1話
世界は虐げられる──何度でも。
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小高い丘の麓で馬を降りると、騎士はそれを登って行く。
略式とはいえ決して軽くはない鎧を纏っているのに、その歩みは雲の上であるかのように軽い。
彼は開けた場所で手頃な岩を見つけると、更にその上へぽんと飛び乗った。
「あれか」
目的の場所は南にあった。
磁石など無くとも、このアルカディアで方角を知るのは極めて容易い。
何しろ北にぽっかりと島が浮かんでいるのだ。それも太陽とは違い、いつも同じ場所に。
島の見え方さえ覚えておけば、つまり反対側に目を凝らすだけでいい。
皇帝直轄騎士団〈焔〉に所属する騎士──リーシュ・フォレストは、ぼんやりと輪郭を現した街までのルートを確認する。
「森を抜けると近いのに。わざわざ迂回しなきゃならねえのか」
ぼやく彼の髪を一陣の風が撫でた。それは鮮やかな金髪で、背中まで柔らかく伸びている。
細身だが華奢な印象はなく、背丈もある。
更には整った顔立ちに美しいブラウンの瞳。歳も二十一と若々しさに溢れ、何もかもがまるで英雄譚の挿絵のようだ。
──黙ってさえいれば。
「仕方ないだろう。皇女殿下の馬車が通れるのはあの道しかない」
そこへもう一人。初の女性騎士で、名をセシリア・メイルーンという。
緋色の髪を肩の辺りで切り揃え、隊色である赤を基調とした鎧に身を包む。
リーシュとは皇立アカデミー時代からの同期、そして超が付く程の名門貴族出身。アカデミーをぶっちぎりの首席で卒業したエリートである上に、容姿端麗であった。
彼女の欠点を探そうとしても徒労に終わるだろう。
「多少遠回りでも、なるべく平坦で開けた道の方がいい。障害物があれば取り除くぞ」
「何だよそれ、面倒くせえ」
同期の言葉を、騎士にあるまじき発言でかき消すリーシュ。
彼もまた父の代から騎士爵位にあるれっきとした貴族なのだが、とにかく言動が粗野なのである。
しかしセシリアも何か思うところがあるらしく、それを咎めることはしなかった。
「なあセシリア。俺ら入団してから休みあったか」
「戦争が続く限り騎士に休息は必要ない──と言いたいところだが、さすがにこんな指令まで出されてはな」
〈焔〉は少数精鋭の部隊で最強の呼び声が高く、当然の如く激戦区に配置されている。この二人もつい先日まで最前線の砦を守っていた。
ところが突然本国に呼び戻された上、戦とは無縁のクレセント教国へ派遣されたのである。
理由は簡単だ。帝国第一皇女の外交デビューに際し、「安全確保の為に先遣隊を務めよ」と。
本来であれば偵察を生業とする部隊がその役割を担うはずだが、それは彼らでは対処できない事態を想定しての指令に他ならなかった。
「出ると思うか。こんな所にまで」
「可能性はゼロではない──少なくとも上はそう判断した。帝国民の希望たる皇女様に万が一もあってはならない」
リーシュの問いにセシリアは模範的な回答を返す。しかしその語気には穏やかでないニュアンスが確かに含まれていた。
アルカディアの大半を統べるのが、彼らの属するメタトロン帝国である。皇帝ヨハネスは賢帝として名高い一方、娘である皇女には甘いという風聞が広まっていた。
いかに皇女とはいえ、初めての外交で停戦の仲介を依頼するという重大任務を任せて大丈夫なのかと、側近はおろか民衆にまで心配させる事態となっている。
他の外交特使ならわざわざリーシュ達がこの任に就くことは無かったはずだ。おまけに皇女の護衛自体には近衛騎士団が当たる。
勿論何事も起こらない方が良いのだが、斥候の為だけに駆り出された挙句手ぶらでは、戦地に残してきた仲間に申し訳が立たない。
「ま、リーザも張り切ってるみたいだし。少しくらい大目に見てやるか」
「またお前は──不敬だぞ。皇女殿下を呼び捨てにするなど」
「本人が望んでんだよ。友達だからな」
「友達……」
さらりととんでもないことを言うリーシュにセシリアは一瞬頬を紅潮させたが、何故か最後の言葉で俯き黙り込んでしまう。
それを知ってか知らずか。確認は済んだとばかりにリーシュが岩から飛び下りたちょうどその時、眼下でけたたましく馬の嘶きが響いた。
同時に人が叫ぶ声。轟音とともに大地が震え、突然現れた光に視界が奪われる。
「これは──」
疑念はすぐさま確信へ。慌てたセシリアが振り返るもリーシュの姿は既に無い。
「〈召喚光〉だ! 連中は任せたぞ」
背中越しにセシリアへそう伝え、僅か数歩で丘の中腹まで下ると、そこからリーシュは大きく前方へ跳躍した。
唇をきつく結び女騎士もそれに続く。
「きゃああっ」
「な、何だあれは!」
丘の麓で数名の男女がパニックに陥っていた。通信兵を始めとする非戦闘員達である。
セシリアは彼らを背にする位置へと降り立つと、姿勢を低く保って前方の光に目を凝らす。
何かと目があった──ような気がした。
「アウトサイダー!」
それはまるで、殺意そのものが具象化したように、彼らの前に現れた。