ある自殺
それは自殺であった。誰の目にもそう見えた。疑う余地もないように思えた。
事件は、とある都営団地の、2階の一室の居間で起こった。死んでいたのは、岡宮という初老の男性であった。腹部を包丁で刺し、その包丁は、死んだ岡宮が右手に握っていた。腹部から出た血が、辺りの床を赤く染めていた。遺書はなかったが、部屋の鍵も内側から掛けられていた。
「自殺じゃないんですか?単純な事件ですよ、佐田さん」
と、同僚の捜査官が言った。しかし、佐田捜査官には、どこか釈然としないものがあった。佐田が言った。
「この腹の傷の幅と、握ってる包丁の刃の幅、ちょっと違うように見えんか?どうだ?それに、もうひとつあるんだ」
佐田は、わずかだが、床に残る血の雫が、点々と玄関に向かって落ちていることを、指摘してみせた。同僚が、考え深げに、
「なるほど。変ですね、佐田さんは、これを、どう考えているんです?」
「これは、決して簡単な自殺じゃないってね。何か、あるよ。もう少し、調べてみることにするさ」
佐田のいるデスクに、部下の刑事が来て報告した。
「やはり、佐田さんのおっしゃる通りでした。団地の部屋のどこからも、岡宮の財布は発見されませんでした。これは、初動ミスでしたね。それに、岡宮自身からも、財布の紛失届は出されていないそうです。これ、いったい、どういうことなんです?佐田さん」
「やはり、俺の読みは当たっていたようだな。よし、それじゃあ、現場近辺の監視カメラに何か写ってないか、調べてみるか?」
そして、関係筋の協力を得て、カメラ録画の再生で、佐田は、しらみつぶしに、何かの事件が写っていないかを調べ始めた。
やがて、1本の録画が、捜査線上に浮上した。そのビデオを見ると、現場近辺の、夜中の住宅街の路上を録画したものであった。よく見ていると、一人の若いらしい男が、こちらに背を向けた男に近づいていったかと思うと、しばらく何やら、もみ合って、やがて、二人は離れ、若い男は逃げるように去っていく。そして、背を向けた男は、こちらを振り向いた。よく見ると、それは、岡宮であった。困ったような顔をして、身を屈め、ふらふらとした足どりで、もと来た道を引き返し、カメラの外に消えた。
「ふう………………」
と、佐田は、ため息をついた。そして、そばにいた部下の刑事に、
「至急、このビデオを科捜研に渡して、画像解析を依頼してくれたまえ。このビデオに写っている若い男の鮮明な写真が必要になったよ」
それから、しばらくして、科捜研から送られてきた写真を頼りに、佐田は、現場近辺の聞き込みに当たった。やがて、問題の男は、近くのアパートに住む砂川という無職の男だと判明した。
さっそく、佐田は、砂川を任意で事情聴取した。
すると、砂川は、あっさりと、岡宮殺しの犯行を自供した。目的は、岡宮の財布だったらしい。金に困って、深夜の路上で、岡宮を包丁で刺し、財布を盗んで逃走したと告白した。
「つまり、岡宮は、加害者の砂川をかばって、自力で、腹に傷を負いながら、自宅まで戻り、部屋の鍵をかけ、手に台所にあった包丁を握ったところで、事切れたっていうことだよ。しかし、よく、自力で頑張ったものだねえ」
と、佐田は皆に説明してやった。
最後に残されたのが、なぜ、そこまでして、岡宮は、彼の犯行を自殺に偽装したのかという点であった。
「なぜ、彼は、自ら犠牲となることを決めたのか?」
佐田は悩んだ。そして、その答えは、佐田が、現場付近のタバコ屋の老主人から、佐田が煙草を買ったときにたまたま聞いて分かった。老主人が言った。
「ああ、あそこの団地の事件、調査してるんですか?でも、あそこの団地に住んでるの、みんな被差別部落の人でしょ。大変ですな」
それで、なぜ、彼が、自ら犠牲者となる道を選んだのか、彼の気持ちが何となく、わかった気になった。そして、あとから、分かったのだが、加害者の砂川が、事件の前日に、現場近くで開かれた部落解放運動の集会で、先頭を切って、参加したらしい。
「ひとつ、飲み屋で、酒でも飲むか?」
と、佐田は、同僚とともに、夜の街へ出ていくのであった……………。