態は最早僕には耐えられない。
「寝てみるか」
撲は思わずそう呟いた。
彼は指先から撲の顔へとゆっくりと視線を上げる。彼の表情がどんな風に変わるのか、僕は探るように見守っていた。
僕の提案に彼は歓喜するだろうか?
このまま、キスぐらいされるかもしれない。
彼のどんな反応も見逃すまいとするが、彼の表情からは何も読み取れなかった。
「軽々しく口にするな」
反対に怒ったような口調で視線を逸らして、僕の手を放した。
「俺はどうしたらいい。おまえが俺を大切に思ってくれるほどの価値は俺にはないよ。寝たからって何かが変わるなんて思わない。それでもお前が安心できると言うなら、俺は……俺は……寝ることぐらい構わない」
この時の撲は、すっかり訳が分からなくなっていた。もうどうなってもいいぐらいに、彼に追い詰められていた。寝たからって妊娠するわけでもない。彼が抱きたいと言うのなら、その望みを叶えてやるぐらい簡単じゃないかと。
「一之瀬は自分の価値が分かってない」
「分かってないのはおまえだ。俺はこの状態が耐えられない」
もう、彼と寝る事は避けられないような気がした。そうなった後に、撲と彼が何を手にして何を失うのか。そんな冷静な判断さえつかない。
喫煙室の外で声がする。吸っていた煙草を灰皿に落とすと、そのまま逃げるように喫煙室を後にした。
彼は追いかけては来なかったし、僕も振り返りはしなかった。




