感情の羅針盤
「なぜ人を殺してはいけないのか?」
少年の問いに、誰もうまく答えられなかった。
……といった感じのシーンをテレビで見ました。
確かにそうですね。なぜ人を殺してはいけないのでしょう。
人を殺したら、殺された人の家族や友達が悲しむでしょう。怒るでしょう。世間だって「あいつはなんてひどい人間だ」と言うでしょう。
けど「人が怒るから、悲しむから、だから何?」と思うほど無感情な方に、人を殺すのは良くないという「感覚」を伝えるのは難しいでしょうね。
私はどちらかというと「意味もなく虫を殺すべきではない」と思う方です。
特に、「不快害虫」という言葉に違和感があります。
殺虫剤でたまに「クモやゲジ(ゲジゲジ)に効く」というものがありますが、クモやゲジは滅多に人を噛まないし、毒もさほど無いらしいです。ゲジはどうか知りませんが、クモは清潔好きで自分の消毒液で体をお手入れしているので、保菌者となることはないそうです。
その子たちを、「見た目が気持ち悪い」という理由で殺す。その「殺害動機」に戦慄するのです。
競争馬でも、走りが速くない子は馬肉にされることがあると聞きました(うろ覚えだし、詳しくないので間違っているかもしれません)。
気持ち悪いから殺す。速く走れない(=成績が悪い)から殺す。
人に当てはめて考えると恐ろしいことですね。現代のホラーです。
人を殺してはいけない理由に「まわりの人が悲しむから」というものがありますが、ではあまり人との接点がなく、まわりへの影響がなさそうな人なら殺してもいいでしょうか。……そんなことないですよね。
人は動物を狩りとか食べるためとかの理由で殺します。
殺される方は怖いでしょう。痛いでしょう。悲しいでしょう。動物たちの仲間が、もしかしたら悲しんでいるかもしれません。
では逆に、動物が悲しむからといって殺すことをやめられるでしょうか?
答えはNOですね。「無駄な殺し」を減らすことはできるでしょうが、ほとんど何らかの理由による殺しなので、感情論のみで今すぐどうこうすることはできないです。
けど「金が欲しくて人を殺した」って人には立派な(?)殺害理由があるのに、これは罪になる。妙といえば妙ですね。
ここまでの話で、もしかしたら「なるほど~」と何か感じてくださった方がいるかもしれません。
けどそれは、私の文章に説明力とか説得力があるからではありません。その方の中に「優しさ」や「感情」があったから反応したんです。
「意味もなく虫を殺すべきじゃない。虫にだって命がある。動物や人の命についても考えないと」
と、このようなことを延々と語ったところで「だから何?」と言われてしまったらそれまでなのです。
人と仲良くなると楽しい。愛を表現すれば愛が返ってくる。そのようなことを言ったって、興味のない人には響きません。
私は、クルクルパーな脳をフル回転させて「人を愛するべき理由」を語ってみようかと思いました。
が、ダメです。どのような理由があれ愛することを強制などできません。「殺しちゃいけない」のは半強制ですが。
人を愛するべき理由を科学的に、論理的に語れる人などいるんですかね? 私は無理だと思うんですが……。無感情な方にも通じるような「愛」の伝え方があるなら見せてもらいたいものです。
……つまり。「愛情」「優しさ」「思いやり」「信じる」「好き」
このあたりは、不安定で不確かな「感情」「感覚」でしかないのです。これらを説明することは不可能だと思われます。
ちなみに私は「怒」「哀」の感情は強いですが、優しさや愛を強く持ってはいません。けれど、だからこそ優しくなりたいんです。
見苦しいことですがその理由は
「人から認められたい」「褒められたい」「優しくされたい」「平穏に過ごしたい」というものです。
感覚的に愛を強く持っていない場合、ここからのスタートになりますね。
けどこのあたりの思いがあれば、「人を殺してはいけない理由」を理解することは容易です。
結局、愛のある人に動物を殺してもいい理由を説き続けても「なぜ? なぜ?」となるでしょう。
逆に愛のない人に殺してはいけない理由を説き続けても、同じく「なぜ? なぜ?」です。
方向性が違うんですね。やりたいことが違います。
方向性が違う人に何かを説明することは不可能です。自分の方向性を定め、同じ方向性の方と関わっていきたいですね。