Silent horizon
いつの間に眠っていたのだろう。
瞼を閉じたままの真っ暗な視界の中、指先を動かす。
その指先に触れる感覚がいつもと違う。
寝ているはずのベッドのシーツや布団の感じではない。
「!?」
驚いて目を覚まして体を起こした。
だが、尚更、驚きがやってくる。
体の下で数本の波紋が自分を中心に広がっていく。
それを視線で追いかけてもその先に終点は無い。
「どこ…?」
一面が水面。
見渡す限りに広がるのは水平線のみ。
前も後ろも右も左も、立ち上がってぐるりと見渡しても、
ただひたすらに見えるのは水平線だ。
ふと、気が付く、動くたびに波紋はゆっくりと流れるけれど、
自分の体は一切濡れることはない。
むしろ、水面に立っているのに冷たい感覚も触れているという感覚すらない。
何の音すらない、この異空間。
驚きすぎて頭が真っ白になる。
「珍しいですね、このような場所にどなたがいらっしゃるとは…」
後ろから声が聞こえた。
振り返ると人がいた。
少しだけ離れた場所ではあるけれど、
普通の会話には問題ない距離。
先ほど見渡した時には居なかったはずなのに、その人物はそこにいる。
「見たところ、わけがわからない、というご心境のようですが?」
柔らかそうなその黒髪に、大人びた風貌。
声は静かなのにしっかりと耳に届く。
優しいその瞳が視線を外せなくなる。
「…疲れたのですか?」
脈絡のないはずのその言葉に内心がびくりとなる。
見透かされるように小さな笑みを浮かべられた。
「出来ないこともやらなくてはいけないと、自分に言い聞かせて、
これは誰かのためだと何かのためだと、辛いと思っても乗り越えてきたのでしょう?」
ざわざわする。
思わず自分の胸を抑えた。
「……でも、結果的にあなたが得たものは、“人への恐怖心”だった。
いいように使われてただけだった、
たくさんたくさん人が損をしてしまうことも請け負って、
誰かの願いのままに期待に応えた。
それでも、最終的に自分が困った時に助けてくれる者はいなくて、
……指を指されて笑われて、自分で勝手にやってた事だ、普通ではない。
そう言われるような存在になってしまいましたか?」
だから、そこから逃げ出した。
逃げ出して新しい環境でやり直すと決めた。
「それなのに、人と普通の会話が出来なくなってることに気が付きましたね?」
自分で思っていた以上にダメージが大きかったのか。
人との会話に違和感を感じた。
思っていることと違うように伝わってしまう。
キャッチボールが出来ない。
人の言っていることが理解出来ない。
理解するのに時間がかかってしまう。
「ため息やちょっとした仕草が怖いのでしょう?」
人の顔色や様子を伺ってしまう。
話そうとして頭が真っ白になってしまう。
ちょっとしたミスに何日も落ち込んでびくついてしまう。
泣いて、暴れて、全部を叩き壊したくなる。
「もう嫌ですか?楽になりたいですよね?」
どれほど、長い間それを願ってきたことか。
何度も願って楽になろうとしたことか。
「……それでも、あなたには出来ない理由がありますよね?」
知ってる。
たとえ楽になったとしても、
その後がどうなるのか。
この目で見てきた。
最初は悲しがられる。
何人もの人が訪れる。
そのうちどんどん減っていく。
流す涙も無くなっていく。
一年後には身近ではない人間は笑いながらお酒を飲むのだ。
――――――何も残らない。
「あなたは何度も自分に問うのでしょう?」
それがやりたかったことなのか。
自分が笑っていた時間は何だったのか。
少しでも楽しいと思えることが一秒たりとも消えたのか。
―――――本当に自分は何も出来ない人間で終わっていいのか。
「そして、何度も答えてきたのでしょう?」
わかってた。
何度自問自答しようとも答えは決まっていた。
未だ見ぬ世界が自分にはあることを知っている。
まだ知らぬ自分の存在がある。
ふと、見上げる。
そこには雲一つない、真っ青な空が広がっていた。
綺麗な青にすら気づけずにいたのかと。
「また苦しみますよ?」
わかっている。
でも、その柔らかい日向のような優しい笑顔につられて、
思わず笑みを返してしまった。
「………それでも、あなたは出来ることを頑張るのでしょうね。」
その存在は静かに近づいてきた。
ゆっくりと手を伸ばしてきて頭から頬にかけて優しく撫でた。
「大丈夫。大丈夫じゃなくてもあなたは大丈夫。」
ゆっくりと瞼を閉じた。
きっと、本当の眠りから覚めることになる。
そうしたら忘れるかもしれない。
でも、きっと、選ぶ答えは同じだと思う。
大丈夫。
大丈夫。
END