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Pianist-Pianist

作者: ひかわ

クラシックピアニストと彼に憧れる無名ジャズピアニストの白雪姫系物語

テーマ:白雪姫


執筆期間:2023(二次創作として)

オリジナルに改変:2025(DYE3幻用として)

 冷たい小雨の降り始めた夕闇のニューヨーク、ダウンタウン。タクシーの後部座席にやや急ぎで乗り込んで扉を閉める直前、先程の自分を上回る急ぎ足で、薄紫のパーカー姿のまったく見知らぬ青年が頭から突っ込んできた。


「は!?」と、身なりの良いチェスターコートの寅海発つつみはじめは仰天したままどさっと背後に押し倒され、青年は腹ばいで上に乗りあがってきた。二人の目が合った。アジア系だ。悪びれもせず人懐こい顔でにこっと笑い、そのまま急いだ様子で寅海の体を自分ごと車へ押し込み、勢い良くばたんと扉を閉めた。

 寅海と同様にぽかんとしている若い黒人の運転手に言った。


「車出して! 早く! 早く!」


 運転手がハンドルを握り締め、慌ててルームミラー越しに寅海を見た。知り合いか? と声に出さず問われ、寅海はアイコンタクトで、まさか、と返した。

 強盗?

 分からん。

 えー? 逃げようかな。警察呼ぶ?

 お前、客を置いて行くなよ!

 この間一秒。だがその無言を許さず、青年は切羽詰まったようにガン! と運転席の背もたれを蹴った。


「早く出せって言ってんでしょ! 俺、追われてんのよ!」


 えー!? と縮み上がった運転手の目が泳ぎ声が震えた。


「どっ、どこへ、?」


 焦っていた青年がはっと我に返り、自分が押し倒している寅海を真顔で見た。


「おじさんはどこ行くの?」

「は?」


 彼は寅海の上からいそいそと下りてシートに座り直しながら、運転手に言った。


「このおじさんと同じとこ行って。早く」


 寅海は驚いた。


「おい、お前、」


 青年は寅海を無視し、運転手の背もたれに猛獣のように突然がっと取りついて、激しく揺さぶった。


「行けってばよ! ゴーゴーゴー!」


 運転手は怯えて肩をすくめた。


「ひええっ」


 車はその場から逃げ出すように走り出した。





2

 誰なんだよ! 


 と、余程言いたかったが、物盗りでないのは幸いだ。寅海自身も私用で急いでいたので不要な揉め事は避けたく、結局二人で黙って並んで車に揺られた。タクシーはカーネギーホール正面に停まった。支払いをしようとしたが、運転手は余程青年が怖かったようで、代金はいらないから早く降りろと懇願した。なので、止むを得ず名刺をもらって後日清算することにした。


 時刻は六時半。六時に戻る約束なのに遅刻した。マネージャーに絞られる。通りを行き交う傘の間を急ぎ足で抜け、腕時計を見ながら、正面玄関に掛かる自分のピアノコンサートの大きなポスターの前を通り過ぎた。関係者用の通用口へ向かった。


 すると一緒にタクシーを下りた青年が、とたとたっと調子の良い足取りで後をついてきた。


 寅海が通用口前で立ち止まって怪訝に振り返ると、息がかかるほどぴったりと近く、自分の目の下から子犬のような満面の笑みが見上げていた。


 明らかに一緒に建物に入る気だ。


「……物盗りじゃないはずだな?」


 青年は頷いた。


「うん。助かったよ。ありがと。ちょっとしつこい奴に追われててさ」


 寅海は改めて青年を見た。

 こんな寒い日にパーカー一枚でジーンズ。やや汚れたスニーカー。ティーンズに見えるが、物腰から見積もって二十歳そこらだ。細かな雨粒をさらりとつけた黒髪が夜景でキラキラと綺麗に光っていた。ただ、拾った場所がダウンタウンなので、ろくな手合いでないだろう。追われてるだって? もしかしてギャングや警官じゃないだろうな。

 しかし寅海はまたもぐっと不問にして、無表情で青年に頷いた。


「それは良かった。なら、もう行け」

「それがさー、今ほら、雨降ってるし。俺、見ての通り傘ないんだよね」

「カフェにでも行け」

「お金ないんだわー、がはは。ところでおじさん、お金持ちだよね!」


 寅海は嫌な予感がしてジト目になった。


「……いや貧乏人だ」

「さっきの表のポスターの人と顔が同じじゃん」

「他人の空似だ」

「ピアニストハジメツツミソロコンサートって書いてあった。すごいね、大ホールじゃん」

「お前、」


 これはたかられてるんだな!? 寅海が口を開きかけたところで、すると建物の中から鬼の形相のマネージャーが勢いよく飛び出してきた。


「ハジメ! もう! 開演前に何やってんの!」


 眞神冬子まがみとうこという名の若い女性だ。美人で仕事が出来るやり手だが、手厳しい。こっそり控室に戻って遅刻を誤魔化そうと考えていたのに、待ち伏せされてしまった。

 寅海は、あー怒られるー、こいつの説教は長ぇんだと渋面になった。

 諦観で目を閉じ、雨粒を受けて天を仰ぎながら眞神に言った。


「心配するな。開演は八時からだ」

「あと一時間半しかないんですけど!?」

「昼にリハーサルは済んでる」

「またそんなこと言って! このおっさんは!」


 すると、脇にいた青年が急に寅海へ身を寄せ、馴れ馴れしく腕を絡めてきた。


「おじさん、俺のせいで遅刻しちゃったんだね、ごめんなさい」


 眞神と共に、寅海がはあ? と青年を見ると、彼は急にしおらしい顔で眞神に懇願した。


「すみません。僕、さっき暴漢に襲われたんですけど、寅海さんが助けてくださって。そのせいで遅れちゃったんです。寅海さんを責めないであげてください」


 眞神が驚きながら寅海を見て、無言で、ほんと? と鋭い視線を送ってきた。

 呆れた寅海は腕にぶら下がっている青年を一瞥し、俺に飛びかかって来た暴漢はお前だと言いかけた。が、それで遅刻の言い訳が立つなら、ここは嘘も方便か。


「そうだ。……暴漢に、」


 すると眞神は焦った様子で、やおら寅海の腕を取って手を調べた。


「もう! 何考えてんの、手は? 怪我してない?」

「無事だ」

「頭と下半身はどうでもいいけど、顔と手は勘弁してよね、商売道具なんだから!」

「……」


 眞神は寅海が無傷なのを確認して胸を撫でおろし、気を取り直して優しく青年を見た。


「君、大変だったね。警察に通報するとか色々あるでしょうから、とりあえず中に入って」


 青年はぷるぷると弱々しく震えて頷いた。


「どうしよう、僕、まだ怖くて、」

「当然よね、中で少し休んだ方がいいわ。まずは控室に行きましょ?」


 青年は嬉しそうにした。


「ありがとうございます。助かります。何か温かいものを飲ませてもらえると嬉しいです」

「勿論よ」


 寅海は無表情で、あー、そういう、あー、そういう、と理解した。とんだ茶番だ。まあ眞神の説教を封じてくれたのだから、雨宿りくらいは許しても良いか。別に俺の家じゃないしな。

 何も知らない眞神は、さあこっちへどうぞと、寅海よりも先に青年を屋内へ招いた。


「この人は寅海発。ギャングのボスみたいな見た目だけど、世界的に有名なクラシックピアニストよ? これから彼のコンサートなの。私は眞神って名前で、彼の優秀な敏腕マネージャーよ? 君は?」

「僕のことはサヤトって呼んでください」


 年が近いせいか、二人が急に仲良くなって歩き出す。まあいい。一石二鳥で青年と眞神の厄介払いだ。後は勝手にやってくれ。寅海は小さく肩をすくめ、二人に続いて建物に入った。






3

「それで、何故まだここにいるんだ」


 控室に付属している簡易シャワー室で先にシャワーを浴びさせ、お茶一杯飲んだら後はどこへなり行くだろうと思っていた。


 だのに後続の寅海が体を温め髪を拭きながらバスルームから出ると、サヤトは素肌にバスローブを羽織っただらしのない格好でまだそこにいた。ホテルの個室のような大きな控室には寅海のために置かれた練習用のグランドピアノがあり、生乾きの髪の彼は素足にスリッパをつっかけ、我が家さながらの呑気な寛ぎ様で椅子に座っている。クラシックピアノなど縁がないような雰囲気なのに、カップでココアを啜りながら、無邪気で楽し気に今夜のコンサートのパンフレットをめくっていた。


 横顔のままにこやかに寅海に答えた。


「外まだ雨降ってるし、服も眞神さんがクリーニングに出してくれたんだよ。金魚みたいだからって。あの人すごく良い人だね。美人だしさー」

「……お前が生臭かったんだ。タクシーでもそうだった」


 サヤトはあっけらかんと笑った。


「えっ? そうなの? ごめんごめん。でも助かったよー。ありがとね」 


 クリーニングなら一時間弱か。開演前にはサヤトを追い出せるだろう。寅海は衣装掛けにぶら下げてある白いシャツと黒の細身のスラックスのセットを取って、サヤトにばさっと投げ与えた。


「見苦しいからそれを着てろ。服が戻ったら返せ」

「えっ? いいの? やったー! ちょっと寒かったんだよね」


 サヤトは立ち上がってその場で恥ずかしげもなくバスローブを落とし、素っ裸になった。いそいそとシャツを着て、ズボンをはいた。


「結構おっきいな? 足長ぁい。まあおじさんは背が高いからな。六フィート半くらい?」

「……下着はどうした」

「パンツもついでに洗濯中。もしかして貸してくれる?」

「冗談だろ。眞神はどこへ行った?」


 へへへ、彼シャツみたい、と言いながら、彼は余った袖をまくった。


「眞神さんはスタッフと一緒にステージの最終チェックに行った。ソロコンサートって言っても、準備って色々あるんだね」


 こいつの図々しさは何なんだ。初対面の男の前で裸になるなんて。しかも俺のズボンにフルチンで足を通しやがった。

 寅海はサヤトを忌々しく横目にしながら、ドレッサーの前で手早く髪を乾かした。


「俺は公演前だからお前の相手はしない。とにかく眞神が戻ったら、さっさと出ていけ。クリーニング代もダウンタウンまでのタクシー代も眞神が出す」

「えー、まじで! ありがとう」


 ダークスーツに合う漆黒のシャツを着る寅海を眺めながら、青年はまたストンとピアノの椅子に座った。


「白は着ないの? ポスターは白シャツだったじゃん」

「今お前が着てるだろ」

「俺、黒でもいいよ?」

「俺はお前が裸で袖を通したものを着たくねえ。それに黒の方が高級だ」

「ははは、ひっどい」


 まあでもさ、と彼はパンフレットを再び開いた。


「おじさんのイメージは黒で合ってるよ。プロフィールに通称が書いてある。東洋の黒曜石、ブラックタイガー。知的で華麗な演奏、その優美さとは裏腹のクラシックピアノ界屈指のたたき上げ武闘派」


 寅海は顔をしかめた。いつもパンフレットの内容は眞神に任せているが、後半、いつからそんなプロレスみたいなコピーになった? 今回はおとなしめのベートーヴェン、ハーシュ、ワーグナー、リストだぞ? 

 寅海は琥珀に金細工をほどこした上品なカフスを着けながらサヤトへ歩き、ピアノに腕でもたれながら怪訝にパンフレットをのぞき込んだ。


「たたき上げ武闘派なんて書いてねえだろ。どこのヤクザだ」


 サヤトは悪戯がばれてくすくす笑った。

 でもこれはほんとだよね、と略歴を指さした。


「施設育ちでピアノ始めたのが十三歳。これって完全に育ちが悪いしキャリアが遅すぎだ。クラシックのエリート達は親が音楽家ばっかで、衣食住困らずピアノやる環境も万全の上で二歳、三歳から音楽教えられてるじゃん。五歳、十歳でオーケストラとか賞とかさ。高層ビルのてっぺんで霞食ってるとか動物園で保護されてる特別天然記念物みたいな連中だ。それでもトップピアニストとして生き残るのはほんのわずかだよ」


 でも寅海さんは違うでしょ、と彼はこちらを見上げた。


「こんなイレギュラーなスタート切ったのに、二十代で世界的なピアノコンクールの賞を総なめにしてる。今年四十歳で完全に他の連中を追い抜いて、世界ランキング二十入りだ。今日だってカーネギーで約三千人の聴衆だよ。クラシック界のアウトローだよね」


 微笑んでパンフレットを続けて読んだ。


「今夜の演目もばりばりクラシックの並びにジャズのハーシュ入れてくる。センス良い。気難しいニューヨーカー達のこと、よく分かってる」


 寅海は少し黙った。


「……お前、分かるのか?」


 サヤトは小さく肩をすくめた。


「まあ、俺もちょっとだけ弾くんだよね」


 彼はピアノに向くと、鍵盤の表面を優しく撫で、おもむろにキーを押した。

 ジャズピアニスト、ビル・エヴァンス作曲の「ピース・ピース(Peace Piece)」が指先から流れ出した。

 ショパンの子守歌作品57やサティのジムノペディ第一番に似た静けさを持つ曲だ。技術的難易度は高くないが、じっくり聴かせる分、音の純度とテンポ、抑揚に誤魔化しが効かない。ピアニストの性格や特徴があらわれる。

 サヤトの音は一粒一粒に光を灯すような色があり、気が利いて、丁寧で、謙虚だった。今日のようなしっとりした小雨の夜、透き通った路上の水たまりがキラキラと町明かりを反射するようだ。深夜のバーや就寝前の自室で聴く者を癒しリラックスさせる。クラシックのように形式ばっておらず、優しく自由で、繊細なものだ。

 寅海は約七分弱の演奏に黙って聞き入った。控室の空気が静かに和らいだ気がした。

 演奏を終えたサヤトは呑気にこちらを見上げて微笑んだ。


「ジャズばっかだけどね。半年前までダウンタウンのバーとかラウンジに雇ってもらって弾いてた。大して稼ぎはなかったけど、楽しかったよ」

「過去形か」

「はは、なんか今はもう弾いてないんだ。色々あってさ」


 言いながら、今度は「ワルツ・フォー・デビー(Waltz for Debby)」の冒頭だけを軽やかに弾いてみせた。

 寅海は頷いた。


「良い腕だ」


 手近にあった椅子を引き寄せ、サヤトの前になんとなく座った。もともと他人に対する選り好みが激しく、公演前は特にピリピリするため一人で過ごすのを好んでいる。だが、今夜はサヤトのピアノで肩の力が抜けるのが分かった。


「基礎はどこで習った? クラシックは勉強したのか?」


 サヤトは肩をすくめた。


「まさか。俺、施設育ちで学校もまともに通ってない。ジャズは皿洗いしてたバーでオーナーに教えられて、ソロで好きに弾かせてもらってた。でもある時すんごい憧れのクラシックピアニストができてさ、結構本気になって、その人の演奏を耳コピで練習したんだ。俺ジャズプレイヤーだからクラシックなんて弾く機会ないけど、その人が出したCDの曲ほとんど弾けるよ」


「いつからだ?」

「十六」

「いまいくつだ」

「二十」


 寅海は少し驚いた。たった四年のキャリアにしては良く弾く。一種の才能だ。いまの演奏を聴いた限りでは、本人が言う通りクラシックもそれなりに弾けるのだろう。

 彼が言った通り、クラシックピアノ界は生まれながらに財力と環境が整ったエリート達が幅を利かせている。しかし市井にも稀に、そんなエリート達に渡り合える能力を持つ者がいる。寅海自身がその一人だ。お貴族様連中との付き合いは苦労するが、直接拳を使わずともピアノで相手を張り倒せる実力主義の世界は、良くも悪くも施設上がりの寅海の性に合っている。

 ただし。

 ふと青年が思い出したように、寅海を見上げた。


「そういえばさあ、ねえ、おじさんみたいな人が何でダウンタウンにいたの?」




4


 あのへんジャズの店ばっかだから観光客が結構出入りするけどさぁ? とサヤトは不思議そうにした。


「タクシー拾ったあたりって奥まってるし、気の利いた店があるわけでもないし、何より治安悪いんだよね。しかもおじさん公演前だったでしょ?」


 その時控室の扉がノックされ、スタッフの男性がトレイに乗せた軽食を運んできた。寅海用のルームサービスだ。取りに行こうとすると、サヤトが俺が受け取って来るよと先に立った。

 しかし戸口に行って皿の内容を見た彼は、スタッフと何事か歓談した後、トレイを受け取らず帰してしまった。

 寅海の元へ戻って言った。


「なんか、エメンタルチーズじゃなかったから、作り直してってお願いした。すぐ来るってさ」


 オレンジマーマレードとコールドチーズのサンドイッチは、寅海が公演前に必ずルーチンで食べる。ピアノ演奏というものは一見優雅だが、長時間集中力を途切れさせない気力と姿勢を維持する全身運動が必要で、寅海は貧乏時代からガソリン替わりにサンドイッチを水で流し込んで公演に赴く癖があった。チーズはエメンタルチーズと決めてある。

 だが、何故それをサヤトが知ってるのか?


「何故知ってる?」


 サヤトはへらっと頷いた。


「あー、えっと、眞神さんがそう言ってた」


 寅海への返事を流して、それより俺の質問だよ、と彼は言った。

 寅海は仕方なく肩をすくめた。隠すことでもない。


「人探しだ」


 サヤトが首を傾げる前で、寅海は続けた。


「芸術音楽は大衆音楽に比べて先細りだ。クラシックは実力主義な点は良いが、多くの人間がそれでは食えずにジャズやポップスに流れちまう。だが俺はクラシックを盛り立てたいし、そのためには新しいプレイヤーや聴衆が入って来やすい雰囲気を作る必要がある。だから、……」


「だから?」


 寅海は小さく肩をすくめた。


「生粋のジャズプレイヤーと共演したい。ジャズにクラシックを持ち込んでアレンジする連中じゃなく、クラシックをきっちり弾くことに興味のある奴を探してる。ジャンルの転向を求めてるわけじゃない。俺がそいつからジャズを、そいつが俺からクラシックを学んで互いの演奏の幅を広げる。ジャンルの壁を無くして、パートナーとしてクラシックとジャズを並んで演るコンサートをしたい」


 サヤトが驚いたように少し黙った。寅海は彼の言いたいことを分かっており、渋々頷いた。

 そもそもクラシックからジャズへ流れるのは容易だが、ジャズからクラシックへプレイヤーが流れることはほとんどない。問題の第一は基礎の難しさ、第二に市場の狭さ、第三にクラシック界、ジャズ界それぞれのコミュニティが持つ排他的な気質だ。

 寅海はこれまで何人か付き合いのあるジャズピアニスト達に声を掛けたが、皆それぞれの仕事に忙しく、新しくクラシックを学んだりクラシックに出戻りする興味を持っていない。それなりの地位をすでに確立しているのに、今更他ジャンルのコミュニティに参入して肩身の狭い思いをしたくないのだ。

 また彼らに敬遠されるもう一つの理由は、寅海がビッグネームになり過ぎていることだ。並んで演奏することに及び腰になるプレイヤーが多い。


「……構想は昔からあって、これまで何人かのピアニスト達と試した。だが俺を含めて気難しい連中ばかりだからな。仲たがいするわけじゃあないが、演奏のそりが合わなくて、形が決まる前に、パートナーを解消する羽目になる」


 だからいっそ、と続けた。


「地位や名誉にこだわらず、ピアノを純粋に楽しんでるジャズプレイヤーに声を掛けた方がいいかと思ってな。ツアー先の町々で、機会を見てジャズの店を覗いて回ってた」


 サヤトはまだ不思議そうに言った。


「だからって、あんな場末まで足を延ばさなくても」

「まあ聞け。理由はある」


 寅海は立ち上がり、ドレッサーへ行って自分のスマホを取って戻った。

 動画を開いてサヤトに見せた。

 どこかのバーで女性が撮影者に向かって楽し気に話している。寅海の知り合いの男性が恋人の女性と共にニューヨークへ観光に来て、ダウンタウンのバーを何軒か梯子した時のものだ。


「会話は聞かなくていい。背後に流れてるピアノを聴け」


 音量を上げた。

 雑然とした店の喧噪の奥にジャズピアノが流れている。曲はディズニー映画白雪姫の「いつか王子様が(Someday My Prince Will Come)」で、定番のジャズナンバーだ。だが通常のアレンジではない。さりげないクラシック演奏のテクニックがふんだんに盛り込まれている。


「客は気づかないだろうが、このジャズピアニストはクラシックを相当練習してる。聴いた印象だと独学だが、何より大事なことは、ジャズをやりながらクラシックを楽しんでるとこだ。良いフレーズを弾く」


 動画が終わったのでスマホを閉じた。


「こいつに会って話をしたい」


 サヤトはしばらくこちらを見て黙り、少し困った風に目を伏せた。


「……このピアニストを探してるんだ、?」


 寅海は頷いた。


「一年前の動画だ。知り合いは酔ってて、どこの店だったか全く覚えてねえ。だから俺自身が折りを見てはこの町に来て、動画の背景と演奏を頼りにして一軒一軒バーを当たってる。今回は公演日にぶつけて日程を立てて、」


 サヤトが静かに遮った。


「でもさ、見つかっても相性悪いかもよ? 演奏だって期待外れかも」


 寅海は肩をすくめた。


「性格はどうか知らんが、演奏の相性は絶対に良いはずだ。こいつは俺のことをよく知ってて、俺のピアノが好きだ」

「……なんでそう思うの?」


 寅海は自信を込めて言った。


「弾き方が俺のタッチと同じだ。俺の演奏を随分聴いてて、弾き癖を含めて手本にしてる証拠だ」


 サヤトはまた黙り、うつむいた。


「でも一年前ってさ、……その人もうピアノやめちゃってるかもしれないじゃん。場末のジャズピアニストなんて稼ぎが悪くて、バンドでも組まない限りソロでは続かないよ。で、調子に乗ってバンド組んでも、メンバーと折り合い悪かったらそこで終了。音楽に疲れちゃって、……ピアノ諦めて、逃げちゃってるかも」

「逃げる?」


 彼は頷いた。


「うん。……どんなに好きなことがあってもさ、……結局弱い人間は、誰かに押しやられたり理不尽な目に遭ったりすると、いつも逃げるばかりになっちゃうよ。だからその人ももう逃げちゃってて、見つからないかもしれない」


 寅海は不思議にした。


「何故そう思う? ジャズプレイヤーなのに独学でクラシックやるような忍耐強い奴だぞ。見つかるさ」

「なんで?」

「なんでってお前、」


 寅海は少し考えた。


「この広い世界でだ。ディズニープリンセスの曲を俺のタッチで弾いて、しかもその曲が俺本人の耳に入ってだな。その曲を追って俺がわざわざ探しに来てるんだぞ。この流れは絶対に出会う運命だろ」


 サヤトはそろそろと小さく目を上げた。


「運命、?」


 寅海は苦く肩をすくめた。


「勝手に馬鹿にしてろ。俺はそれなりにロマンチストで、こいつとピアノを弾きたいんだ」


 サヤトは苦笑した。


「寅海さんは、自惚れ屋だなあ」


 控室が再びノックされ、今度こそ注文通りのサンドイッチが来た。

 寅海は二つあるサンドイッチの一つに齧りつき、もう一つをサヤトにやった。


「ピアニストってのはそういうもんだ。欲しいものを見つけたら、ここぞという時にがっと掴みにいく執念深さがねえとな。他人の都合なぞ気にしてられるか」


 席を立ち、サヤトを脇に押しやって、ピアノの椅子に並んで座った。

 サンドイッチを口に収めながら鍵盤に軽く指を添え、「いつか王子様が」の冒頭を軽く弾いた。

 映画の中でプリンセスが歌う詞はこうだ。




  いつの日か 私の王子様と


  いつの日か また会える


  そして彼のお城へ行って


  いつまでも幸せに暮らすの




 適当なところで演奏を止め、隣のサヤトに言った。


「例えば、そいつが今の場所でピアノを弾けなくなってるなら、俺が攫って連れて行く。それで万事解決だ。違うか?」


 サヤトが躊躇いながら寅海に何か言おうと口を開いた時、眞神がサヤトの洗濯済の衣類を抱えて元気良く戻って来た。


「さあ、闘技場入りの時間よ。ハジメ。サヤトも着替えてね」


 サヤトは乾燥機でほかほかになったパーカーとジーンズに着替え、寅海は上着を羽織った。

 三人で控室を出て、会場スタッフ二人に案内されてコンサートホールのバックステージへ向かう。廊下の一部が表の廊下とつながっているので、大勢の来場客のさざめきが聞こえてきていた。

 ステージに上がる十分前だ。バックステージに入る扉を開き、その前で立ち止まって寅海はサヤトを見た。

 眞神がどこからか調達してきた傘をサヤトに渡した。


「サヤト、ここからは関係者以外入れないから、寅海とお別れよ。少しは休めた?」


 サヤトは頷いた。


「はい。ありがとうございます」

「開演までロビーで少し待っててくれる? 演奏が始まったら、私がロビーにあなたを迎えに行って、タクシーに乗せてあげる」

「あの、俺、一人で、帰れます。傘も、あるし」

「そう? でも、」


 眞神が言いかけた時、ふいに廊下の向こうから荒々しい口調の男の声が響いた。


「サヤト!」


 全員が驚いてそちらを見ると、明らかにコンサートの客ではない、乱暴で不穏な空気の大柄の白人男が、怒り狂った顔で立っていた。




5


 寅海の隣で、呆然とサヤトが呟いた。


「……ジェフ、」


 直感的にトラブルの匂いを嗅いだ眞神が、ちょっとあなた、と警戒して前に出た。

 しかしジェフと呼ばれた男は猛牛のような勢いで進み、目の前の眞神をはねよけようとした。寅海は咄嗟に眞神の腕を背後から掴んで彼女の体を自分の後ろへ回し、自分がジェフの前に無言で立った。

 似たような高身長の男同士が一切視線をそらさず、正面衝突するほどの距離でどんと向かい合った。


 サヤトが慌てた。


「ジェフ、ちょ、」


 ジェフはサヤトを無視し、突然立ちはだかった寅海をぎらぎらとした青い目で睨みつけた。


「なんだてめえ」


 寅海は淡々と言った。


「お前こそなんだ。ここは関係者以外立ち入り禁止だ」

「知ったことか。俺はこいつに用があるんだ」


 ジェフがサヤトを指さした。


「俺のピアノマンだ。ちょっかいかけるな」


 寅海は不機嫌に眉をひそめた。


「はあ? 知ったことか」


 サヤトが慌てて二人の間に割り込んだ。


「待てよ、ジェフ、この人、関係ないんだ」

「うるせえよ」

「大体あんた、なんでここが分かったんだよ、」

「お前が乗り込んだタクシーの番号を調べたんだ。ちょろちょろ逃げやがって」


 サヤトが困り果ててうろたえた。


「あんたが追い回すからだろ。俺は半年も前にバンドから抜けたじゃん。またソロでやろうとしてるのに、今日だってあんたが店に来て嫌がらせするから逃げたんだよ。あんた、ずっとそうだろ。俺、せっかく雇ってもらっても、どこの店でも、あんたのせいで続けられない、」

「俺のバンドに戻りゃあいいだろ」

「戻るわけないだろ」

「客と寝るくらいなんだってんだ。お前が大人しく股を開かねえから、太客を逃したんじゃねえか」


 侮辱されたサヤトが怒りと恥ずかしさでかっとした。


「んなことするか、馬鹿にすんな!」


 瞬間、ぱんっとジェフの平手がサヤトの頬に飛び、勢いで彼の体が脇の壁にぶつかった。

 ジェフは血走った目でよろけたサヤトの腕を乱暴に掴んだ。


「サヤト、許さねえぞ。お前は俺と付き合ってんだ。孤児で学もキャリアもねえくせに、ちょっとピアノ弾けるくらいで調子にのりやがって。黙って俺の言うこと聞いてりゃいいんだよ」

「うるせえよ! あんたなんかと付き合った覚えはねえよ! 知るかバカ! はな、せっ」


 サヤトは抗おうとしたが、いかんせん体格差があり過ぎる。壁にぶつけられた衝撃で目眩がしているのか、ジェフに引きずられ、足がもつれてふらりと床に倒れそうになった。

 しかしサヤトの体が完全にジェフに捕らわれる手前で、寅海は素早く手を出した。

 ジェフの腕をばっと掴んだ。もう片方の手でサヤトの体を掴み、二人をばっと力任せに引きはがす。ジェフを突き飛ばし、サヤトを自分の腕の中に手際良くくるりと収めた。

 抱き着かせて触れ合った体の向こうから、サヤトの早鐘のように怯えた鼓動が伝わった。寅海は彼をしっかりと支えて立たせ、冷たくジェフを見た。

 冷静さを保ってはいたが、自分の目が座り、こめかみにイライラと不機嫌な青筋が立っているのが分かった。

 子供時代から喧嘩っ早い癖がある。抑えろ、抑えろ。ぐっとしながら静かに低く言った。


「……俺は開演前で忙しい。結論を言うぞ」


 寅海はやおらサヤトの顎をがっと掴むと、体ごと持ち上げる勢いで彼の唇に自分の唇を重ねた。

 仰天してびくんと跳ね上がる彼の体を離さず、口を開けて貪った。ん! んー! と暴れる柔い唇と舌に噛みついて押さえ込み、自分の舌をねじ込んでよだれが溢れるほど弄ってやった。抵抗空しく、サヤトがやがて諦めて寅海を受け入れた。くちゅっと舌を絡め、間近で合わせた視線の奥に甘えたようなとろんと熱い色が浮く。腕の中で強張っていた体の力がゆるゆると抜けた。

 寅海がぷはっとサヤトから顔を離すと、二人の間に唾液の糸が垂れた。拭いもせずジェフを睨みつけながら、逆にこちらが完全な悪役顔になって、くったりしてるサヤトの頬をこれ見よがしにべろりと舐めてやった。


「こいつはもう俺のもんだ。今後手ぇ出したら、」


 言い終わらないうちに、頭の先まで真っ赤になったジェフが拳を上げて襲い掛かって来た。

 仏頂面の寅海はサヤトを背後の眞神へぽいっと放り投げ、軽くステップを踏んでジェフを迎えた。刹那、体重を乗せた渾身の拳をジェフの顔面にめり込ませた。

 ばきっと鼻がどうにかなる音が響いた。ジェフはぐりんと白目をむいて気を失い、そのまま背後にずしんと倒れた。

 周囲がしんとする中、寅海は仁王立ちになり、もう聞く耳を持っていないジェフを冷たく見下ろした。口の端から煙を吐くように言った。


「張り倒す。ピアニスト舐めんな」


 すると今度は緊迫した空気を破り、眞神が背後でひーん! と情けない声を上げた。


「ハジメ! 顔と手は商売道具だって言ってんだろぉ!?」


 彼女は寅海の腕に飛びついて慌てて拳を調べた。


「怪我してない!?」

「痛ぇよ」

「ほらー!」

「いやお前が掴んでるから痛ぇんだよ。大丈夫だ。警備員呼べ」

「もう呼んだわよ!」


 見るとスタッフの一人が助けを求めてすでにどこかへ消えていた。眞神はもう一人のスタッフに言った。


「ドクター呼んで! ハジメの手を調べて」


 その時、開演のブザーが鳴り響いた。

 寅海は頷き、淡々と言った。


「ステージに行くぞ」


 眞神が驚いた。


「馬鹿言わないで。大丈夫かどうか診てからよ」

「保険は入ってんだから心配するな」

「そういう問題じゃない。ハジメの手が故障したら人類が不幸になる!」


 眞神は鬼の勢いで寅海の口を黙らせてその場に引き留め、これからステージに行ってくると言った。


「ハジメ自身が司会やる予定だから、いまステージには誰もいないわ。観客が不安がる。開演が遅れるって私が説明してくる」


 寅海は仕方がなく渋々言った。


「わかった。だが司会くらいは自分でやる。十五分遅らせる。それよりお前はサヤトに、」


 ついていてやれ、と言いかけて周囲を見ると、サヤトの姿が忽然と消えていた。

 寅海と眞神はぽかんとした。


「……彼、怖くて逃げちゃった?」


 寅海は呆れたが、小さく肩をすくめた。


「かもな」


 追ってきたセクハラ男に乱暴され、別のセクハラ男に濃厚なキスをされたのだ。そりゃあ俺でも逃げ出したくなると思った。

 タクシーに夢中で飛び乗ってきた彼の様子を浮かべながら、寅海は共に過ごしたわずかの間で知った事柄をつなぎ合わせた。サヤトは自分と同じで施設上がりだ。十六でジャズピアノを始め、少し稼げるようになったところでバンドを組んだ。しかし理不尽な要求をされて半年前にバンドを抜け、以降はジェフに付きまとわれてピアノを弾けなくなってしまった。

 どんなに好きなことがあっても弱い人間は逃げるばかりになると言った、彼のうつむき顔を思う。自分も施設で育つ間、そう思う悔しいことが多々あった。ピアノを始めてからも、お貴族様達や下らない評論家に囲まれつつ何度もそう思ってきた。


(だがそれでも弾きたいなら、逃げちゃならんのだ)


 ジェフについては警察が入る。寅海の方に分があるのだから、弁護士を挟んで今後のサヤトを守ってやれるだろう。

 ただサヤト自身が再びピアノを弾きたいと思わなければ、せっかく弾ける環境が戻っても意味がない。


(お前、あんなに優しく綺麗な、クリアな音を出すのに)


 と、その時、会場の方からどこか戸惑ったようなまばらな拍手が聞こえた。次いで、遠くからピアノの音が流れ始めた。

 寅海と眞神は驚いて顔を見合わせた。

 曲は「いつか王子様が」だ。ジャズだが、寅海そっくりのクラシックの技巧をふんだんに使っている。まるで寅海が弾いているように一音一音の粒の美しく揃い、それでいてメロディーのタッチは寅海と違い、優しく語りかけるように甘く温かい。

 寅海は黙り込み、しばらく聞き惚れて目を細めた。

 なんだよ、と思った。


(……お前)


 動画の雑然とした録音など比べ物にならない。イメージしていた通り本物は凄い。学もキャリアも関係ない。このジャズピアニストは俺の遅刻をきっちり埋めて、観客達をしっかり惹きつける逸材だ、と思った。






 警備員と医者が同時に駆け付けてきたが、寅海は大丈夫だと医者の診療を断った。ジェフのことは眞神と警備員に任せた。場外乱闘のせいでやや乱れたシャツを正しながら、バックステージに入る。小さく深呼吸をして何事もなかったようにやや急いでステージへ向かう階段を上がる。

 普段はオーケストラが入るようなだだっ広いステージの上に、たった一台のグランドピアノがライトを浴びて煌びやかな宝石のように黒く輝いていた。

 その椅子に、どこから来たのか、パーカーにジーンズ姿のひょろりと若い「ジャズ」ピアニスト。そして彼と彼の演奏を見守る「クラシックを聴きに来た、クラシック好きの」三千人の観客。

 まるで殴り込みじゃねえかよ、と、寅海はぞくぞくして、無意識に右の口角が上がった。

 サヤトがちょうど弾き終えるタイミングでステージに出て中央へ歩き出すと、彼への盛大な賞賛と寅海の登場で、大きな拍手が一斉にわき起った。

 耳をふさぐほどの拍手の中でサヤトが寅海に気づき、心もとなく立ち上がって不安げにこちらを見た。

 寅海は彼と目を合わせたまま歩いた。

 頭の中にディズニー映画の中で白雪姫と小人達の会話が浮かんでいた。


  そこには王子様がいたのよ。

  お姫様は君だった?

  そして彼女は恋に落ちたの。私だけの王子様。

  彼は強くて、ハンサムだった?

  大きくて、背が高かった?

  そうよ? 彼ほどの人はどこにもいないの。


 寅海は強面の自分の人相がニヤニヤと悪くなるのを堪えた。


(ほらみろ。お前が今ちゃんとその曲を弾いたから、王子様はプリンセスを見つけたじゃねえか)


 運命だろ? 

 サヤトの元へたどり着いた寅海は、拍手を浴びながら彼の手を取り、マイクの前へ連れて行った。観客に向けて並んで優雅なお辞儀をし、彼は今後自分のパートナーになるジャズピアニストだと紹介した。

 前座の礼を言って彼をステージの袖へ送り返した。


「サヤト。お前、逃げるなよ。もうその必要はないんだからな」


 こっそり言うと、サヤトはどきりとした顔で寅海と目を合わせ、まだ戸惑って少し困りながら、嬉しそうに小さく頷いた。

 寅海は鳴り止まない拍手の中でピアノの前に座った。自分の演奏を待って再びしんと静まった世界の中、今夜の演目を弾き始めた。




6

 公演後、寅海とサヤトは警察署に呼ばれて簡単に事情聴取を受けた。零時過ぎに解放され、二人でタクシーに乗り込んだ。

 サヤトを送るためにダウンタウンへ向かう。雨は止んでおり、濡れた路面にまだ明るい町の灯が色とりどりに反射していた。

 二人それぞれの車窓を黙って眺めていると、サヤトがぽつりと言った。


「偶然だったんだよ」


 寅海はサヤトを見た。彼はうつむいて恥ずかしそうにしていた。


「ジェフから逃げてタクシーに飛び乗ったら、寅海さんがいたんだ」

「……」

「びっくりして、他人の空似かと思ったけど、……分からない訳がない。だって俺、ずっとあんたのファンなんだから。コンサートに行くお金は、なかったけど」


 寅海は少し黙りシートにもたれた。ジェフとの場外乱闘と公演と警察が続き、疲れて眠くなっていた。ただ、細かいことはどうでも良いが、せっかくサヤトが話し始めたので会話を続けた。


「チーズの話はどうした?」


 サヤトはきまり悪くこちらを横目で見た。


「……雑誌のインタビューで読んだ」

「だろうな。サンドイッチのルームサービスは俺が昼に自分で注文したんだ。そもそも眞神は俺の好みのチーズなんて気にしねえよ」


 サヤトは頬を染めてうつむいた。

 寅海は静かに言った。


「なんで黙ってた? お前が俺の探してるピアニストだと、動画を見せた時にどうして言わなかった?」

「それは、……だって、」


 サヤトはしばらく黙っていた。寅海が待っていると小さい声でぼそっと言った。


「俺はもうピアノやめちゃってたし、第一、俺があんたの思ってるような奴じゃなかったらどうしようって、怖かったんだ」


 寅海は小さく肩をすくめた。


「まあいい。最終的には自己申告したんだからな。緊急事態の前座とはいえ、わざわざ白雪姫を弾いたってことは、お前は俺のオファーを受けたってことだろう? 

 それより、完全にアウェイのステージであれだけ弾けたのは、大した度胸だ」


 良い演奏だったと言うと、サヤトは少し顔を上げて嬉しそうにした。


「……ドキドキした。すごい拍手で、」

「そうか」

「俺、ピアノ、……弾けて良かった」


 夜景の流れる車窓で、ガラスに残った雨粒がキラキラと光を反射している。それを背景にした彼のはにかんだ笑顔は素直で可愛らしかった。

 寅海はしばしサヤトの顔を見詰めた。

 音もなく前へ身を乗り出して、彼の唇にそっとキスをした。

 サヤトは驚いたが何も言わなかった。寅海を受け入れ、重ねた唇の隙間でそっと舌を触れ合わせた。

 顔を離すと頬を染め、目が合うと困ったように瞼を伏せた。

 寅海は間近でサヤトを見詰めた。


「お前、嫌なら今のうちに断れよ。これから付き合いが長くなるんだ」


 サヤトはうつむいた。


「……何で、キスするの、?」


 今度は寅海が黙った。


「何でって、さっきはお前がジェフと揉めたからだし、」

「……今は?」

「……」


 寅海はしばし黙ってサヤトの横顔を見た。正直これには、何故そうしたのか答えが思いつかない。頭と下半身はどうでも良いと眞神に言われるほど、確かに節操のない恋愛をした時期はある。だが、相手が男だったことは一度もない。

 寅海は言った。


「それはお前、……お前が白雪姫なんか弾くからだろ。これはそういう、」


 自分でも何を言ってるんだと思いつつ続けた。


「王子がプリンセスを迎えにくる物語なんだから、俺がお前にキスするのは当たり前だろ」


 あまりに適当な内容だったせいか、サヤトが思わず、ぷすっと吹き出して笑った。


「寅海さんは、自惚れ屋だなあ」

「良いのか? 嫌なのか?」

「んー」

「どっちなんだ」

「……どうしよ」

「イエスかノーかで答えろ」


 タクシーは二人が出会った元の場所に停まった。

 折り返してホテルに戻るつもりだった寅海は、道に降り立ったサヤトを車中から見上げた。


「また連絡する」


 サヤトは頷いた。


「うん。……あの、さ」

「なんだ」


 サヤトは迷いながら言った。


「俺を雇ってくれてる店、この時刻はまだやってるんだ。小さい店だけど、ずっとオーナーが良くしてくれてて、ジェフからも匿ってくれるような人で、……それで、」


 彼はもじもじした。


「もし寅海さんが良かったら、オーナーを紹介したい。良い人なんだよ」


 寅海は肩をすくめた。


「良いのか?」


 サヤトは照れながら頷いた。


「あんたがあんたの世界を俺に見せてくれたから、……今度はあんたに、ジャズやってる俺の世界を見て欲しいな、なんて、」


 寅海は頷いた。


「わかった」


 タクシーを降りた。

 サヤトと並んでやや歩いた先に、バーナビーというサインを掲げた小さなバーがあった。

 店の扉を開ける前に、サヤトはふと寅海のコートの袖を掴み、あ、待って、と言った。

 寅海は頷いた。


「なんだ」

「うん、……」


 すると彼は少しばかり強い力で寅海を自分へ引き寄せ、自ら唇にキスをしてきた。

 寅海が黙ると、彼は言った。


「えと、さっきの、答え」


 夜道でもわかる。目を逸らした顔が真っ赤だ。寅海の袖を掴んだまま、聞こえるか聞こえないかの声で、イエスだよ、と言った。


「それで、店に顔を出した後、もし良かったら、ええと、」


 彼は勇気を出した顔を上げて、そっと耳打ちした。

 俺の家に、来る? と言った。








                      End

Copyright(C)2025-ひかわ善二郎


「DYE3幻」という三人グループで活動しており、その創作で使う役者さん達に演じてもらっています。

https://kg.dojin.com/d3g/top.html


●寅海 発: 寅海つつみ はじめ強靭ポジティブガテン系。寅海コメント「鍵盤て小せぇー(泣)」

●サヤト:瑞蛟沙耶永みずち さやと 病弱華奢の図書委員長系。瑞蛟コメント「いつになく元気な役まわりで楽しかったです」

●眞神冬子: 眞神冬馬まがみ とうま隠れ悪女気質系。眞神コメント「寅海さんをしばけてよかったです」

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