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緋毛氈(ひもうせん)を渡る風

作者: 星渡リン
掲載日:2026/03/03

三月の家には、赤い色が眠っています。

雛飾りの緋毛氈。手で広げると、部屋の空気が少しだけ変わる。


この物語は、就活や未来の選択に気持ちが散りがちな大学生が、雛人形を飾る時間の中で「受け継ぐ」の意味を見つけていく短編です。

正しさよりも、誰の手で並べられたか。

緋毛氈を渡る風が、あなたの中の季節もそっと動かしますように。

 春の手前の風は、上着の隙間を見つけるのが上手だ。

 駅のホームで髪がほどけて、私は結び直そうとして、やめた。


 結び目を整えるだけで「ちゃんとしてる私」に戻れる気がして、それが嫌だった。

 ……たぶん、帰省ってそういうスイッチが多すぎる。


 電車の窓に映る私は、少しだけ大人の顔をしている。大学の講義、バイト、友だちとの予定。そこに最近は、将来の話が混ざってくる。就活。エントリー。面接。言葉だけが先に来て、心が追いついてない。


 そのとき、スマホが震えた。


『今年、雛人形出せる? おばあちゃん楽しみにしてる』


 “出せる?”って、予定表の用事みたいだ。出せる、出せない。できる、できない。

 行事までそんなふうに測ってしまう自分に、ちょっとだけムッとする。でも、返事をしないのも違う。


『今日帰る。夕方からなら』


 送信したあと、画面に映った自分の目が忙しく動いているのが見えた。目だけが先に走って、心は置いてきぼりだ。


 車窓の外、畑はまだ茶色い。それでも光は春で、土の上に薄い金色を撒いている。風が通るたび、枯れ草がぺたんと寝て、また起きる。

 同じ動きのくり返しなのに、少しずつ違う。時間って、こういうものかもしれない。


 家に着くころ、空は薄い水色になっていた。玄関の引き戸を開けると、畳の匂いと洗剤の匂いと台所の匂いがいっぺんに押し寄せる。都会の部屋は匂いが少ない。ここは生活がそのまま匂いになっている。


「おかえり」


 母の声は、いつも通り手早い。私の顔を見て、荷物を見て、靴を見て。確認。大丈夫。帰ってきた。はい、次。


「ただいま」


 奥の居間から、もう一つ声が飛んできた。


「遅い遅い。雛さまたち、箱の中で体操してるよ」


 祖母だ。澄江。声の高さが変わらないのが、妙に安心する。私は廊下を進み、障子を開けた。


 祖母は座布団にちょこんと座っていて、背筋がまっすぐだった。手元には桃の枝が一本。瓶の水に挿してある。蕾は固いけれど、その固さが「春の約束」みたいに見えた。


「体操してたら、箱が揺れて音しませんか」


「揺れる揺れる。ほら、こっちも揺れてる」


 祖母は肩を小さく揺らして見せた。私は笑って、荷物を隅に置く。笑うと、忙しい目が少しだけほどけた。


「じゃあ、出すか」


 私が言うと、祖母はぱちんと膝を叩いた。


「うん。出そう。赤いの、出そう」


 赤いの。祖母がそう呼ぶものは、押し入れの奥に眠っている。


 台所から母が顔を出した。


「箱、重いから気をつけてね。私は今、火止めるから。あとで手伝う」


「うん」


 返事をして、祖母と押し入れの前に座る。


 押し入れの戸は少しだけ引っかかった。木が季節を覚えていて、冬の間に縮んだ分だけ、春に向かって膨らもうとしているみたいだ。祖母は力で押し切らない。指先で場所を探して、すっと開ける。


「こういうのはね、怒ったら負け」


 祖母が小声で言って、押し入れが少し笑った気がした。


 箱がいくつも積まれている。布で包まれた長いもの、段ボールにマジックで「雛」と書かれたもの、木箱。祖母は迷いなく布包みを引き出した。


 ほどいた瞬間、空気が変わる。古い紙の匂い、防虫剤の匂い、布の繊維の匂い。どれも「昔」の匂いだ。

 子どものころ、私はこの匂いが苦手だった。今は、嫌いと言い切れない。記憶が一緒に出てくるから。


「ほら、これ」


 祖母が取り出したのは緋毛氈だった。赤。赤というより、血の色より少し暗くて、夕方の信号より深い。目の奥まで温度が届く赤。


 畳の上に広げると、部屋が一瞬だけ明るくなった気がした。布には重みがある。重みは、時間に似ている。軽いものはすぐに飛ぶ。重いものは置かれて、場を作る。


「こんな赤、家にあったんだ」


 思わず言うと、祖母は笑った。


「あるよ。ずっと、ある。佐和が忘れてただけ」


 祖母は緋毛氈の端を整えた。爪の先で布を軽く撫でる。その手つきが、布より柔らかい。


 雛段の骨組みを合わせ、白い布を張り、段を作る。祖母は説明しない。手を動かして見せる。私はそれを真似する。


「この棒が、ここ。ほら、逆にすると、がたがたする」


「うん……立ち方が不安になる」


「不安になるの、当たり」


 “正解”じゃなくて“当たり”。輪郭が少しゆるい言い方が、祖母らしい。


 段ができると、祖母は小さな箱を開けた。薄紙が丁寧に敷かれ、雛人形の顔が並んでいる。お内裏さま、お雛さま。顔は小さいのに、目線がしっかりしている。見られている、という感覚がある。


 私はスマホを取り出し、動画を回した。


「撮るの?」


「うん。順番、覚えたいし」


「便利だねえ」


 祖母は羨ましがるでもなく、否定するでもなく、ただ「便利だねえ」と言った。その一言で、私の肩の力が少し抜けた。勝手に“怒られる”準備をしていたのだと思う。家に帰ると、つい。


 屏風、灯り、三人官女、五人囃子。祖母の手は迷いなく伸びていく。けれど途中で、ふっと止まった。


 祖母の指が空中で迷子になる。ほんの一瞬。それでも、部屋の空気が小さく揺れた気がした。


「……あれ。これは、こっちだったかな」


 祖母が笑って誤魔化す。笑い方が少しだけ速い。


 私は反射的に検索窓を開いた。

「雛人形 並べ方」

画像がずらっと出る。どの家も、同じように赤い床、同じような顔、同じような配置。画面の中では“正しさ”が整列している。


「ほら、ここに……」


 スマホを見せようとしたとき、祖母が手で軽く制した。


「それもいい。でもね」


 祖母は人形の袖を整えながら言った。


「雛さまは、正しく並ぶより、誰の手で並べられたかが大事なんだよ」


 私は言葉を飲み込んだ。

 誰の手。そんなの、画面には出てこない。


「正しさは、あとからでも直せる。でも手つきはね、その人の今日しか出ない」


 今日しか出ない。

 その言い方が、妙に刺さった。私は今日、ここにいる。いつもの私は、ここにいない。


 台所から母の声が飛んできた。


「佐和、ちょっとごめん、これ回して!」


 母は居間の入口に立って、スマホを耳に当てている。仕事の電話だ。片手で何かを指さしている。私は台所に行き、換気扇を回し、調味料の蓋を閉め、流しの水を止めた。母の生活は、こういう小さな操作の連続でできている。


 電話を切った母が、疲れたように笑った。


「ごめんね。戻って」


「うん」


 居間に戻ると、祖母が三人官女の扇を持って首をかしげていた。


「これ、右? 左?」


「……」


 さっき見た画像の“正解”が頭の中で点滅する。言いかけて、やめた。

 代わりに祖母の手元を見る。扇を持つ指の角度が、少しだけ優しい。


「おばあちゃんが、持たせたい方で」


 私が言うと、祖母は目を細めた。


「そう言われると、こっち」


 祖母は扇をそっと置いた。正しさより、手。


 夜、母はちらし寿司を作った。酢の匂いが家中に広がり、甘い卵と刻んだ海苔と椎茸の匂いが混ざる。祖母は雛あられを皿に出し、桃の枝の水を替えた。蕾はまだ固いままだ。


 食卓を囲みながら、母が当然のように言った。


「ところで、就活のエントリー、進んでる?」


 箸が止まりそうになった。私は笑ってごまかす。


「まあ、ぼちぼち」


 ぼちぼち、は便利だ。何も言っていないのに、言ったことになる。


 母は頷いたけれど、その頷きには急いでいる硬さがあった。


「早めに決めた方がいいよ。迷ってると、あっという間だから」


 “あっという間”。母の人生は、たぶんそういうふうに過ぎたのだろう。私は母の二十歳を想像する。今の私より小さかったのか、大きかったのか。どっちにしても、私には見えない。


 祖母がぽつりと言った。


「迷うのはね、ちゃんと見てる証拠」


 母は眉を上げる。反論しそうになって、飲み込んで、笑った。


「……おばあちゃんがそういうこと言うから、佐和がのんびりする」


「のんびりは、悪いことじゃないよ」


 祖母は雛あられを一粒噛んだ。小さな音が響く。私はその音を聞いて、なぜだか泣きそうになった。家の音は、心の奥に触る。


 食後、母は皿を洗い、祖母は居間の雛飾りを見に行った。私が手伝おうとすると、母は「いいから座って」と言った。母の「いいから」は優しさでもあり、壁でもある。私は結局、居間に行く。


 雛飾りの前に祖母が座っていた。緋毛氈の赤は夜の照明の下で少し暗く見える。その暗さが、静かで好きだと思った。


「きれいだね」


 私が言うと、祖母は頷く。


「きれいって、整ってるってことじゃないよ。見て、落ち着くってこと」


 落ち着く。雛人形の顔を見る。確かに落ち着く。小さな目線が、私の慌てた目を静かにしていく。


 そのとき、母が換気のために窓を少し開けた。春の手前の風が、すっと入ってくる。冷たい。でも冬の冷たさとは違う。どこかに柔らかさが混ざっている。


 風はまずカーテンを揺らし、次に緋毛氈の端を持ち上げた。


 赤い布が、ふわっと波打った。


 畳の上に、赤い海ができる。そこを風が渡る。赤い海は、怒らずに揺れた。風を拒まない。


 その瞬間、段の下に置いていた小さな道具がころりと転がった。木の床を転がる音がして、私は反射的に立ち上がる。


「ごめん、窓閉める!」


 風は悪さをするものだ。体の方が先にそう判断した。


 祖母が、すっと手を伸ばした。細い指が、転がる道具をぎりぎりで止める。指先の動きが驚くほど速い。


「閉めなくていい」


 祖母は静かに言った。


「風が通るのは、悪いことじゃない。ほら、赤も怒ってない」


 赤も怒ってない。

 私は緋毛氈を見る。波はもう収まっている。風が渡っても、赤は赤のままだ。


 母が窓のそばで立ち止まった。閉めるか迷っている顔。母は風を嫌う。風邪を引く、埃が入る、洗濯物が。理由は全部生活の都合だ。母の暮らしは、風を入れない工夫でできている。


 祖母が母に言った。


「美里、少しだけでいい。風が入ると、家も息する」


 母は小さく息を吐いた。窓は指二本分ほど開いたままになった。風は遠慮がちに居間を通っていく。


 祖母は止めた道具を元の場所に戻した。置き方が丁寧だ。


 私はふと、緋毛氈の端を見た。小さなほつれが毛羽立っている。祖母はそれを見つけると、指で軽く撫でた。撫でるだけで直るわけじゃないのに。撫でることに意味があるみたいに。


「それ、ほつれてる」


 私が言うと、祖母は頷いた。


「うん。ずっと前からね」


 祖母はほつれを少しつまんで、また撫でた。


「これ、買ったんじゃないんだよ」


「え?」


「この赤はね、着物の端切れ。古いの。誰かの、赤」


 誰かの赤。祖母の言葉は説明じゃなくて、匂いみたいに部屋に広がった。


「美里がね、若いころに家を出るって言った夜があった」


 母が居間の入口で止まった。皿を拭く布巾を手に持ったまま、動かない。


「おばあちゃん、今それ言う?」


 母の声は笑っているのに、少し尖っている。


 祖母は母を見上げた。怒らない。昔の話を昔の話として置ける目だ。


「言っていいよ。風が通ったから。風が通ると、古い話も動く」


 祖母は緋毛氈のほつれを指でなぞった。


「家を出るって言った美里は、泣いてないふりしてた。泣いてるのに、泣いてない顔」


 母の唇が、きゅっと結ばれた。私の知らない母がそこに立っている。


「私はね、止めなかった。止めたら余計に走るから。だから、縫った」


「縫った?」


「端切れを集めて、赤い布にした。緋毛氈って言うんだって、そのとき初めて知った。赤い床を作るとね、不思議と人は座る。落ち着く。そこに戻ってくる」


 母が小さく笑った。苦い。


「私は、あのとき、ちゃんとできなかったから」


 母の声が少し震えた。母が震えるところを、私はあまり見たことがない。


「だから佐和には、ちゃんとって思ってた。早めに決めろとか、迷うなとか……自分が言われたかっただけかも」


 母はそう言って、布巾を握り直した。指先が白くなる。


 祖母は母の手を見て、そっと言った。


「ちゃんとはね、形じゃない。戻ってこれる場所があることだよ」


 戻ってこれる場所。

 私は緋毛氈の赤を見る。赤い床。戻ってくる場所。赤は派手な色じゃない。ここに座っていい、と言う色だ。


 胸の奥が熱くなって、泣きたくなくて、私は雛人形に視線を逃がした。雛人形はいつも通り落ち着いている。泣いてもいいし、泣かなくてもいい。どっちでもいい、と言っているみたいな顔。


 その夜、祖母は早く寝た。母も明日の準備で部屋に引っ込んだ。家の音が少なくなって、居間の灯りだけが小さく残った。


 私は雛飾りの前に座った。緋毛氈の上に膝を折ると、布の毛が足に当たって少しくすぐったい。赤の上に座ると、体の重さがちゃんと床に渡る気がする。浮いていたものが、下りてくる。


 窓は指二本分だけ開いたまま。風はちゃんと通る。冷たい。けれど、冷たさが優しい。背中を押す前の、手のひらみたいな冷たさ。


 スマホのメモを開いた。いつもならタスクを書く場所だ。締切、提出、シフト。今日は違うことを書く。


 祖母の指先。母の背中。赤い布の波。

 正しい並べ方より、誰の手で並べられたか。


 ……綺麗ごとにしようと思えばいくらでもできる。私はそういう自分が嫌だ。だから短く書いた。


『来年も同じ形じゃなくていい。赤を出したくなるように、生きる』


 書き終えたら、少しだけ肩が軽くなった。形じゃない。手つき。


 ふと、緋毛氈のほつれが目に入る。祖母が撫でた場所。私はそこに指を当てた。毛羽立った糸が指先に引っかかる。ほんの少しの抵抗。それが、ここにある、の証拠みたいだった。


 私は立ち上がって裁縫箱を探した。母の棚にある古い箱。糸の色を見て、赤い糸を選ぶ。緋毛氈とまったく同じ赤はない。でも近い赤ならある。


 針に糸を通して、ほつれの端を少しだけ留めた。縫い方は雑だ。祖母みたいに綺麗にできない。けれど、今日の手つきは今日しか出ない。


 縫い終わると、糸が少し余った。私はその糸を小さく結び、指に巻いた。赤い糸が関節に沿って細い輪になる。


 指輪みたいで、でも立派じゃない。しおりみたいな、ただの目印。


 私は鞄の取っ手に、その赤い糸を結びつけた。小さな結び目。風が吹けば揺れる。揺れても切れない程度の、頼りない赤。


 窓から入ってきた風が、その糸を少し揺らした。緋毛氈の赤を渡ってきた風が、今度は私の鞄の赤を撫でていく。


 翌朝、駅のホームは昨日と同じように寒かった。けれど、昨日より風の音がよく聞こえた。鞄の赤い糸が小さく踊る。私はその揺れを直さなかった。


 母は改札の前で、いつものように手早く言う。


「体に気をつけて。無理しないで」


 それから少し間が空いた。母の目が泳いで、言葉がどこに置けばいいか迷っている。


「……迷ってもいいけど、戻ってこいよ」


 最後の一言が、母の口からこぼれたみたいに落ちた。私は頷く。


 祖母は少し離れたところで手を振っている。桃の枝は持ってこなかったけれど、祖母の指先が桃の蕾みたいに見えた。


「行ってきます」


 言葉にすると音になる。音になると、少しだけ現実になる。


 電車が入ってくる。風がホームを走る。

 私は一歩踏み出して、赤い糸の揺れを感じた。


 緋毛氈を渡った風は、今日もまた、どこかへ渡っていく。

 今度は、私のほうへ。

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。


ひな祭りは、飾り方の順番も、道具の名前も、きっと“正しさ”がたくさんある行事です。けれど本当に残るのは、手を伸ばした記憶や、家の中を通り抜けた空気みたいなものなのかもしれません。

忙しい日々の中で、季節の行事は「できる/できない」で数えられがちです。それでも、ほんの少しだけ風を通すように、ほんの少しだけ“赤い場所”を思い出せたら。


あなたの帰る場所が、形ではなく手つきとして、いつでもそばにありますように。

そして、迷いがあなたを遅らせるのではなく、あなたを丁寧にするものでありますように。

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