6話
その慟哭が止むことは無い。
彼女は忘却する術を持たないのだから。
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豪奢な馬車が街道を進む。
クレセント教国を南下、大神殿へ至る道のり。しかし大きな岩が転がっていたり木が横倒しのまま放置されていたりと、とても整備されているようには見えない。
それでも揺れが少ないのは、馬車が機能面にも惜しみなく技術を投じられた皇族専用だからだ。
「はあ……」
進行方向に座するリーザ・ローゼンハインは、頬に両手を当て深く溜息を付く。
「如何なさいました?」
「緊張……してきました。こんな大役が私に務まるでしょうか」
初めての外交特使として公務に臨む彼女。メタトロン帝国第一皇女である。
第一とは言っても彼女に兄弟姉妹はいない。それは継承権一位という意味合いの方が強く、他の親族と明確に区別する為にそう呼ばれている。
彼女はやがて、父である皇帝ヨハネス・ローゼンハインの跡を継ぐ立場にあった。
流れるようなブロンドの髪。緑がかった独特の瞳。まだ二十歳と若く幼さも覗かせるが、ありきたりな美辞麗句では追い付かない程に美しい容姿を持つ。
まさに物語のお姫様そのもので、時折見せる柔らかい微笑みは人々を惹きつけて止まない。
「何を申されます。姫がこの日の為にどれだけ念入りにご準備されてきたか──爺はよく心得ておりますぞ」
リーザの不安を払拭する為か、対面する老人が大袈裟にパンと膝を叩いた。
ウォルト・ヘルベルグ。退役軍人で今はリーザの守役として仕えている。
黒い部分が一本も無い白髪を後ろに流し、蓄えた立派な髭も真っ白。七十に届こうかという年齢の割に体型はがっしりしており、何より彼は戦争にでも行くかのような銀装の鎧を着用していた。
「停戦調停の依頼なんて。やっぱりソフィアにお願いするべきだったのではないかしら」
「いやいや、そのようなことは断じて。国を上げての大事ですから、次期皇帝たる姫こそが適任ですじゃ」
ひと睨みしただけで子供を泣かせるであろう厳つい顔をくしゃくしゃと破顔させて、老いた元戦士が懸命に皇女を元気付けようとする様はなかなかにシュールだ。
だが実際、彼女が心配するように、この交渉が実を結ぶと予想する者は少なかった。
リーザに公務経験が少ないこともあるが、その最大の理由は、敵国シャルムに今停戦するメリットが何も無いこと。
彼の国が暗黒召喚を得て以降、ズルズルと立場を悪くしているのは帝国の方なのだ。国力の立て直しが急務である帝国としては何としても停戦に持ち込みたいが、シャルムと直接交渉するには手持ちのカードが弱い。
そこでクレセント教国に仲介を依頼する流れとなったものの、教国はこれまで戦争に不干渉の立場を貫いてきた。
クレセント教はアルカディアで広く信奉されており、調停に動いてくれたならシャルムも無視はできないだろう。
しかしそれにメリットが無いのは教国も同じ。交渉材料として何を提供すれば話がまとまるのか──非常に難しい局面なのであった。
「戦争がこれ程長期化するとは、識者でさえ予想していなかったと聞きました。何より民のことを考えると心が痛みます」
「確かに此度の戦はちと長うございますな。しかしそんな状況でも民のことを第一に──御立派です。姫ならば必ずや止められるでしょう」
「ふふ、爺やったら肯定しかしないんだから。でも、ありがとう」
戦端が開かれてもう随分経つ。〈三十年戦争〉という呼び名が〈五十年戦争〉に変わるのも時間の問題だろう。
悲しいことに戦争状態にあることが最早当たり前であり、平和だった時代を知る者も年々減っている。
尤も属国であるシャルム王国が帝国に反旗を翻したので、当初は戦争ではなく内乱と呼ばれていたらしいが、かつて同じ旗の下に集っていたとは思えぬ程に両国の関係は拗れてしまっていた。
「どうか〈創世神〉イリア様のご加護がありますように……」
リーザは胸の前で両手を組み、祈りを捧げる。
それは他でもないクレセント教が信仰の対象とする絶対的唯一神であった。
クレセント教は皇女を含め信徒が非常に多い。特に人間族以外の種族において顕著で、シャルムも黒森人族が統治する国であるから、やはり停戦の仲介役として教国は適任だと言えよう。
「聖女様は出席なさるのかしら」
「いや、それはありますまい。聖女は滅多に人前に姿を現さぬと聞いております。政はいつもの如く教皇以下、上の聖職者達でしょう」
「ウォルト。聖女様に教皇聖下です」
リーザがウォルトを名前で呼ぶのは怒っている時である。慌てて謝罪、訂正したが──皇女と違い無神論者であるウォルトはクレセント教に敬意など抱いていない。
もっと言えば不信感さえ持っている。
教国によれば聖女は〈創世神〉と同じイリアの名を冠し、年を取ることもなく存在し続けてきた存在だという。常人にはとても及ばない不思議な力を持ち、様々な奇跡を起こすそうだ。
しかしウォルトは適当に選ばれた女性がイリアと呼ばれ、数年毎に別人へと名を受け継いでいるだけ──またはそもそも存在すらせず、聖職者達に作り出された都合の良い幻想であるとさえ考えていた。
尤も、最後のそれは間違いであったことがすぐに判明するのだが。