閑話1.第一王子、末弟の事を知る
ヴァルテ王国王宮の中庭は、手前に樹木を切りそろえられたノット・ガーデンが4つに分かれて配置され、その中心に噴水がある。そして周囲を色とりどりの花たちが囲っている。
もちろん庭はここだけではなく、王宮前の左右をちょっとした森位の庭園が広がり、その中には樹木で作られた迷路や東屋もある。
中庭は主に王族や賓客の為に作られており、奥にある温室は支柱が無い半球型で上に行くにしたがって装飾された形となって、頂上には王冠型のモニュメントが添えられている。
中は広く天井も高い為、全面から日の光が注いでいる上に空調も管理されており、一年中穏やかな気候で過ごせる。
フィレデルスが心穏やかに過ごせる、王宮内の唯一の場所だ。
「今日はいらっしゃいませんね」
テラスに降り注ぐ柔らかな光で本を読んでいたフィレデルスに、フィレデルス付きの執事であるイェレが紅茶を出しながら静かな声で言った。
「…………」
誰が、などと聞く必要は無い。
この温室を訪れるのは、フィレデルスの他には一人だけ、末弟のリエトだけだからだ。
ヴァルテ王国第八王子であるリエトの母は、西の辺境であるオーバリを管理する男爵家の出である。
現王がオーバリに静養に行った際に、よりにもよってそこの男爵の一人娘との間に子供を儲けた……と言われているが、いまだにその真偽は定かではない。
本来であれば、その様な眉唾物の信ぴょう性の薄い子供など認めないのだが、そのオーバリの現当主が先の隣国との小競り合いの戦争で活躍をした英雄という事で話がややこしくなった。
現当主オラフ男爵は、騎士としての腕は確かで軍部の者からの信頼は高く、その貴族らしからぬ気質でアスール軍とルベル軍どちらからも人望があった。
そして一人娘が身籠ったとなった時、彼の武人としての真っ直ぐさがそのまま出てしまった。
つまり、王宮に来て大暴れをしたのだ。
隣国まで名の轟く武人を止められる者などそうおらず、おまけに止められる可能性があるだろう軍部の人間はほぼオラフ男爵の味方であったため、彼の要求を叶える方向で動いた。
もちろん他の貴族たちは反対したのだが、軍部全体が相手となっては折れない訳にもいかず、実際王はオーバリでオラフ男爵の娘に手を出しているものだから、王宮は第八王子と三人目の側室を迎える他なかった。
もちろん、いまだに第八王子の存在を疑問視する者は多く。王宮内での立場も弱い。
フィレデルスは第二夫人の子であるため主塔で過ごしているため、本当に数えるほどしか会った事がなかったくらいだ。
周囲もあまりフィレデルスとリエトを近付けさせない様にしていたそぶりがあるが、フィレデルス自体がリエトに興味がなかった。
つい先日までは。
「あはははは」
静かだった温室に外から子供の笑い声が響いた。
「…………」
リエトの他の気配に、フィレデルスから見えない位置で待機していた護衛の騎士が二人、静かにフィレデルスの傍に来て、温室の入口に向かって視線を向けた。
いつもはフィレデルスとリエトの邪魔をしない様に下がるイェレもそこに留まって、訪問者を待った。
いつもの様に小さな体で大きな図鑑を抱えてとてとてと歩いてきたリエトは、フィレデルスの傍らに立つ騎士とイェレを目にとめ一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに天真爛漫な笑顔になってフィレデルスに挨拶をした。
「フィレデルス兄様、こんにちは!」
西部の人間に多い少し黄みがかった肌のほっぺたをピンク色にしてニコニコ元気に挨拶をする弟を見て、フィレデルスはしばしの沈黙の後に応えた。
「…………今日は、ずいぶんと騒がしいな」
咎めるような物言いになってしまった事を、イェレが「あ~あ」と思っていたら、なぜかリエトの方が「あ~あ」という顔をして、後ろの体格の良い男を見た。
それから思い直したようにこちらに向き直し、小さな手をめいっぱい広げて後ろの男に向けた。
「ボクの護衛のベディです! フィレデルス兄様にご紹介したかったので連れてきました」
「…………私に?」
思わぬ言葉に、フィレデルスが言葉少なに驚く。
普段感情をほとんど動かさない主人にイェレも驚く間もなく、リエトが元気よく答え、後ろの男……護衛のベディに自己紹介をさせた。
東部訛りのたどたどしい挨拶は、その男が赤軍上がりだと分かった。
しかし疑問なのは、なぜいきなり護衛をフィレデルスに紹介する気になったのかと言う事だ。
リエトが温室に通う様になって既に数日が経っている。挨拶をさせたいなら初日にすれば良かっただろうに。
「なぜ今頃?」
フィレデルスも疑問に思ったのだろう。当然だ。しかし圧倒的に言葉が足りない。
「なぜいまごろ?」
思った通り、まだ齢5才になったばかりのリエトは、フィレデルスの言葉をオウム返しにして首を傾げた。
僭越ながら、とイェレは口下手な主人に代わってリエトに分かりやすく嚙み砕いて質問をした。
「どうして初めて温室に訪れた時ではなく、今日護衛を紹介なされたのですか?」
イェレの質問に、リエトは青灰色の瞳を丸くして、なるほどといった顔をした。普段表情に動きがない主人に仕えている為か、ころころと表情が変わって分かりやすいリエトを好ましく思ったイェレだった。
一方のリエトは、当然の事の様にとんでもない事を口にした。
「だってあの時はボクに護衛はいなかったですもん。
ベディは今日が初護衛です!」
「護衛が……? いなかった、だと…………?」
フィレデルスが絶句をしている。
エステリバリの王女であった母を持つヴァルテ王国第一王子あるフィレデルスには、王子に護衛が付いていなかったという事実が信じられない事なのだろう。
「それじゃあお前は、護衛もなしに毎日ここまで一人で来ていたのか?」
「はい!」
「………………」
固まってしまったフィレデルスを見ながら、これにはイェレ達も驚いていた。
何と言ってもリエトはまだ5才になったばかりの子供だ。王宮内は広く、側室棟から主塔までは距離もある。さすがに従者かメイドが送り迎えをしているものと思っていたからだ。
フィレデルスからの返答が無いため、リエトは首を傾げ、それから後ろの護衛に目配せをした。帰りそうな雰囲気と考え込んでしまった主人に、イェレは慌てて引き留めた。
「お茶をお持ちいたしますので、どうぞ」
それを聞いて、フィレデルスもようやく顔を上げリエトを見た。
「お前は、こっちに来なさい」
◇◇◇◇
「イェレ、リエトの身辺の事は知っているか?」
膝の上にリエトを乗せてお茶とお菓子を与えていたフィレデルスが、リエトが帰った後にイェレを振り返らずに口を開いた。
イェレは第一王子であるフィレデルスの筆頭執事だ。
当然、他の王子達の身辺についても把握済みだ。
しかしそれをフィレデルスに報告する事は無かった。なぜか。フィレデルス本人が興味を持たず、王位継承権に関わる事を避けていたからだ。
第二夫人の長男、そして第一王子として生まれたフィレデルスは母の故郷のエステリバリとヴァルテ王国の期待を一身に向けられていた。
それが正妃が男子を生んで状況が一変した。
幼き頃から賢かったフィレデルスは、自分の置かれた立場を正しく理解したのだろう。
そしていち早く、王位継承争うから離れようとした。
周囲に心を閉ざし、感情を殺し、兄弟とも触れ合おうとしなかった。
実の弟であるラウレンスに動きかけた感情も、周囲がラウレンスと正妃の子であるオリヴィエ―ロと競わせる様担ぎ上げる事で止まった。
それは学院に行っても変わらず、第一王子に寄って来る者は多いが、その誰にもフィレデルスが心を開く事は無かった。
彼が好むものは、物言わぬ植物と本のみ。
それが最近、王位継承争いから一番遠い幼い義弟と言葉を交わす様になり、少し様子が変わっていた。イェレとしてはその変化を喜んでいたのだが。
「はい、リエト王子の母君であられるテレーゼ様は、リエト王子の教育にはあまり熱心ではないようで、護衛を付けたのはつい先日の様です」
「自分が傍にいるでもないのに、今まであの幼子に護衛一人も付けていなかったのか?」
フィレデルスがその整った銀の眉を顰めたのも頷ける。
「一応世話役にメイドが一人付いておりますが、護衛兼毒見係として、先ほどの者……ベネディクテュスを最近雇い入れました」
「護衛兼毒見? どうしてその二つが一緒になる。護衛が倒れたら意味がないだろう。…………待て。毒見も今までいなかったのか?」
フィレデルスの問いに、イェレは無言で目だけで肯定した。
フィレデルスは決して昼行燈ではない。普通に学院でも優秀な成績をおさめている、頭脳明晰で勘も良い。だからすぐに気付いたのだろう。
「どうして……急に毒見と護衛を雇う事になった」
もう答えは分かっているであろう主人に、イェレはゆっくりと瞬きをした後に口を開いた。
「リエト王子は先日、食事に毒を盛られ、三日三晩昏睡状態であらせられました」
「………………」
毒草ばかり探す幼い義弟。
予防だと、5才の幼子が言っていた。
フィレデルスが学院の長期休暇で王宮に戻ったのは、リエトが昏睡状態に陥るよりも前だ。
だが、知らなかった。知ろうともしなかった。
自分とは関わりのない存在だと思っていた。
本が読めないと抱っこをせがんで伸ばされた手。
膝の上の、温かな感触と重み。
フィレデルスはその全てを思い出しながら、爪が食い込むほどに強く手を握った。
母様の名前がようやく出ました!
明日から1日1回更新になります。