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青春讃歌  作者: 鍋谷葵
12/20

崩壊

 高校生活は順調に進んだ。


 勉強の方は中学と比にならないほど難しく、課題も途轍もない量が出されたが、それでも何とか食らいついた(成績が良かったわけではない。学年中位が関の山だった)。


 部活は小学校から続けていたサッカーではなく、陸上部に入って中距離を走ることにした。陸上部を選んだ理由は運動部の中でも比較的規則が緩く、初日に仲良くなった彼ら(山田と谷口という)が入部するためだった。


 他方、彼の高校生活は順調な歩みとは言い難かった。


 高校初日、彼は軽音楽部の部活動見学に行っていたらしい。


 自己紹介で「音楽をよく聴きます」と言っていたため、一般的に見て社交的でなかったとしても彼がそこに伺うことは何ら不思議ではなく、他のクラスメイトもその言動に納得していた。


 ただ、彼の異常なこだわりが形成された合意を破綻させた。


 あの日、軽音楽部の活動教室である音楽室では、コピーバンドのミニライブが実施されていた。彼を除く新入生たちは先輩のギター、ベース、ドラム、ヴォーカルの煌びやかな姿に目を輝かせていたのだろうと思う。ところが、彼は演奏とその選曲に不満げな態度を示していた。ステージから離れた場所で腕を組んで立ち、眉間に深い皺を作っていた。


 演奏が終わったあと、新入生は壇上に黄色い歓声を送る一方、彼は沈黙を保った。


 観客が盛り上がっている中、たった一人で不満を示す新入生は先輩たちの注目を否が応でも集めた。そこでバンドメンバーの中でもとりわけ社交的で、顔の良い柿谷という先輩がステージを離れて彼に声をかけた。


「なんか、良くないとこあった?」


 汗ばんだ額に長い髪の毛がぺたりと貼り付いた先輩は、対外的な微笑を浮かべていた。それは自分たちの演奏技術向上のためであり、後輩とのコミュニケーションのためだったのだろう。


「いや、べつに、特に何でもないです」


 煌びやかな先輩の態度に、彼は口籠りながら彼なりの社交的な返答をした。


「遠慮しなくていいんだよ」


 おずおずとした彼の態度から、本音を隠していることがうかがえた。


「いや、本当になんでもないんです」

「そういう態度を取られるとより気になっちゃうよ」


 先輩は冗談交じりに彼の脇腹を肘で突いた。

「ほら、言ってみ」


 歯を見せてニカッと笑う先輩の顔は、丹精な顔立ちも相まって良い絵になっていたのだろう。


「ダサかったです」


 彼の本音を耳にしたとき、先輩の表情は漂白された。


「演奏は上手でした。ドラムが少し走ってるところもありましたけど、それでも聴ける演奏でした。だけれど、ミセスとか、サウシーとか、選曲がダサいです。こだわりも何もない感じがして不快でした」


 先輩の目を真っすぐと捉えながら彼は本音を吐き出した。


「ダサいって……」

「あと、そんな曲を得意げに弾いているのが気持ち悪かったです」


 歯に衣着せぬ物言いは、先輩からその矜持を奪い取った。すなわち未熟な年長者としての理性を。


「お前さあ!」


 先輩は彼の胸倉を掴むと、周囲から認識されている自己像を壊さない程度の怒りを示した。意図を問わず人の注目を集める先輩と彼とのやり取りは、音楽室に居た全員がその始終を見聞きしていた。


 彼のもとには、その言動を奇怪に思う視線と彼を排除するため斥力の視線が注がれた。彼はそのことに気付いたのか、あるいは自分より体が丈夫で背丈の高い先輩が示す恐怖から逃げるためか、「すいません。失礼しました」と言い、先輩の手から逃れて退室した。


 このことは『ある状態』が定着した後、彼とともにミニライブを見ていたクラスメイトから伝え聞いたことでしかなかった。もっとも、彼が『問題児』として周知されていることから、脚色が幾らか含まれていたとしても輪郭としてそれが事実であると私は認めなければならなかった。


 彼は音楽室での一件から悪目立ちした。


 そして、一回目の中間テスト以降、『純粋な問題児』という評判が定着した。


 彼の授業態度は授業開始日から、長い付き合いがある私から見ても好ましいものではなかった。体育以外の授業の大半を寝て過ごし、目が覚めているときは貧乏揺すりをするか、スマホを弄るか、あるいは授業に関係ない音楽関係の雑誌を読んで過ごしていた。さらに課題の提出は稀に(中学時代も課題を出さなかったが、その頻度はより悪化した)なり、仮に提出したとしても数や文字が雑で読めなかった。


 当然、教師は彼の授業態度を何度も注意し、定年間際の男性教諭などは怒号を浴びせることもあった。その度にクラスの注目は彼に集まり、中学から変わらない反抗的な態度には畏敬が注がれた。


 恐れと敬いは、それを抱かせる対象が不明瞭であるからこそ人の心に発生する。したがって、表面的であっても素性が明らかになり、そこに何らかの欠点があった場合、人はその情を失って魅力を覚えなくなる。


 この理は彼にも当てはまった。


 高校一年のゴールデンウィーク明け、中間テストが実施された。それなりに勉強をしていた私でも、全く歯が立たない問題(特に数学A)がいくつか出題され、試験終了後には「こんなの誰も解けないでしょ」と言う山田とともに溜息を吐いた。


「あいつ解かせる気なんて初めからなかったぜ」と、山田に返しつつ、私の視線は机に突っ伏していた彼に向いていた。優れた頭脳を持つ彼であれば、私たちが解くことを諦めた問題も解けているだろうという期待をもって。


 中間テストから二週間後テスト返却が終わり、その日の昼休み、廊下には学年順位と合計点数が張り出された。他クラスの生徒もその前に大勢詰め寄せ、教室前の廊下は人で溢れかえっていた。


 彼らと変わらず、山田と谷口を連れて廊下に出た私は「よっし、公彦より一個上だ!」という山田の声で自分の順位を知った。暑苦しい坊主頭は思いのほか勉強ができたのだ。


「谷口はどうだった?」

「お前より、山田より上さ」


 谷口はさらさらとした黒髪を撫でながら得意げに、自身の名前を指示した。


 自身の出来を自慢する友人に、「ちぇ」と文句が圧縮された一言を山田は吐き捨てた。


 二人の順位が私より高かった事実は微かな挫折を与えた。これと同時に友人らに向けた侮りと驕慢な態度が恥辱として返ってきた。


 痛みの伴う内省の中、私は「河野大介」の名を成績上位者の中から探そうと、視線を二人から逸らした。悪化した学習態度であったとしても、余裕をもって首席か次席を取っているだろうと私は予期していた。


 ところが成績上位者の欄に彼の名前はなかった。紙上に目を這わせても掲載されているのは他の生徒だった。


 私は「そんなことあってはならない」と焦燥を抱いた。心は内省から劇的な焦りによって塗り替えられた。視線は下へ下へと動き、ついには最下位付近の名簿にたどり着いた。


「河野って最下位なんだ」

「あの授業態度で最下位って」


 私の視線が留まった点に目を向けた二人は口々に彼を侮った。


「そういえば、公彦って河野と仲良かったよな」


 若干の嘲りが含まれた山田の声は私の背中を冷たくさせた。


「中学が一緒だからね」


 振り返ることなく発した私の声は微かに震えていた。


「中学の時もあんな感じだったのか?」


 谷口と山田の侮りに私は苛立ちを覚えた。彼の才能を知らない人間がどうして彼を評価できるのか。このとき理解できなかったのだ。


「大介は天才だよ」

「天才なのにこれって」


 山田は「ぷっ」と、わざとらしく笑って彼を揶揄った。谷口も同調するようにけらけらと笑った。


「井の中の蛙だったんだよ」

「広い世界を知らなかったわけだ」


 耳にするのも憚られる嘲り(それが男子高校生のふざけたノリだと理解していても)は耐えられなかった。


 私は「お昼を食べよう」と話題を無理やり変えようとした。意図が明確な言動は二人の胸中に内省をもたらした。それは私が抱いた恥じらいと同じものだろう。


 申し訳なさそうな顔をした山田は「そうだな」と一言、谷口もばつが悪そうな笑みを浮かべた。二つの同質な表情は私の苛立ちを鎮静化させた。

 後に残ったのは彼への困惑だけだった。


 順位表に掲載された数は、クラス内でうっすらと形成されていた階層の輪郭を明確にした。


 上層から明るく頭の良い者、明るいが頭が悪い者、中庸ですべてが凡な者、暗くて頭が良い者、暗い上に頭が悪い者。このような階層が出来上がり、クラスメイトは各々の階層に属する者とだけコミュニケーションを取るようになり、自分よりも下の階層を胸中で蔑むようになった。


 ただし、階層が設けられたとしてもクラスに軋轢が生じることはなかった。むしろ分断されたことで精神的加虐が抑制され、クラスにはまとまりが形成された。


「大介、お昼一緒に食べない?」


 梅雨の嫌な湿気が肌に纏わりつく昼休みの教室で、いつもと同じように机に突っ伏していた彼に話しかけた。机上に広がる伸ばしっぱなしの髪は、黒々としたモップのように見えた。


「食べねえよ。昼持ってきてないし」


 くぐもった彼の声が一塊の髪の隙間から聞こえてきた。その警戒心が多分に含まれた小さな声は、彼なりの配慮が込められているように思えた。


「購買で買えば良いじゃん」

「この間、ギター買ったから金がねえ」

「それなら奢るよ」


 彼はクラス内の均衡を保つためにあえて私を拒絶した。朝においては軽快な会話を交わして一緒に歩いていた彼が、学校では関係を破綻させる拒絶を抱いていたとは私には考え難かった。


「奢られるのは嫌いだ。それにこれ以上、変な噂を流されたくない」


 顔をあげた彼は平らな表情で私を見つめた。真っ黒なクマで縁取られた淀んだ双眸には、「かかわらないでくれ」と書いてあるようだった。


 疲れ切った彼の相貌に私はやるせなさを覚えた。同時に彼という天才を理解せず、純然たる問題児として腫物のように扱う彼らに憤懣を抱いた。

 だが、私の情などは欺瞞だった。


 私は彼らに流され、彼の要望にこたえる形で「わかったよ。それじゃ」と言って、山田と谷口が屯っている自席に戻った。


「これで何回目だ?」

「五回より多いのは間違いない」


 二人は私を揶揄って笑うと、今度はどこか批難の意図が含まれる視線を彼に向けた。それから突っ伏した彼に向け、「唯一の友達が誘ってるのに、断るなんてな。あれじゃ、ぼっちになっても仕方がねえ」と、山田がつぶやいた。


 私は山田の言葉に苛立ちを覚えながらも、心ではそれに安堵した。

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