13話
アルカディア中央部、その上空に悠然と浮かぶ都市エデン。メタトロン帝国の首府である。
アウトサイダーの脅威から逃れるため、魔法開発局〈昊〉が二十年近い歳月をかけて完成させた大魔法で、都市を大地ごと削り取って浮上させたという。
機密事項が多く原理の全てを知る者は少ないが、そこでは気温や気圧、酸素濃度に加えて天候まで完璧にコントロールされ、地上より遥かに快適な暮らしが約束されていた。
国政の要人や貴族、富裕層を中心に人口は百万を超え、アルカディア最大の都市機能を持つ。
「ふわあ……あ」
陽は既に高い。宮殿の程近く、〈焔〉の宿舎でリーシュは目を覚ました。
眠気はすぐに飛んだものの、なかなか起き上がる気になれない。目を閉じるとあの日の光景がはっきりと頭に浮かぶ。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
交渉の後、リーザは酷く取り乱した。
ボロボロと涙を流しながら、何度も謝罪の言葉を繰り返す。そんな皇女を見たのは初めてだった。
結果だけを見れば、三日間の予定が組まれていたところを僅か一日、それも短時間で望む成果を出したのだから大成功と言えるだろう。
帰国すれば熱狂的に迎えられるはずで、実際にそうなった。
(人を泣かせたのなんて初めてだっただろうな。しかも相手は聖女サマだ)
無論それもある。
しかしイリアが涙した訳はよく分からない。いや、そもそも彼女という存在が分からない。皇女の謝罪はむしろ、リーシュに向けられたものだ。
リーザは彼の事情を、本人を目の前にして武器に使った。
停戦調停という成果に惑わされず、的確で冷静な発言だったのは間違いないが、それはリーシュの負った傷を更に抉るようなもの。
結果的にそれが功を奏したとはいえ、皇女はきっと耐えきれなかったのだろう。
(後で会いに行ってみるか)
何となく窓の外を眺めるリーシュ。
街は停戦を祝う祭りの準備に忙しい。気の早い連中は既に道端で酔い潰れていた。
喧騒に紛れて〈創世神〉イリアを讃える声がここまで聞こえて来る。
(イリアって……本名かな。マジで何者なんだ)
あれ程までに好意を寄せてくれた聖女。リーシュには全く身に覚えが無く、〈時読み〉という理由は語られたもののどうも腑に落ちない。
イリアは彼らの知らない何かを知っている。更には「リーシュを戦わせないで」という言葉。
彼女には〈侵食〉が進んだ先の未来さえ見えているというのだろうか。
「……ああもう、やめやめ。考えてもしょうがねえ。準備するか」
この日は参謀本部〈威〉に呼ばれていた。
リーシュが勢いよく上半身を起こすと、手に何か柔らかいものが触れる。
布団から引っ張り出してみると、それは人の頭程もある白い毛玉であった。
「何だこれ……ぬいぐるみ?」
ウサギのように大きな耳が二つ。毛玉の中央に閉じた目。鼻や口もあるが体が無い。
「何でこんなモンが」
リーシュは毛玉を撫でてみた。モフモフとした感触が心地良い。
伸縮性もあるのか、頬を左右に引っ張るとそれは倍程の長さに伸びた。
「いだっ……いだだだっ!」
「うわあ!?」
突然ぬいぐるみが喋った。驚いたリーシュは思わずそれを壁に投げつける。
「きゅ〜」
「じょ、冗談じゃねえ」
敵──にしては害意が感じられない。しかしリーシュは動転し、左手で剣を呼ぶ構えを取った。
壁からずり落ち、目に涙を浮かべて振り向く白い毛玉。
「……ひ、酷いにゃ!」
「何者だ、てめえ」
「何って、見て分からないにゃ? エレナはキュートでか弱い……〈猫〉にゃ」
「どこがだよ!?」
まだ夢でも見ているのか。いっそのこと怪物でも現れた方がマシであった。
「イケメンだと思って隣で気持ち良く寝てたのに……こんな乱暴者だったにゃんて」
エレナと名乗る謎の生物は、体をへこませたかと思うとその反動で前へ飛んだ。
そして耳を大きく振りかぶり──リーシュへ平手打ち。いや、平耳打ち。
「へぶっ」
警戒はしていた。しかし避ける気が起こらない程にそれは遅く、弱く、あれこれ考えているうちに結局叩かれてしまった。
「何すんだよ!」
「乙女心を弄んだ罰にゃ」
そして不毛な鬼ごっこのスタート。リーシュは自称猫を捕まえようと躍起になるが、エレナは器用にピョンピョン飛び回りなかなか追いつけない。
その時だった。
「この……待ちやがれ」
「うわああん、助けてイリア!」
突如エレナの体から発せられた眩しい光。
見覚えどころか最近目にしたばかり──〈召喚光〉だ。
「な──に?」
エレナが呼んだ名と光と。立て続けに驚愕が重なり、思わずリーシュは距離を取る。
次の瞬間、光の中から飛び出したのは──。
「リーシュっっ!」
聖女イリア。両手を目一杯に広げ、彼女はリーシュに飛びついた。