真壁修司のある日常①コーヒーゼリーが固まるまで
『真壁修司のある日常』第一話です。
事件を追っているときだけが、刑事の人生ではありません。
休日にはコーヒーを淹れ、妙な電話にも出る。
今回は、そんな真壁修司の「何も起きなかった一日」の話です。
本編とは少し違う、肩の力を抜いた短編としてお楽しみください。
真壁修司は、コーヒー馬鹿である。
本人にそう言えば、おそらく否定する。
豆の産地がどうとか、焙煎がどうとか、湯温がどうとか、もっともらしい理屈を並べるだろう。
だが、休日の朝から自宅でアイスコーヒーを淹れ、その一部をコーヒーゼリーにしようとしている男を、世間ではだいたいコーヒー馬鹿と呼ぶ。
キリマンジャロだけでは香りはいいが、ゼリーにすると味が軽い。
今日はマンデリンを混ぜる。
キリマンジャロ六、マンデリン四。
「……いや、五対五でもいいか」
もっとも、今日は少し事情があった。
最近、血糖値が少し高い。
だからといってコーヒーをやめるという発想にはならない。
砂糖をやめればいい。
真壁は計量カップに水を五十cc入れた。
クックゼラチン、一袋。
このゼラチンは常温の水にも溶ける。だが真壁は、そこで終わらせない。
五十ccの水にゼラチンをよく溶かし、鍋を火にかける。
七十度。
七十五度。
八十度。
そこで火を止めた。
残しておいた二百ccと合わせる。
パルスイートを大さじ一杯。
あとは自分で淹れたコーヒーと合わせ、二つの容器に分ける。
これなら一個あたりの糖質はごくわずかだ。
血糖値が気になるからコーヒーゼリーを食べない、という選択肢は真壁にはなかった。
糖質を減らせばいい。
二つの容器を冷蔵庫へ入れた。
このゼラチンは冷えれば固まるが、暖かい場所に置けばまた緩んでくる。
面白いものだ、と真壁は思う。
条件一つで、固体らしく振る舞ったり、液体へ戻ったりする。
冷蔵庫の扉を閉めた。
そのときだった。
電話が鳴った。
「はい」
『この通話は、録音されています』
機械的な女の声だった。
企業のコールセンターでよく聞く類いのアナウンスだ。
数秒後、人間の男の声に変わった。
『こちらは、○○警察署です』
警察署。
休日まで警察か。
真壁は椅子に腰を下ろした。
『あなたの携帯電話が、事件に使われれた疑いがあります』
「私の携帯が?」
『はい。契約された覚えはありますか?』
「いや。ありませんね」
少なくとも、今使っているもの以外には。
『では、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか』
真壁の眉がわずかに動いた。
――名前?
あなたの携帯電話が事件に使われている。
そう言って電話してきた相手が、今から自分の名前を聞く。
順番がおかしい。
だが真壁は答えた。
「真壁修司です」
『真壁修司さんですね。少々お待ちください』
わずかな間があった。
『やはり、二か月ほど前に、東京の六本木にある携帯ショップで契約されていますね』
「六本木?」
『はい』
「行ってませんけどね」
『そうですか……』
男の声が少し低くなった。
『でしたら、第三者が真壁さんのお名前を使って契約した可能性があります』
なるほど。
真壁はテーブルの上に置いてあったコーヒーを一口飲んだ。
そういう話になるのか。
『事情聴取がありますので、こちらまで来ていただけませんか?』
「そちらまで?」
『はい』
真壁は窓の外を見た。
休日である。
そして、遠い。
「そう言われても、かなり遠いですしね。それに、まったく身に覚えがありませんが?」
電話の向こうで男が少し考えたようだった。
『こちらとしては、来ていただいて解約手続きをしていただかないと……』
真壁はコーヒーカップを置いた。
解約手続き。
警察署で?
『それに裁判にも出てきていただかないといけませんし……』
今度は裁判まで出てきた。
携帯電話。
事件。
事情聴取。
解約。
裁判。
話がずいぶん大きくなってきた。
「申し訳ない。今、少し手が離せないんですよ」
これは嘘ではない。
コーヒーゼリーを作っている。
『そうですか』
「あとから、もう一度かけていただけますか?」
『分かりました』
意外にも男はあっさり承諾した。
『では、この件の問い合わせ番号をお伝えします』
男は数字を読み上げた。
真壁はメモした。
『私、担当の○○と申します』
その名前も書いた。
『それから真壁さん』
「はい」
男の声が、それまでより少し重くなった。
『この事件には守秘義務が発生します。くれぐれも、他の人には話さないでください』
「分かりました」
真壁は電話を切った。
しばらく受話器を眺める。
守秘義務。
誰にも話すな。
真壁は立ち上がった。
そして別の電話を手に取った。
自分の勤務先ではない。
今日は休日だ。
それに、ここは自分の管轄ではない。
近所の警察署へ電話をかけた。
「すみません。ちょっと妙な電話がありまして」
しばらくして、本物の警察官がやって来た。
真壁は最初から説明した。
録音されているというアナウンス。
警察署を名乗ったこと。
事件に使われた携帯電話。
六本木。
二か月前。
事情聴取。
解約手続き。
裁判。
そして問い合わせ番号と担当者名。
最後に、
「他の人には話すな、と言われました」
警察官は一通り話を聞き、必要なことを確認した。
そして帰り際に言った。
「また電話がかかってきたら、こちらへ連絡してください」
「分かりました」
今度は本当に分かった。
警察官を見送ったあと、真壁は冷蔵庫を開けた。
まだ早い。
ゼリーの表面を少し揺らしてみる。
固まり始めてはいる。
だが、もう少しだ。
冷蔵庫を閉めた。
そして――
電話が鳴った。
真壁は時計を見た。
来たか。
「はい」
聞き覚えのある男の声だった。
『先ほどの○○警察署です』
「どうも」
男は先ほどの話を続けようとした。
真壁は遮った。
「ああ、その件なんですが」
『はい』
「こちらの警察に届け出しました」
沈黙。
ほんの一瞬だった。
だが、先ほどまでにはなかった間だった。
真壁は続けた。
「また電話がかかってくるようなら、ご連絡くださいと言われましたが」
再び沈黙。
『……少々お待ちください』
「はい」
『お調べします』
何を調べるのだろう。
真壁は時計を見た。
十秒。
二十秒。
三十秒。
その間に冷蔵庫を開けた。
容器を一つ取り出す。
軽く傾けてみる。
さっきより固まっている。
四十秒。
五十秒。
そろそろ一分。
受話器の向こうからは何も聞こえない。
そして、
ブツッ。
電話が切れた。
真壁は受話器を耳から離した。
「……調べ終わったらしいな」
それきり、電話はかかってこなかった。
真壁は受話器を置き、冷蔵庫から二つの容器を取り出した。
スプーンで表面を軽く押す。
ぷるん、と揺れた。
こちらは、きちんと固まった。
真壁は満足そうに一口すくった。
甘さも悪くない。
事件にもならない。
逮捕者もいない。
犯人の顔すら見ていない。
真壁修司の休日に起きたことといえば、ただ一本の妙な電話がかかってきただけだった。
そしてその日、一番の収穫は――
砂糖を使わなくても、コーヒーゼリーは十分うまい。
「……マンデリン、もう一割減らすか」
今回の話は、実際にあった特殊詐欺の電話を参考にしています。
「あなた名義の携帯電話が事件に使われている」
「警察署まで来てほしい」
「他の人には話さないでほしい」
こうして不安にさせ、相手を自分たちの話の中へ引き込んでいくようです。
作中の真壁は刑事なので、近所の警察へ連絡して終わりました。
そして、もう一つ。
コーヒーゼリーの作り方も、かなり現実寄りです。
事件は解決しなくてもいい。
犯人を逮捕しなくてもいい。
コーヒーを淹れて、電話に出て、少し妙なことが起きる。
そんな真壁修司の日常を、ときどき書いていこうと思います。
次はどんな休日になるのか。
たぶん本人は、事件より先に豆の心配をするでしょう。




