18
まさか関本が――
その可能性を僕が一度も疑わなかったろうか。いや確かにあのキス以来、僕の頭に何度となくその考えが過ったのは事実。只それは工藤の告白があればこそで、あの告白がなければ、僕は全く疑う事などなかっただろう。
世間にはそういう世界も確かにある。テレビドラマや映画のように、四角い画面に切り取られた絵空事ではなく、ヒタヒタと忍び寄るリアルな現実が、僕に色つきの映像を見せるのか?
多分関本も、今夜初めてその可能性に気が付いたはずだ。だからこそ、あんな奇妙な顔をしたのだろう。
関本は何も言いいはしなかった。工藤が放り投げた一石が、まるで鏡のような水面に、ゆっくりとその波紋を広げる様を、ただ黙って見つめていた。まるで三すくみのように動けなくなった僕らは、誰かがその均衡を破ってくれる事を、ただじっと待っているような状態だった。
それは意外にも唐突に、無粋なぐらい無機質の音によってもたらされた。
どこかで誰かの携帯が鳴る。
マナーモードのその音は、ウーン、ウーンと苦しそうに唸っていた。僕らは慌てて、それぞれに自分の携帯を探り出す。
「ごめん」
いち早く画面を確認した工藤が、まるで逃げ出すように席を立った。関本はその後ろ姿を強張ったまま眼で追っている。
「頭、冷やしてくるわ」
二人でいることに気詰まりを覚えたのだろう。関本も追いかけるように席を立った。
「はぁー」
僕は、それこそテーブルに突っ伏すように頭を伏せた。
どうするんだよ、これから。
いくら考えても、このぬかるみから這い出す術が浮かばない。余計にややこしくなっただけだ。
ころりん、と右に傾き頬をテーブルに付ける。少しアルコールで火照った頬に、ひんやりと気持ちがいい。
このまま酔いつぶれてやろうか。
そんな姑息な手段を考えていると、「一之瀬」と呼ぶ声を耳にした。僕は気だるく、目を開く。二人が出て行ったまま開け放された障子から、会社の先輩が顔を覗かせていた。
「大丈夫か? おまえ一人ってことないよな」
僕は慌てて頭を起こす。
「北澤さん」
そのタイミングで工藤が戻って来た。
「やっぱり、いつもの面子か」
僕と工藤を交互に見つめて北澤さんがニヤリと笑う。
「北澤さんは、お一人ですか?」
営業スマイルで工藤が笑い返す。
「相変わらずいい男だな」
「北澤さんほどではないですよ」
この二人は決して仲が悪いわけではないと思うが、何故だかいつもこんな会話になる。
この先輩、お酒が入ると男を口説く癖がある。誰彼なしと言うわけでもなさそうだが、昔から工藤にご執心で、さすがの冷静沈着男がタジタジとなるのが可笑しかったりする。
同性相手に何処までが本気で、何処までが冗談なのかは全く分からない。でもこの先輩の同性を口説くと言う行為はあっけらかんとしていて、後ろ暗いところがない。口説くと告白とは似通っているようで、そうではないのだと、実はこの時この先輩を見ながらぼんやりと考えていた。
「少し邪魔してもいいか」
「構いませんよ、少しなら」
穏やかな工藤にしては棘のある言い方だ。
北澤さんはそんな事は一向に気にしない。さっさと座敷に上がって、工藤の座っていた場所に腰を落とす。
工藤はやれやれと言う顔で北澤さんを見てから、僕に視線をよこした。さっき改めて好きだと言われた事がずっと頭の中でリフレインしている僕は、困ったことに心臓がドキリと大きく跳ね上がる。その上、工藤が北澤さんの隣ではなく、わざわざ僕の隣に座るものだから、僕の心臓はこの上ないぐらい騒ぎだした。北澤さんを避けたくてそうしたのか、敢えて意図して僕の隣にすわったのか。そんな風に考える事自体、工藤が僕の中で大きな脅威となっている事は間違いないようだ。
そんなに広いテーブルでもないから、工藤の付けている香水がフッと漂う。今まであまり意識した事はなかったが、初めてキスをした時、この香に包まれた事をふと思い出していた。
香の記憶と言うのは不思議なもので、その匂いを嗅ぐだけでそれに伴う記憶が鮮やかに蘇ってくる。僕はあの時のキスを思い出して、なんだか工藤の顔がまともに見られない。
関本も戻って来ると、この状況に眉をしかめるような顔をしたが、強引な北澤さんに促がされてしぶしぶその隣に腰を下ろす。
「一之瀬、顔が赤いぞ。ホントに大丈夫なのか?」
北澤さんがそんな事を言うから、二人の注意が僕に向けられる。
「一之瀬?」
「大丈夫か?」
できればほっといてくれ。
「ちょっと酔っただけですって」
僕は北澤さんに向かってそう言うと、パタパタと手を振って顔を扇ぐ。
「相変わらずだな、おまえは」
「相変わらずってなんですか」
「酒は呑むもんで、呑まれるなって言ってるだろ」
「だから、酔ってませんって!」
言ってることがチグハグで、工藤が笑い出す。この笑いは嫌な笑いではなかった。
「相変わらずなのは北澤さんですよ。そうやって一之瀬を弄るから、こいつもムキになるんじゃないですか」
「俺が?」
北澤さんが鼻で笑う。こっちの笑いは性質が悪い。
「なんだ、妬くなよ」
性懲りもなく工藤にそんな台詞を吐く。
「どうして、そんな話になるんですか」
そら、始まった。
相変わらずのこの対決に関本と僕は首をすくめる。お陰で、僕の心臓はなんとか平静を取り戻すことができた。
追加でビールを頼み、一旦綺麗に片付いていたテーブルへ、仕切り直しとばかりに料理が並ぶと、今日何度目かの乾杯が交わされた。決して僕には、乾杯するような目出度い話はないのだけど。
「相変わらず同期で仲がいいな。いつも一緒なのか?」
「いつもってほどでもないですよ」
関本はなんだか面白くなさそうに答える。
この先輩は僕が入社した時のOJTをやってくれた人で、社会人になっていろんな事を一番身近で教えてくれた先輩だ。一人の新人に一人の教育係りがつくので、関本や工藤にも別にそう言う存在の先輩がいた。
北澤さんに教えてもらったのは一年ばかりで、その後企画部へ異動となり、フロア自体も別になってしまったので、昔みたいには顔を合わせる機会もなくなった。だが基本的にこの先輩は、撲を弟分のように可愛がってくれる。
身長が180㎝もありスリムでなかなかのイケメンだから、女性にかなりもてる。特定の彼女は作らない主義らしく、根っからの快楽主義者だと自らを豪語する。男を口説くのもその延長線上にあるのか?
そう聞くとなんだかチャラチャラしたとんでもない男のように思うが、この人は恐ろしく頭が良くて、仕事も出来る。営業にいる時もトップセールスマンだったし、企画部へ異動になってさらにその才能が発揮された。僅か1年足らずで、一つのプロジェクトを任されるチームリーダーへと駆け上っていた。向うところ敵なしと言った感じの人だ。
そんな先輩に可愛がられているわけだから、撲はもっと自慢していいのだろうけど、なんせこの先輩と付き合うのはかなり体力がいる。僕はどちらかと言うと振り回されて、毎回ヘトヘトになってしまうのが常だ。
「北澤さん、聞いてもいいですか」
頬杖をつきながら関本が口を開く。今日の関本はそれだけでなんだかキナ臭い感じが漂う。
「北澤さんって、実際のところ男も経験あるんですか」
相変わらずの直球勝負。まあ、こんな事ぐらいで動揺する北澤さんではない。
「なんだ、男三人でそんな話をしていたのか?」
ええ、そうですとも言えず、僕らは曖昧に笑う。
北澤さんはニヤニヤと笑いながら、テーブルに載っていた誰かの煙草に手を伸ばす。今夜の講習料に、一服させろとでも言うように。
口に銜えるとさり気なく工藤が火を点け、関本が灰皿を差し出す。こう言う所は二人とも流石に営業マンだ。北澤さんは、咥え煙草で「苦しゅうない」とばかりに、僕らを睥睨する。
「何事も経験だからな」
勿体をつけるように笑って見せるが、それがなんだか嫌らしい。下品にならない程度に艶っぽいとでも言うのか、いい男は何をしても絵になると言う感じだ。
「男相手に勃つんですか」
これまた眩暈がするような台詞を吐く関本。
「おまえ試した事ないのか?」
反対に聞かれて関本がたじろぐ。
「普通ありませんよ」
なんだ、つまらない男だな、とでも言うような眼をして北澤さんは関本を見る。この人からしたら僕らなんて、まだまだひよっ子も同然。
「あのな、男でも女でもする事はほとんど変わらないぞ。難しく考えるな。おまえ男に興味でも持ち始めたのか? なんなら教えてやってもいいぞ」
さすがの関本もこれには慌てる。
「おまえはどうだ?」
北澤さんの口説きモードが工藤に向けられる。
「ご遠慮します」
丁寧に卒なく断るのはいつものパターン。
「試して損はないぞ。俺は充分満足させてやる自信はあるからな」
懲りない北澤さんは、尚も迫る。
これセクハラで訴えてもいいんじゃないのか。
「襲われるのは趣味じゃありませんから」
別に自分がウブだとは思わないが、なんだかこの手の話にはついてはいけない。折しも、告白された身の僕には、あまりにリアル過ぎて目を覆いたくなる。僕は居心地悪い思いで、ぬるくなったビールを飲み下す。
「それぐらいにして下さい。一之瀬、困ってますから」
工藤が笑いながら北澤さんを諭すように囁く。北澤さんは撲を見るとニヤリと笑う。
「子供には刺激が強すぎたな」
なんだか皆で撲を子ども扱い。
結局この夜の飲み会は北澤さんの乱入で、いつしか工藤VS北澤さんの様相を呈する。僕としては、救いの神だ。
仕事をしている北澤さんは、男の撲から見てもほれぼれするぐらいいい男なのに、夜の北澤さんはまるっきり人格が変わる。酔って押し倒すなんてご乱心はないにしても、やたら工藤を口説きまくる。工藤も一筋縄ではいかない男だから、あの落ち着いた慇懃無礼な態度を少しも崩さず、巧みにそれをかわす。
なんだかお互いにそれを愉しんでいる節にさえ見え、関本と撲は途中でバカらしくなった。
この二人は男が男を口説くと言う図であっても、底にあるものが恋愛感情でないから何故か後ろ暗いところがない。かと言って自慢できる行為ではないのだけど、それは北澤さんの人徳なのかもしれない。口説くとは本来こう言うものだろうか。北澤さんぐらいになると、口説くとみせかけてチラリと本音を告白してみるぐらいの手練手管はありそうな気がする。
なにはともあれ工藤の検討を祈りつつ、「次、行くぞ」と言った北澤さんを振り切って、僕と関本はその店から逃げ出す事にした。




