壊された緊張
彼の言葉を信じた私は、私自身の希望と彼への憧憬から勉強により励んだ。
結果として二月の模試ではA判定を取った。
その後も、模試の結果に驕ることなく勉学に努めた。
入試当日。
その日は鉛色の雲が空を覆って、早春の冷気を閉じ込めていた。私はそんな中、父の運転するソリオに乗り、最後の悪あがきとして英単語帳を見ていた。黒のダウンジャケットを着た父は運転しながら、ときおり暖かい視線を私に向けてくれた。それは緊張していた私の心を幾らかやわらげた。
高校付近の駐車場で私は下車し、「送ろうか?」という父の優しい言葉を受取りながら、「いいや、一人で行くよ」と返した。
父は「頑張れよ」と、はにかみ交じりに言い、私の背中を硬い掌で撫で、私と別れた。背中に感じたそれは、私の手に似ているような気がした。
私は受験生と関係者で賑わっている校門を抜け、校舎に入り、案内に従って受験会場である教室に向かった。
微かに黒ずんだ白い壁、机の足が擦れた跡が残るリノリウム張りの床、窮屈に並べられた四十席。効きすぎている暖房と体温による熱気。
受験生たちの緊張に満ちる教室に入った瞬間、私のそれも最高潮に達した。スタメンで出る試合より緊張することはないだろうと考えていたが、試験はその緊張をいともたやすく超えてきた。
緊張は私の喉から水分を奪い、席に着いた私の脚を震わせた。
私はそこから目を逸らそうと、一番苦手であった地理の問題集を鞄から引っ張り出した。地図記号、気候区分、民俗風習、平易な解説文と世界各国の写真、それらは印象に残りはしたものの頭に入ってこなかった。私の思考は秩序を失い、錯乱状態に陥っていた。
机に置いた腕時計の長針が動くごとに緊張は密度を増した。
試験開始まで残り八分。
静かな教室には、資料集や問題集のページを捲る音と紙の上でシャーペンが滑る音だけがあった。受験という場において構築された独自の空間は、強固であり、より私を圧迫した。
内的な要因で作り出された空間は、内部からの力には堅牢性を持つものの、外部からの力には脆弱であった。
教室後方の扉は勢いよく開けられた。「はあはあ」と息を切らした一人の受験生がよろよろと入ってきたのだ。教室中の注目はその生徒に集まり、私も例外なくそちらに視線を向けた。
そこには、河野大介がいた。
彼はよろよろとした足取りで、自分にあてがわれた席にドカッと座り、握りしめていた受験票を机上に転がした。クシャクシャになったそれを広げた彼は、ポケットに突っ込んでいたシャーペンと消しゴムを机にたたきつけた。
硬い物の衝突する荒々しい音が教室に響いた。それは私たちの間にあった静寂という秩序を崩壊させた。
周囲の重圧に支配され、混沌とした思考のうちにあった私は、傍若無人な態度を示す彼に口角を上げた。
愉快だったわけではない。
天才が天才らしい態度を取っている状況が、受験などは日常の線上にある一つの障害でしかないことを認識させ、これを介して彼との中学校生活を思い出しただけである。
思い出の中に刻まれた彼の言葉は緊張を霧散させた。模試の結果や父の激励よりも、天才がかけてくれた言葉の方が私に自信を与えてくれたのだ。
教室の均衡が崩れてから間もなく、男性教諭の試験監督が入室してきた。坊主頭の中年は試験説明を簡単にすると、国語の試験問題を配布した。
前の席の女子から問題冊子をもらった時、混沌としていた私の思考は整理されていた。