婚約破棄された公爵令嬢は心を閉ざして生きていく
「アメリアには申し訳ないが…婚約を破棄させてほしい」
そう言ったこの国の王太子、ルシアン・シャルトリエは、気まずさからなのか、二人を隔てるテーブルから視線を動かさなかった。
その隣で、ロゼットが不安げな表情を浮かべながら膝の上で両手を握り締めている。
―――ついに、この日が来てしまったのね。
王太子ルシアンの婚約者、公爵令嬢のアメリア・グランシエールは、こう言われることをとうの昔から知っていた。
王立学園に入学する前日、アメリアは不思議な夢を見た。
“日本”という国で、恋愛小説を読む少女の姿。
ヒロインは平民でありながら、由緒正しき学園に編入を許され、王子と出会い、恋に落ちる物語。
そこに登場する王子は、紛れもなくルシアンであり、またその婚約者は自分自身だった。
最初はたかが夢だと気にも留めなかったが、ロゼットが編入してきた日、その夢が未来を表わしていると確信せざるを得なかった。
ロゼットは、夢に出てきた小説のヒロインそのものだったからだ。
栗色のやわらかな髪は肩につくラインで切り揃えられ、焦げ茶色の丸い大きな瞳が素朴で可愛らしい印象を与える。
一般的な貴族令嬢らしい、金色の長髪に華やかな顔立ちのアメリアとは正反対の見た目だった。
王立学園に平民が入学することなんて、前代未聞だ。
それだけの優秀な頭脳を持って生まれたということ。
貴族とは違う純粋で活発な性格に加え、聡明さも兼ね備える――そんなロゼットに、たとえ物珍しさだとしても男性が興味を持つのは当然かと思っていたが、王太子であるルシアンもその一人とは。
婚約破棄される未来を知っていても、アメリアにはどうすることもできなかった。
幼い頃から受けてきた王妃教育を放り出すことなどできるはずがないし、『夢のお告げ』なんてもので、王家との婚約を白紙に戻せるはずもなかった。
なにより、ルシアンとは婚約者として信頼関係を築き上げてきた。
お互いに恋愛感情というものはなかったかもしれない。
それでも、国を担う者として、志を共に過ごしてきた時間は、むしろ恋人同士よりも深い絆で結ばれているように思えた。
だからこそ、夢で見た婚約破棄なんてものは起こりえないのだと、そう信じていたのだ。
アメリアは冷たくなる指先をぎゅっと握り、深く息を吸う。
ここで私が『婚約破棄は受け入れない』なんて言ったら、どうなるのかしら。
王太子の言葉に、たかが一公爵令嬢が異を唱えることなど、できるはずもない。
むしろ、紙一枚で破棄を告げられるより、わざわざ公爵家まで来ていただいたことを感謝すべきなのだろう。
アメリアは高ぶる鼓動を抑えつけるように、ゆっくりと息を吐く。
顔を上げ、口元に気品高き笑みを浮かべて、ルシアンとロゼットをまっすぐに見る。
「実は、私、お二人はとてもお似合いだと思っていましたの」
「アメリア…」
「ロゼット様は、殿下を支え、殿下と共にこの国を導ける方であると思います。
私は、グランシエール家の一員として、愛するこの国の発展に尽力いたしますわ」
そう、私はグランシエール公爵家の娘。
こんなところで、無様に泣いて縋ったりなどしない。
「アメリア様、私…その…」
「そのようなお顔をする必要はありませんよ、ロゼット様。
殿下と共に行くと、覚悟なさったのでしょう?」
「…はい!」
元気よく返事をしたロゼットの瞳は、キラキラと輝いていた。
アメリアは、その希望に満ちた少女から目を逸らしたくなる気持ちをぐっと堪え、ふわりと優しい笑みを返す。
「それならば、自信をお持ちなさい
大丈夫、貴女ならできますわ」
「アメリア様…ありがとうございます」
アメリアの優しい言葉に安心したのか、ロゼットはルシアンを見上げて嬉しそうに微笑んだ。
そんなロゼットに「良かったね」とでも言うかのように、ルシアンも笑みを向ける。
その二人の言葉もない僅かなやり取りに、アメリアは心臓がぐっと掴まれるような息苦しさを感じた。
「では、正式なものは王家を通じてグランシエール家に届けさせる」
「承知いたしました」
「…アメリア、本当にありがとう」
ソファーから立ち上がった二人が、廊下へと続く扉へ向かう。
アメリアも立ち上がり、二人の後ろに続いた。
決して近づきすぎず、それでいて互いの存在を確かめるように寄り添い歩く二人の後ろ姿が、アメリアの心を少しずつ蝕んでいく。
「それでは、また」
「アメリア様、失礼いたします」
二人を見送るこの瞬間、アメリアには言わなければならないことがあった。
夢で見た小説のアメリアは、ロゼットを引き留めて、ルシアンにばれないようにこう囁く。
『実は私、自由な恋愛をしてみたいと思っておりましたの』――と。
そして、二人だけの秘密とばかりに、人差し指を口の前に当ててみせるのだ。
その貴族令嬢らしからぬ無邪気な姿に、ロゼットはアメリアに親近感を覚え、二人は急激に仲を深めていく。
そしてロゼットはアメリアを側近として宮廷に迎え、将来的に女官長となるのだ。
小説のアメリアは、婚約破棄されたその直後であっても、王家との繋がりを残しグランシエール家に利益をもたらす最善の行動をとったのだ。
だから、私もそれをしなくては。
わかってはいるのに、言葉が出ない。
開いた口からは、ひゅぅと乾いた呼吸だけが辛うじて漏れていた。
ここでロゼットと仲良くなり宮廷に上がるという選択は、生涯この二人を間近で見続けることになる。
私が人生をかけて支えると決めたこの男と、
その決意をたった一年で無きものにしたこの女を―――
バタン、と重い音を響かせて、扉が閉まった。
突然足の力が抜け、崩れるようにアメリアはその場に膝をついた。
「お嬢様!」
メイドの悲鳴に近い声が遠くで聞こえる。
…ああ、言えなかった。
メイドの腕に支えられながら、アメリアの意識はゆっくりと遠退いていった。
―――――
アメリアの意識が戻った時、外はすでに日が落ち、屋敷は静寂に満ちていた。
ゆっくりと重い体を持ち上げて、ベッドから降りる。
ベッドサイドに置かれた水差しからグラスに水を注ぎ、一気に飲み干す。
クローゼットから取り出したストールを巻き、アメリアはベランダに続く窓を開けた。
「綺麗ね…」
ベランダから見上げた星空には数えきれない程の星が瞬き、月明かりが美しい屋敷の庭園を照らしていた。
昼間の出来事が、走馬灯のように脳裏を巡る。
こんな結末を迎えるのなら、一体何のために私はこれまでの時間を過ごしてきたのかしら。
アメリアの人生の大部分は、王妃になるためのものだった。
両親からは十分すぎるほど愛情を注いでもらったし、友人との時間もあったけれど、それでも一般的な貴族令嬢と比べて自由は少なかった。
なにより、王妃になるという責任を感じながら過ごす生は、常に重圧との戦いだった。
それでもここまで乗り越えてきたのは、「王妃になる」ということがアメリアの生きる意味そのものだったからだ。
「私はこれから、何のために生きればいいのかしら」
信頼していた王太子ルシアンの裏切り。
何も知らぬロゼットに全てを奪われた屈辱。
喪失感と嫉妬に駆られた感情が、アメリアを襲う。
「どうして、私がこんな目にあわなければならないの…」
鼓動が激しく高鳴り、目元がじんわりと熱くなる。
ああ、今すぐこの柵を飛び越えて、逃げ出してしまいたい!
突然、びゅうと、強い風がベランダを吹き抜けていった。
「あっ!」
肩にかけていたストールが宙を舞って、庭園の方へと落ちていく。
それに気付いた見回り番の兵士が、腕を伸ばしてストールを掴んだ。
兵士はベランダに立つアメリアに気付き、慌てて礼をした後、無事でしたよと言わんばかりに嬉しそうにストールを掴んだ腕を持ち上げた。
「ふふ、ありがとう!」
アメリアは兵士に手を振って返事をし、部屋の中へと戻る。
そうよ、私には守らなければならない家臣がいる。
たとえ目的が失われたとしても、逃げ出してはいけない。
私はグランシエール家の令嬢であり、この国の貴族だもの。
決して誰かを恨んだり、憎んだりしてはいけない。
常に気高く、いつも通りのアメリア・グランシエールでいなくては―――
―――――
それからのアメリアの様子は、不自然なほどに以前と何も変わらなかった。
アメリアの両親は休学してしばらく療養することを勧めたが、アメリアは受け入れなかった。
「大丈夫だから」を繰り返し、益々勉学に励み、王妃教育が無くなって空いた時間は、自室で本を読んで過ごすことが多くなった。
友人も心配してくれたが、泣き言を言うわけにはいかなかった。
婚約破棄に不満を言うことは、王家に対する不満と同義になってしまうからだ。
なるべく普段通りを心掛けているつもりではあったが、食欲不振と寝不足だけはアメリアにも解決する術がなかった。
日に日に不健康になる顔を化粧で隠してもらいながら、アメリアは自分の心を閉ざして生き続けていた。
授業が終わり、アメリアは教科書を鞄に詰め、席を立つ。
クラスメイトと挨拶を交わし、校門までの渡り廊下を歩いていく。
今日はいつも帰りを共にする友人のソフィーがお休みで、久しぶりの一人での帰り道だった。
一人と言っても、校門には迎えが来ているのだけれど。
…一人は嫌だわ。
あの二人に会わないように、早く帰りましょう…
ソフィーがいれば、ルシアンとロゼットに話しかけられることは絶対になかった。
目が合っても、軽くお辞儀をして、ソフィーがすぐに腕を引っ張ってくれるからだ。
ソフィーには何も話していないけれど、いつも気を遣ってくれているのよね。
その優しさに感謝しつつも、自分の本心を話すことは躊躇われた。
何事もなく卒業までの時間を過ごせるのなら、それに越したことはない。
「アメリア嬢!」
突然後ろから名を呼ばれ、アメリアは足を止めて振り返る。
「レオナール様?お久しぶりです」
笑顔で走り寄って来たのは、ガルニエ公爵家の令息、レオナール・ガルニエだった。
ルシアンの従兄にあたる人物で、アメリアも何度も顔を合わせたことがある。
穏やかで控えめなルシアンとは違い、快活で勇ましい印象のある男性だ。
アメリアより年上で、学園では学年が異なることもあり、なかなか会う機会はなかった。
「ちょうど俺も帰るところなんだ、校門まで一緒にどうかな?」
「ええ、ぜひ」
二人並んで歩き出す。
歩くたびにレオナールの一つにくくられた金色の髪がさらさらと揺れ、力強くも軽快な足音が心地の良いリズムを刻んでいた。
「最近はだいぶ暖かくなってきたね」
「えぇ、そうですね。うちの庭園も蕾が花開く季節になってまいりました」
「グランシエール家の庭園は見事だと有名だからね。さぞかし美しいことだろう」
「ありがとうございます」
「うちは花より筋肉の男ばかりの所帯だから、皆美しいものに頓着がなくてね
…それでは女性にモテないぞと言っているのだが」
冗談めかして言うレオナールに、アメリアはくすくすと笑いを漏らす。
「そんなことありませんわ。強い男性にはいつだって惹かれるものですよ」
「花言葉の一つでも言える男になってもらいたいものだが」
「ふふ、それは少しレベルが高いかもしれませんわね」
他愛もない会話をしているうちに、校門へとたどり着く。
「レオナール様、楽しい時間をありがとうございました」
「いや、こちらこそありがとう。
その…良ければ、今度グランシエール家の庭園を見せてくれないか」
「ええ、ぜひ!喜んでご招待いたしますわ」
一礼して迎えの馬車に乗り込むアメリアを見送って、レオナールはふぅ、と息をついた。
「レオナール様、いかがされましたか?」
迎えに来ていた侍従に鞄を渡し、レオナールは困ったように髪をかき上げる。
「アメリア嬢、化粧で隠しているようだが…随分とやつれた顔をしていた」
「…以前お会いした時よりも、大分お痩せになったかと」
「はぁ…そうだよなぁ、あんなことがあって、いつも通りでいられるはずがないよな」
婚約破棄の話を聞いた時、レオナールは大層驚いた。
ルシアンとアメリアは互いに信頼し合っていたし、決してどちらかに非があるとは思えなかったからだ。
その理由が、ルシアンがロゼットという平民と恋に落ちたことであると知り、がっかりしたと同時に激しい怒りが湧いた。
確かにロゼットは、平民という身分を乗り越えるほどの優秀な人材だ。
彼女が王族と結婚すること自体は、レオナールも歓迎したはずだ―――相手がルシアンでなければ。
ルシアンは王太子であり、すでに婚約者もいる。
自己の立場やアメリアの存在を軽んじるような判断を、許して良いのだろうか。
そんなことを悶々と考える日々の中、アメリアが普段通り通学していると聞き、レオナールは更に驚いた。
実はそれ程アメリアは傷ついておらず、むしろ次期王妃という立場から解放されて喜んでいるのではないか──そんな期待のような疑問を抱き、レオナールはアメリアに話しかけた。
が、そんな簡単な話ではなかった。
細くしなやかだったアメリアの体は、手首にうっすらと骨の形が浮かぶほど痩せていた。
目元には疲れが見え、会話の合間にも、意識がこちらに向いていないような違和感があった。
それでも彼女は、美しく気高いアメリア・グランシエールを崩さなかった。
それは、王家の血を引くものとしての、罪悪感だったのかもしれない。
目の前の少女に対する、哀れみだったのかもしれない。
たった一人耐え抜く、強くて痛ましい彼女を助けてあげたいと、レオナールは思ったのだ。
―――――
それから何度か、アメリアは学園での時間をレオナールと共に過ごした。
最初は婚約破棄されたアメリアが何かをしでかさないかという監視が目的かと疑っていたが、その疑惑はすぐに払拭された。
図書室で勉強をしたり、昼食をとったり、時にはレオナールが街で人気のお菓子を持ってきてくれることもあった。
明るく楽しいレオナールと過ごすそのひと時だけ、アメリアは苦しみを紛らわすことができた。
そしてしばしの時が経ち、グランシエール家の庭園の花々が咲き乱れる頃、アメリアは屋敷にレオナールを招待した。
「今日はご招待ありがとう、アメリア嬢」
「こちらこそ、お越しいただきありがとうございます」
両親を交えしばしの歓談をした後、二人は庭園へと降りた。
暖かな日差しが降り注ぐ中、色とりどりの美しい花々が整然と咲き誇っている。
「これは…見事だな」
「ありがとうございます」
自然に差し出されたレオナールの左腕に、アメリアはそっと手を添える。
男性のエスコートには慣れたつもりではあったが、服の上からでもわかる筋肉の付いたレオナールの逞しい腕に、アメリアは少しだけ緊張していた。
「グランシエール公は花がお好きなのか?」
「元は、母が好きだったのです。母のために、父が美しい庭園を…と」
「そうか、グランシエール公は夫人のことを大切にされているのだな」
「えぇ、娘の私から見ても、憧れますわ」
「それはとても良いことだ」
アメリアは隣に立つレオナールの横顔をちらりと見上げる。
美しい金色の長髪に、澄んだ青い瞳、バランスの良い筋肉と背筋の伸びた佇まいは、王族でなくとも学園中の女性を虜にしただろう。
それでも、彼には婚約者がいなかった。
しかしそれも、時間の問題だろう。
レオナールさえ頷けば、彼と共になりたい女性など数多いるのだから。
「ん、どうかしたか?」
アメリアの視線に気付き、レオナールが首を傾げる。
アメリアは慌てて目を逸らし、えぇと、と口ごもった。
「レオナール様は、とても素敵な方だな…と」
「…えっ?」
思いもよらぬアメリアの発言に、レオナールは彼らしからぬ間抜けな声を漏らした。
「私を案じて、声をかけてくださったのですよね。
おかげで最近は、穏やかに日々を過ごせております」
そう言って微笑んだアメリアの顔を見て、レオナールは僅かに顔を顰めた。
半分は本心で言ってくれてるのだろう。
しかし、とてもじゃないが心中穏やかに過ごしているとは思えなかった。
「…確かに最初は、アメリア嬢が気がかりで話しかけた。
だが今は、貴女と…共に時間を過ごしたいと思って」
レオナールは、自身の体が熱を帯びていくのを感じた。
アメリアがルシアンの婚約者であった頃は、一定の距離を保つようにしていた。
相手はいずれこの国の王妃となる令嬢であり、自身の上に立つ存在である――と。
しかし今このような関係になって、レオナールは誤魔化すことができない程、アメリアに惹かれていた。
貴族令嬢らしい気品溢れる振る舞いも、時折見せる年相応の女の子らしい表情も、もっと側で見たいと思うようになった。
苦しみや悲しみを閉じ込めて、決して誰のことも悪く言わず、常に強く美しくいようとするアメリアを、レオナールは守ってあげたかった。
でも、アメリアは未だに誰にも心を開かない──
「そのような…私にはもったいないお言葉でございます」
「もったいないなど…俺の本当の気持ちだ」
「レオナール様…ありがとうございます」
「アメリア嬢」
レオナールは立ち止まり、左手でアメリアの右手を優しく包む。
「貴女はとても聡明で美しく──その──可愛らしい方だ」
「かわいらしい…?」
レオナールの言葉に、アメリアは驚きと恥じらいで言葉を詰まらせた。
「可愛らしい」なんて、幼い頃以来言われたことがなかった。
気品があるとか、大人びているとか、そんな褒め言葉はあったものの、「可愛い」なんて言葉は、自分には似つかわしくないものだと思っていた。
「そ、そんな、私が可愛らしいだなんて…」
「本当だよ。俺は、そんな貴女と過ごす時間がとても楽しいんだ」
カァッと、アメリアの顔が赤くなる。
覗き見たレオナールの顔も熱を帯びていて、決して彼も女性を口説き慣れているわけではないことが読み取れた。
例えお世辞やアメリアを励ますために言ったことであっても、レオナールが勇気を出してそう言ってくれたことが、アメリアは嬉しかった。
「レオナール様、ありがとうございます。
私も、とても楽しく思っております」
ニコッと笑ったアメリアを見て、レオナールはほっとしたように笑みを浮かべた。
それから二人で庭園を散歩した後、レオナールは「また二人で会おう」と言い残して帰っていった。
アメリアにとって、ルシアン以外の男性とこうして親密になるのは当然のことながら初めてだった。
だからこそ、レオナールの言葉が社交辞令によるものなのか、異性としての甘い囁きなのか、アメリアには判断できなかった。
例え、後者だったとしても、それを信じたくはない。
信じて期待して、そうではなかったときの苦しみを、もう味わいたくはない。
政治的な利益の上結ばれた婚姻の方が、確固たる私の生きる意味となるもの…
―――――
それから数日が経ち、アメリアはレオナールから食事の招待を受けた。
随分と食が細くなったこともあり、王都での食事を共にするのは少し不安はあったが、断る理由もなく、むしろ楽しみな気持ちが勝っていた。
レオナールに案内されたレストランは、さすが王族御用達ともありとても豪奢で、奥まった個室に二人は通された。
「とても素敵なレストランですね」
「ここは料理も美味しいんだ、期待していいぞ」
「ふふ、楽しみですわ」
レオナールの言った通り、出てくる食事はとても美味しく、見た目でも楽しめるものだった。
スープや野菜を中心とした食べやすい内容に加え、アメリアの分はかなり量を減らしているようで、あらかじめレオナールがそう頼んでおいてくれたのだろう。
その気遣いが、アメリアはとても嬉しく、ありがたかった。
「食事は楽しめたか?」
食後の紅茶を飲みながら、レオナールは優しい笑みをアメリアに向ける。
「えぇ、とても美味しかったです」
沈黙が流れ、レオナールはカップをテーブルに置く。
そして少し躊躇った後、口を開いた。
「今更にはなってしまったが、この度のこと、本当に申し訳なかった」
突然の謝罪に、アメリアは目を丸くして驚く。
この度というのは、婚約破棄のことだろう。
レオナールは確かに王族ではあるが、彼自身には何の責任もない。
「レオナール様が謝ることではありませんわ」
「殿下は年も近く、幼い頃の俺にとっては弟のような存在だったんだ
そんな殿下がこんなことをしでかしたのは、正直情けない」
「…それだけのお考えが、殿下にもおありだったのでしょう」
アメリアの返答に、レオナールは納得していないようだった。
「もっと早くアメリア嬢に謝りたかったんだが、苦しみを思い出させてしまうかと思うと…なかなか言い出せなかった」
「そのお気持ちだけで十分でございます」
「余計なお世話かもしれないが…心配なんだ」
「王家からは、十分な対応をしていただいたと聞きました。
グランシエール家としては、これ以上何かを求めるつもりはございません」
「グランシエール家ではなく、アメリア嬢自身のことだ!」
突然大きな声でそう言われ、アメリアの肩がびくっと跳ねる。
「君は国のために、ルシアンのために尽くしてきた!
それなのにこんな仕打ち、あんまりだろう」
「レオナール様…」
「君は本当に強い女性だ。文句も言わず、黙って受け入れて…
ルシアンのことも、ロゼット嬢のことも、君には非難する権利があるのに」
感情昂るレオナールから出る言葉は、アメリアの核心をついていた。
心の奥底にしまった渦巻く負の感情が、今にも出てしまいそうなのをぐっと堪える。
「…私には、お二人を責める権利などございません」
「そんなことはない!言っていいんだ、君だけは」
そんな甘い誘惑、囁かないで。
口に出したら認めてしまう。
この薄汚い恨みも、妬みも、嫉妬も──
アメリアは口を閉ざし、レオナールから視線を逸らした。
それを見て、レオナールは悲しそうに眉を八の字に寄せ、俯いた。
「…すまない、不躾だった。帰ろうか」
そう言ったレオナールの声は、微かに震えていた。
―――――
送らせてほしいというレオナールの申し出を断るわけにもいかず、馬車の中で並んで座り、グランシエール家への帰り道を共にする。
互いに話すことなく、馬たちのテンポの良い足音と車輪が石畳をこする音だけが響く。
アメリアは先程のことをレオナールに謝りたかった。
レオナールは、アメリアを心配して言ってくれたのだ。
それでも、口を開けば我慢しているものが途切れてしまいそうで、何も言うことができなかった。
ああ、このままだと屋敷に着いてしまう。
そんなことをぼんやり考えていると、突然、レオナールがアメリアの右手に自身の手を重ね、ぎゅぅと力強く握った。
アメリアは驚き、レオナールを見上げる。
レオナールの全てを見透かそうとするような瞳が、じっとアメリアを見つめる。
その力強い瞳から、アメリアは目を離すことができなかった。
「…アメリア」
「…はい」
名を呼ばれ、アメリアの胸が高鳴る。
「もし君が、苦しみや悲しみも全てさらけ出したいと思った時は、俺を頼ってほしい。
誰が何と言おうと、俺は、アメリアの味方だ」
とても優しい声色で、レオナールがそう囁いた。
…あぁ、もう、我慢できない。
つぅ、と、アメリアの頬を涙がつたう。
一度堰を切ると、それは止まらなかった。
「わ、わたし…っ」
アメリアが何かを言う前に、レオナールはアメリアを自身の胸に引き寄せた。
レオナールの胸に顔を埋め、アメリアは幼子のように泣きじゃくる。
「ずっと、王妃になるために、頑張ってきました」
「あぁ、知ってる」
「どうしてですか?私よりもロゼット様の方が相応しいのですか?」
「そんなことはない。アメリアはとても素晴らしい女性だ」
「わ、わかっているのです。殿下は、理性を上回る恋をしてしまったのだと」
「…あぁ」
「では、残された私は何のためにいるのですか!?」
アメリアを抱きしめるレオナールの腕に力がこもる。
少し力を込めたら折れてしまうのではないかと思うほどアメリアの体は細く、この小さな体でどれだけの重圧と苦しみに耐えてきたのかと思うと、レオナールの胸が痛んだ。
それからグランシエール家に着くまで、レオナールは黙ってアメリアを抱きしめ続けた。
腕の中で泣き続けるアメリアに軽々しくかけていい言葉などなく、ただここにいて良いのだと示すように、一時も離さなかった。
馬の足音が緩やかになり始めた頃、アメリアは何度か深呼吸をした後、顔を上げた。
レオナールの腕の力が緩み、二人の目が合う。
レオナールは優しく微笑み、ハンカチを取り出してアメリアの目元を拭う。
「…今度は、街に出かけよう。劇場もいいな、船で海に出てもいい」
「…えぇ、レオナール様となら、どこへ出かけても楽しいです」
「あぁ、俺もだよ、アメリア」
あたたかな空気の中、二人はくすくすと笑い合う。
それはアメリアにとって、苦しみから解放された、自由で穏やかな時間だった。
―――――
それからアメリアは、レオナールのアドバイスもあり、友人のソフィーに全てを打ち明けることを決めた。
生きる意味を失った喪失感、ルシアンへの恨み、ロゼットへの嫉妬心―――
不思議と穏やかな気持ちで話し終えた頃には、なぜかソフィーの方が大粒の涙を流していた。
「な、なんでソフィーが泣くのよ」
「だっ、だって、アメリアは、ずっと、頑張ってきたのよ!」
アメリアがハンカチでソフィーの涙を拭おうとすると、突然、ソフィーにぎゅっと抱きしめられる。
「ソフィー?」
「…ありがとう、私に話してくれて」
その言葉に、アメリアも自然と涙が零れ落ちる。
最初から、こうすれば良かったのね…
二人でひとしきり泣いた後、ぼろぼろの顔を見合わせて笑った。
ハンカチで涙を拭い、一息ついた後、ところで――と、ソフィーがアメリアの顔を覗き込んだ。
「レオナール様とはどうなの?」
「れ、レオナール様?」
「最近よくデートしてるじゃない」
「デートじゃないわ!レオナール様は私を励まそうとしてくださるだけで…」
「ふぅん?じゃ、アメリアは何とも思ってないの?」
「そ、それは…」
ソフィーがにやにやと意地の悪い笑みをアメリアに向ける。
「レオナール様のことを話すアメリアは、いつも乙女の顔をしているけれど?」
返す言葉もなく、アメリアは顔を赤くする。
確かに、アメリアにとってレオナールはとても大切で、離れがたい存在だった。
これが恋ではないのだとしたら、一体何を恋と呼ぶのだろうか。
「アメリア、私はいつだって貴女を応援してるわ!」
「ありがとう、ソフィー」
アメリアの両手を力強く握って笑うソフィーに、アメリアは安心したように笑顔を返した。
―――――
「そうか、ソフィー嬢とお話しできたんだね」
「はい、レオナール様のおかげです」
「俺は何もしていないさ」
アメリアとレオナールは学園の屋上にあがり、夕暮れに染まる王都を見渡しながら、二人だけの時間を過ごしていた。
とうに下校時間を過ぎていることもあり、屋上には二人以外誰もおらず、時折緩やかな風が吹き抜けていく。
「こんなに、穏やかな気持ちになれる日が来るとは思っておりませんでした
苦しみが全てなくなった、と言っては噓になりますが…
それでも、次に進もうと思えるようになったのです」
「そうか…」
レオナールは、風になびくアメリアの髪に手を伸ばし、そっと彼女の耳にかける。
くすぐったいような、恥ずかしそうな表情で、アメリアがレオナールを見上げた。
「では、俺もそろそろ次に進んでも良いのかな?」
「レオナール様…?」
レオナールの指がアメリアの耳をなぞり、頬を優しく包む。
「好きだ、アメリア。俺の一生をかけて君を守ると誓う」
味方だと言ってくれた時と同じ、力強く、まっすぐで、優しい瞳。
「私も、レオナール様をお慕いしております」
頬に添えられたレオナールの手に、アメリアは愛おしそうに自分の手を重ねる。
オレンジ色に輝くあたたかな夕日が、二人を照らしていた。
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