家庭環境がよろしくないので出ていきパン屋を開くと魔法使いの夫が重い過去を引きずりながら探し出してきたのでやれやれとパンを捏ねさせて馬車馬みたいに働かせることにしたら子供が大喜びで大円満
「メェミン、夕食の準備はできたか?」
冷たく響く声に、手を止めた。振り返ると、夫であるコンコラ公爵が、無表情に見下ろしていた。ゾッとする。
前世では営業者として名を馳せていたのに気がつけば、公爵令嬢メェミンとして転生し、王都でも名高い氷の公爵、コンコラ・ハーファンサに嫁いでいた。
政略結婚は承知の上だったが、結婚生活は想像を絶する冷たさで、コンコラは人形のように扱う。
着飾らせ、社交界に連れ出し、完璧な妻として振る舞うことを要求するが、そこには一切の愛情も人間的な温かさもなかった。
「もうすぐできます」
答えて、再び料理に手を戻した生活にも、慣れたつもりだったが、一つだけ心を揺さぶる存在、たった一人の息子、ダージュン。
透き通るような白い肌とコンコラと同じプラチナブロンドの髪を持つ、愛らしい赤ん坊のダージュンを産んでからの心は、愛情で満たされていった。
しかし、コンコラは、ダージュンにも無関心で、泣いても笑っても、無表情にそれを見ているだけ。自分の、血を分けた子供ではないかのように。
「私……こんな生活、もう耐えられない……」
ダージュンを抱きしめながら、静かに涙を流し、このままでは、この子まで冷たい公爵家によって蝕まれてしまう。それは、絶対にいけない。
なにがなんでも暖かな家庭で、過ごさせたいと前世で培った、どんな困難も乗り越えるという、不屈の闘志を呼び覚ました。
弱々しい令嬢でも、か弱いヒロインでもない自分は、メェミン・リンウッド。逃げよう、冷たい檻から。秘密裏に脱出計画を立て始めた。
「これは?」
ダージュンが眠った後、荷物をまとめていると、ダージュンの乳母であるベティに声をかけられた。ベティは公爵家で唯一、心を開ける存在。
「ベティ……この家を出る」
ベティは驚きに目を見開いた。
「な、どうしてです!?まさか、公爵様が……!」
「違う。私が、自分の意志で、ダージュンを連れて家を出る」
自分の計画をベティに打ち明けた。脱出に必要なのは、お金と身分を隠すための場所。
「私が、必ずお守りいたします!」
ベティは決意を知ると協力を申し出てくれた。公爵家の使用人たちが、皆眠りについた嵐の夜を決行の日と定め、ダージュンをしっかりと抱きかかえ隠し持っていた金を懐に忍ばせる。
ベティは逃げた後、公爵に気づかれないように、時間を稼ぐ手はずになっていた。
「では、これで……」
ベティに深く頭を下げた。
「お幸せに……!」
ベティの言葉に、涙を堪え、裏口から公爵家を抜け出した。雨は激しく、雷が空に轟く中でダージュンを雨から守るように、しっかりと抱きしめた。
「大丈夫よ、ダージュン。もうすぐ、自由になれるから……」
ダージュンは、すやすやと眠っていた。公爵の追手を避けるように、馬車を乗り継ぎ、王都から遠く離れた、小さな港町へとたどり着く。すでにプランは考えている。
「いらっしゃいませ!」
小さな港町の一角で、パン屋を営んで、転生前の知識を活かし、ふんわりとした柔らかいパンを焼く。パンは、瞬く間にこの町で評判になり、ダージュンは、すくすくと育ち、今では町の人々から「パン屋のお姫様」と呼ばれるほど、皆に愛されている。
人生は、もう公爵家の冷たい檻の中にはない。頑張るのだ。自分の手で稼いだお金で、ダージュンと二人、ささやかながらも幸せな生活を送っていたが、いつかコンコラが見つけ出すのではないか、という不安を拭い去ることができずにいた。パン屋の扉が、ゆっくりと開く。
「いらっしゃい……」
言葉を失った。そこに立っていたのは、数年ぶりに見るコンコラ。以前と変わらぬ、冷たい表情で見つめていた。
「メェミン……」
コンコラは名を呼んだ。来たかと、反射的にダージュンを庇うように、前に出た。
「何の御用でしょうか、公爵様」
コンコラは、少しだけ表情を歪ませた。
「なぜ……私に何も告げずに、いなくなった?」
詰め寄ってきた。
「私の人生に、あなたからの愛情は、一片もありませんでした。ダージュンの人生を、あなたのような冷たい檻の中に閉じ込めておくことなど、私にはできませんでした」
今まで溜め込んできた全ての感情をぶつけたので、彼は聞くと静かに苦しそうに目を閉じた。
「そうか……」
呟くと懐から、一枚の古い手紙を取り出した。
「お前は、この手紙を読んだことがあるか?」
手紙には、こう書かれていた。
「愛する我が子と私の妻を守るために、心を閉ざす」
手紙の最後には最強の魔術師と署名されていた。
「私の母は魔術師だった。彼女の力は周囲の人間を巻き込み、多くの悲劇を生んだ。父は母の死後、私に魔術師として生きていくのならば心を閉ざし、誰とも深く関わらないようにと教え込んだ」
震える手でこちらへ触れようとした。
「……お前とダージュンを、愛することが怖かったのだ。もし心を許せば魔力が暴走し、お前たちを」
胸が締め付けられる思いがした。
「なんて、こと」
妻やダージュンを愛していなかったのではない、愛しすぎて、傷つけることを恐れていたのだと手にそっと自分の手を重ねた。
「大丈夫です、公爵様。あなたのような、弱虫な魔術師とは違いますから」
微笑んだ。前世の記憶には、転生前の体にあった、不思議な魔法の知識が残っている。
「一緒に笑顔で満たしましょう」
コンコラは、初めて本当に心から、笑った。氷のように冷たかった心を、温かく溶かしていく。
「公爵様、魔力は人を傷つけるためにあるのではありません」
コンコラの冷たい手を握り、静かに言った。魔力を制御し癒すためのものに戸惑っていた彼は、ずっと魔力を危険なものだと教え込まれてきたのだ。
「そんな……可能なのか……?」
「もちろんです。私のパンが、なぜこれほどまでに評判になったと思いますか?」
目の前で、一つのパン生地を取り出した。
「パンに幸せの魔法を込めます。このパンを食べた人が、少しでも笑顔になれますように、と」
パン生地にそっと触れると、生地は温かい光を放ちふわりと膨らんだ。
「これは……」
息をのんだ。
「魔力は、人を傷つけるためではなく私たちを幸せにするためにあるのです」
コンコラに、魔力を制御する方法を教え始めた。複雑な魔法陣や呪文ではなく、愛する人を想うことに最初は戸惑っていたが。ダージュンや妻を想うことで、少しずつ、魔力を制御できるようになっていく。
魔力はパン生地に温かさを与え、よりふんわりと柔らかく焼き上げた。ダージュンが転んで泣いた時には、彼の小さな傷を癒し、たちまち笑顔に変える。
コンコラはパン職人としてパン屋を手伝う、冷たかった手がパン生地を捏ねるたびに温かく優しくなっていくのがわかった。
「お父様、すごい!」
ダージュンはコンコラが作ったパンを頬張りながら、目を輝かせるとコンコラは照れくさそうに、心から嬉しそうにダージュンの頭を撫でる。
「ダージュン……」
瞳には冷たさはなく、愛と優しさだけが宿り三人でささやかながらも幸せな日々を送っていた。
「お父様、もうすぐ誕生日!」
ある朝、ダージュンは、嬉しそうにアレスに言った。
「そうか……もうそんな時期か」
コンコラは少し寂しそうな顔をした。
「どうしたのですか?」
尋ねるとコンコラは静かに告げる。
「誕生日には、必ず、父から手紙が届く。だが……父に会うのが、怖いのだ」
父であるハーファンサ公爵は息子に魔術師としての生き方を厳しく教え込んだ、厳格な人物。原因だ。
「公爵様……」
手を握った。
「もう、何も恐れることはありません。私たちには、帰る場所があるのですから」
パン屋の看板を指差した。
『パンと魔法のパン屋』
コンコラのために、新しく作った看板。
「私たちは、もう一人ではありません。あなたを、愛する家族がいます」
力強く頷いた日の午後、パン屋の扉が、ゆっくりと開いた先に立っていたのはコンコラの父、ハーファンサ公爵だった。息子と見知らぬ女、孫の姿を見て言葉を失う。
「コンコラ……なぜ、お前が、こんな場所で……」
コンコラは、父親に全てを話した。自分が、愛する人を傷つけることを恐れて心を閉ざしていたこと、妻とダージュンが自分の心を温かく溶かしてくれたことを。
「父上……もう、一人ではありません」
妻の肩を抱き寄せたところを見たハーファンサ公爵はじっと見つめ、目から一筋の涙がこぼれ落ちる。
「そうか……お前は、本当に……幸せになったのだな」
公爵は心から嬉しそうに微笑んだ。厳格だった表情は安堵で満ち、パン屋のカウンターに座り、焼いたパンを一口食べた。
「美味い……!コンコラ、お前は……こんなにも温かいパンを焼くことができるようになったのか……!」
ハーファンサ公爵は、涙を流しながら、パンを頬張った。息子が、心を閉ざすことによって、自分と同じ道を歩んでいくのをずっと心配していたのだろうか。
「父上……」
父親の姿を見て胸がいっぱいになったようで、感極まった声音が店内に響く。
ハーファンサ公爵が帰った後、パン屋は以前にも増して賑やかになった。公爵は息子が営むパン屋を大々的に宣伝し連日、王都から多くの客が訪れるようになったが、コンコラと変わらぬ穏やかな日々を過ごしている。
「お母様、この絵、見てください!」
午後になるとダージュンが、一本の鉛筆で描いた、モノクロの絵を見せてくれた。パン屋の絵だ。
「すごいわ、ダージュン。とても上手」
ダージュンの頭を優しく撫でた。
「でも……もっと、色があったらいいのに」
ダージュンは寂しそうに言った言葉に、胸が締め付けられる。
「そうね……色、ね?」
コンコラに、色鉛筆を作ってほしいと頼んだ。
「色鉛筆……?」
男は不思議そうな顔をした。当然なことにまだ、色鉛筆というものはないから。
「はい。木を削って、色をつけた芯を入れるんです」
色鉛筆の作り方を教えると、真剣な表情で聞くと男は書斎に籠り、何やら作業を始めた。使うのは、魔法の力で木を削る道具、木を削り、細い棒状に整えていくと最も重要な色の魔法に取り掛かった。
「お父様、今度は、どんな魔法をかけるの?」
ダージュンが興味津々に尋ねる。
「これは……希望の魔法だ」
一本の棒にそっと触れ、魔力が棒に伝わっていくと棒は鮮やかな緑色に輝きみるみるうちに、美しい緑色の芯に変わった。
「わあ……!」
ダージュンは光景に目を輝かせた。赤、青、黄色、橙、紫と、次々に色をつけて、それぞれの色には、コンコラの想いが込められていく。
「赤は、愛の魔法だ。青は安らぎの魔法。黄色は喜びの魔法となる」
色鉛筆に家族の物語を込めていった。
「お母様、見て!」
翌朝、ダージュンはコンコラが作った、七色の色鉛筆を手に駆け寄ってきた。
「なんて美しいの」
色鉛筆に感動のあまり言葉を失った。七色の魔法を使って、再びパン屋の絵を描く。
今度はモノクロではなく赤く塗られた屋根、緑色の木々、青い空、黄色い太陽と、家族の幸せな日々をそのまま映し出したかのよう。
「お父様、ありがとう!」
ダージュンは抱きつき、心からの感謝を伝えると夫はギュウッと抱きしめ返す。静かに微笑む笑顔には、冷さはもうない。
親子の周りには七色の魔法のように、優しい色が描かれていた。
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