袷と盥
袷と盥
「かしましいねぇ」
不意に背後から聞こえてきた声に、サンの躰がびくりと震えた。そのまま肩越しに長屋の引き戸を振り返ると、鈍色の羽織を肩に掛けた男が立っていた。
三十路に乗ったばかりの男は、その言葉と違わぬうんざりとした表情を、無精ひげを生やした顔に乗せている。
「貝さん、お帰りなさい」
サンが声を上げると、貝は軽い息を吐き、やれやれと後頭部をぺしりと叩いて口を開いた。
「今度は何の騒ぎなんだい。アタシは寝ずの仕事を終えたばかりなのに、また仕事を取ったのかい。おサンのイビリは一体いつまで続くのかねぇ」
「い、イビリなんてとんでもないっ。私は酒屋と八百屋と、魚屋のツケを払いたいだけですっ。ちなみにこれは貝さんが今までに溜めてた分ですよ」
サンの指折りで数えるツケを横目に、貝は手を振る。
「はいはい、分かりましたよ。……ツケなんて年末とんずらすりゃあ、いいものを」
そう云いながら貝がどっかりと畳に腰を落とすと、サンは土間に下りて盥に水を入れ、土で汚れた男の足を濯いでやる。
「それはいけません。働ける機会があって、お金も入っているのに借りたものを返さないのは、人としての道理に反します」
貝は瞼を閉じて深く息を吐く。
「はいはい」
ふふ、とサンよりも高い笑い声がした。
「――あんたが、貝さんかい?」
足を洗われながら、貝が部屋の襖を振り見ると一人の女が座っていた。
「かしましくてごめんなさいね」
艶のある声でしなりと僅かに頭を垂れる。流し目で貝を見ると、紅を引いた口端を意味ありげに上げた。豊かな黒髪を高々と結った、匂い立つような艶女だった。
「こりゃあ、えらい別嬪さんだねぇ。 どちらさん?」
「貝さん。 井沢の反物屋の御新造さんですよ」
サンが諌めるような声で説明する。以前お客が来ると説明したのを忘れている相手に、サンは頬を少し膨らませる。けれどもそれを慌てて引っこめた。
「井沢の御新造って…ああ、成程ねぇ」
貝は顎に手をやり、御新造を眺めた。
井沢の反物屋と云えばこの界隈で知らぬ者はおらぬほどの大店で、城御用達という箔も付いている。その店主である五十を越した井沢竹蔵が老生に求めたのが、後妻に迎えた芸者下がりの御新造だった。
噂に違わぬ容姿を持った相手を、しげしげと見る。相手は相手で慣れているのか、はたまたそれを当然としているのか、色のついた瞳で貝を見返していた。
「で、その御新造さんがうちに何の用だい?」
貝の言葉に、流し目ではたはたとゆっくり二度瞬きをする。
「失せ物を探して欲しいんですよ。こちらは失せ物探しが御商売だとか…?」
「いや、アタシの本業は日雇いさ。こっちが副業」
隠すことなく欠伸を一つすると、貝は視線を足元のサンに戻した。
貝の足に付いた一晩の汚れをサンは白い手で懸命にこそげ落とそうと苦戦している。非常にこそばゆい。貝は文句を云おうと口を開いたが、人の足を上げたり下げたりして一心に洗うその頭を見ていると、自然と口は閉じられた。
その肩にそっと温かな感触が触れた。はっと振り返ると、いつの間にか傍に寄っていた女が貝の肩に手を置き笑っている。ゆっくりと上げられた口角と整えられた爪先が、異様なほど美しかった。長い睫を揺らして、女はこちらを見上げてくる。
「旦那、なかなかに好い男じゃないかぃ」
艶やかな唇がひっそりと動き、貝の耳元へ言葉を寄せる。肩に置かれた手が一段と生々しく、熱を帯びるようだった。
途端に、眉の辺りの皮膚の上を何かが走るような不快感が貝を襲う。瞼を閉じ、眉間にしわを寄せる貝に、女は不思議そうな視線を投げた。
「――で、御新造さん。……本当にその『失せ物』探していいんですかい?」
「え」
貝の言葉を飲み込み切れなかったように、女は目が覚めたような表情で聞き返した。
「焼け木杭には火、なんて井沢の旦那が黙ってないでしょうねぇ。あんたさんの『失せ者捜し』は」
「なんで、あたしは一言もまだ……」
傍からも分かるように、女の顔から色が抜け落ちる。上がっていた口角は下がり、赤い唇はわなわなと震え出していた。
「貝さん…」
サンから渡された布で洗った足を拭くと、貝は尻を端へとにじり寄せた。
「悪いこた云わないよ。今までの苦労を思い返して、今の幸せを探した方がいいんじゃないかい」
「――あんたに何が解んのさっ」
金切り声を上げた女はすっくと立ち上がった。美しい着物が動くと、焚き染めた香がふわりと香る。およそこの長屋には不似合いな匂いだった。
「今まであたしの思い通りになったことなんて、一度だってないのに…っ」
女はそう云い放つと、土間に降り立ち履物を履いて出て行った。見事な程音を立てず、最後まで美しい所作だ、と貝は見当違いなことを思っていた。けれど、その視線も足元へ落ちていく。
「……怒ってるのかい?」
土間でしゃがみ込んだままのサン。客を逃したと詰め寄られるかと恐る恐るそう訊くと、隣に温かさが触れる。隣に座り込んだサンは俯き加減で、どこかしょんぼりとしていた。
「――……井沢の旦那さん、自分の所の一等良い反物で御新造さんに着物を誂えるんだそうですよ。髪飾りだって季節に合わせて一緒に選ぶって……そう、御新造さんは云っていたのに」
井沢の旦那が女を美しく着飾らせるのは、ひいては自分の反物屋の宣伝でもある。美しい着物を、美しい女がこれ以上なく美しい所作で身に纏う。それは布を一枚見せるよりも、より効果的に客を呼び込み、金を回らせる。
「それは、幸せではないんですか?」
サンは消え入りそうな声で問うてくる。それはまるで、小さな子が母に物の名を問うような、純粋な問い。
「サン……」
時々こうした目を向けられて、貝は思わず目を背けたくなる。それが自分とサンとの間に随分と大きな隔たりに中てられているからだと分かっていた。年甲斐もなく紅潮しそうになる頬を片手で押さえて、目だけでサンを捉える。
「貝さん。私はここにいられて幸せですが、それではダメなんですか?」
貝の肩が揺れた。途端に隣に立て掛けておいた盥が、がたんと落ちる。
「お前は本当に…もうねぇ、お黙り」
「え、えっ…わ」
貝は恨みがましい声を上げ、同時にのサンの目は大きな手で覆われる。
「誰が幸せで誰が幸せじゃないなんて、アタシが知ったこっちゃないよ。そもそも、この人の世が幸せだけでできてると、サンは本気で思ってるのかい?」
サンの唇がきゅっと閉まる。
「アタシに向かってそれを云えるのかい? こんな力を――人の恥部を明け透けに見通すような力を持ったアタシにそれを云うのかい?」
サンの唇が、への字に曲がる。手の中で、わざわざと羽が触れるようなん感触がある。涙を堪えて、睫を上下しているのは貝が心を読まずとも感じで分かる。
「いや、アタシはね」
「――幸せだけでは世の中できていないけれど……それは判っているけれど、それでも年中のツケをやんや云いながら考えてるときはすごく幸せなんです」
しばしば動く手のひらの中の羽。
「こうして隣に変わらずいてくれる貝さんの温い体があると、幸せなんです」
ほたりと手のひらが、小さな温もりに当たる。
「汚れて帰って来た大きな足を洗うのが好きなんです。自分がちゃんと必要とされてるみたいですごくすごく幸せなんです。……貝さんがそうは思っていなくても、私は勝手に幸せなんです」
ほたほたと流れる雫は、とうとう手のひらでは収まらず、手放された頬を伝い落ちていく。困ったようにえぐえぐ泣くサンは、御新造とそう年は変わらない筈なのに、随分と幼い。だからと云ってこの娘が、世の中の吸いも辛いも知らないとは誰に云えようか。人間の醜悪な欲が集まる場所で生きてきた中で味わった思いは、サンの中にも生々しく残っているだろう。
だから信じたい。
だから、きれいなものを願いたくなるのかもしれない。
願うことすら諦めてしまった、自分と違って。
――いや、サンを通して願っているのかもしれない。
この子なら、信じさせてくれると。
それこそ勝手に……
「―――サン、もしあんたが御新造と同じことを云い出したら」
ばたりと貝は続き間に倒れる。腕で顔を覆って、深い息を吐き出した。
「絶対、捜してやらないから」
「――…焼け木杭…?」
「そう、焼け木杭。水でも何でもぶっかけてやる」
自棄になって云い放つ。するとすぐに静けさが長屋に満ち始める。
代わりに聞こえてくるのは、炊事の準備をする女房たちのかしましい声。
子どもたちの笑い声。
男どもの野太い話し声。
昔は、こんな中で自分がいられるなんて思いもしなかった。毎朝ここから仕事へ出かけ、ここに帰ってくる。引き戸を開けると、『お帰りなさい』と声を掛けられ、自分の為の水盥が用意される。
上達を願いつつの夕餉を食べて、一日あったことを他愛なく話す。軽口を叩いて、ふくれっ面になった相手の柔い肌に触れる。冷たくなった指を丸ごと包んでやって、せんべい布団に入る。
目が覚めれば、『お早うございます』と声が掛かり、また朝餉の匂い。
当然のように自分と共に生きようするこの娘に情が移らないなんて……それは嘘だろう。
「……何か、お云いよ」
貝がそう声を上げ、腕の隙間からサンを見る。
顔を真っ赤にしてそれでも嬉しそうに笑う嫁御に、夫はさらに白旗を上げて抱き寄せた。
貝は不思議な力を持っており、サンは貝に人助けで落籍された設定。
二人は最初は長屋で暮らすにあたっての、仮の夫婦だったのですが…な設定。
幸せは願う人もいれば、幸せを見つけるのが上手な人もいる。幸せを上手に見つけられない人もいれば、幸せを否定する人もいる。貝は幸せを考えるのを諦めてしまった人…だったり。
お読みいただき有難うございました。