某国編 第十二話 鎮圧
《アレク視点》
ボクは後ろの女性を見た。
腹部の服が、赤く染まっている。
その赤は下に伸びた楕円形で、中心に向かうほど黒く、外側ほど赤かった。白色の壁もまた血に濡れ、黒色の床には某国兵士の死体ばかり転がっている。
立てかけられた燭台には蜘蛛の巣ができていて、何ともわからぬ幼虫が掛かっていた。火は、ついているものとついていないものがまばらに混在していて、中には床に落ちているものもあった。
炎の煙と焼け焦げた臭いが部屋に充満し、ボクはむせる。
「……【金剛槍】」
ボクは壁の向こう側に金剛でできた槍を作り出し、兄弟の方に放った。
兄弟たちの悲鳴は、壁に阻まれているせいで聞こえない。ただし、槍が命中し、彼らが血を流していることは感覚で理解できた。
その血はおそらく弟の炎に焼かれ、蒸発していることだろう。
「【朗々津波】」
ボクは壁に加わる負荷に変化を感じて、壁を解いた。
白い大量の泡と共に、津波が押し寄せてきていた。波は弟の炎も妹の風も掻き消し、向かってきていた。その魔法は、弟の、さらに弟の──すなわち、エレクの魔法であった。
「水……。水圧で殺す気かしら?」
言下に、彼女は弟に向かって高速移動しようとした。ボクは彼女に背を向け、弟の魔法に目を向けたまま呟いた。
「水じゃなくて毒です。ボクたちは能力によって、『それぞれの範囲内であれば』何でも生成できるので」
「……『範囲内であれば』?」
ラメラはオウム返しに尋ねた。
「ボクは固体。妹は気体。弟の弟は液体。弟はそれ以外」
「制限はないの?」
「ない」
「めっちゃ強いじゃない」
「はい」
ボクは適当にあしらった。
ラメラはコピスを、ボクは杖をそれぞれ構えた。杖の発する茶色い光はこの部屋を照らすほど強くはないが、ボクの手を薄く照らしていた。視界全体が若干茶色っぽく染まっている。
「ま、強いからと言ってやることは変わらないわ。悪いけど、自分の身は自分で守って頂戴ね」
「はい」
ラメラが動いた。
能力を応用して波よりも高く、壁よりも低く跳躍し、壁を蹴って兄弟の方へと向かった。『自分の身は自分で守れ』とは、こういうことだろう。
毒の波が、頭からボクに降りかかる。
ボクは何もしなかった。
「……痛い」
体が溶けるのを感じた。
生まれつき身についていた生存本能が、ボクのまぶたを閉じる。まぶたもまた、毒によって溶け始めていた。失明するのも、時間の問題だろう。
手に、何か触れるのを感じた。
目を開けていないからわからないが、おそらくそれは、燭台であったのだろう。もっとも、もう手を放したから、正体の確かめようもないが。
ボクの体の周りに、透明な膜が生成された。
ガラスとも呼ばれるその物質は優秀で、現代でにおいては窓やインテリア、さらには食器、液晶などに使われている。そした今回の場合、ガラスはぴったりボクに密着して、毒がボクの体に触れるのを防ぐ役割をになっっていた。強酸性の液体などを保管する際にもガラスは有効だから、ボクの体に毒が触れることはない。
瞼は危険物質が去ったのを知り、開かれた。
毒は、部屋中に広がっていた。
いつの間にか階段には金剛の封がなされており、この階の外には一滴たりとも毒は出て行っていない。その封とはおそらく、ボクが無意識のうちに作り出した物であるのだろう。
「ラメラ、生きてる?」
ボクは左右を見回した。
と、すぐに水の上の方で気を失っているラメラを見つける。ぐったりしていて冷たい所を見るに、もう絶命していてもおかしくなさそうだった。遅かれ早かれ、その体は溶けてなくなるだろう。
ボクは彼女を横目に、兄弟たちに近づく。
兄弟たちは、風の玉の中に入っていて、毒には触れていないようだった。三人とも息を呑むほどきれいな金髪で、白い肌である。違うのは目の色と、髪の長さくらいか。エレクは口も他と違っていた。
「久しぶりだね、エレク、スザンナ、ロザンナ。七年ぶりかな?」
「……」
誰も返事をしない。
水中だから言葉が聞こえていないのかもしれなかった。
……そう言えば、ロザンナとはついこの間話したばかりだから、七年ぶりなのはエレクだけか。
ボクの兄弟たちのうち、スザンナの眼がさらに濃い緑に変色していくのを、ボクは見た。顔に、強い哀しみの表情が浮かび始める。その視線は、ボクではなくラメラの方を見据えていた。
なるほど、君は親がいるんだったね。
彼女の顔が悲しみ一色に染まったとき、彼女は杖を振った。
「【涼風一陣・仇の業風】」
これまでのものが前座だったとでも言うのだろうか。風速70mは優に超えそうな激しい風が、ボクを襲った。水をかきわけボクに向かってくる様子は、ビィトの見えない刃に通ずるものがあった。彼が水中で戦ったら、こんな感じかもしれない。
「【ウォール】」
ボクは壁を張ったが、それは一秒と待たずに破壊された。素材には金剛を使ったのだが、呆気なかった。固体じゃない分、いくらでも固くなれるってワケだ。
それは、ボクが何をしようと、彼女の攻撃は防げないことを意味していた。
ここで何をしようが、無駄だろう。
ボクは水を蹴り、数メートル先にいる彼女の方へと泳いだ。すると彼女はボクから離れた。
代わりに接近してきたのは風で、ボクのまわりを覆っている膜に傷を付け、時に穴を空けた。そのたびに毒がボクの皮膚に触れ、ただれるような痛みを残した。
抵抗は無駄だと、十数年前から口酸っぱく言われてきたから、痛みには特に抵抗しなかった。黙ってスザンナに近づくのみである。
「……こんにちは、スザンナ」
ボクは男で、しかも年も一番上だ。
だから、容易に彼女に追いつけた。
壁まで追い詰められたスザンナは、ボクを緑色の眼で見据えた。
「母さんを返して」
「君の母さんは、とっくの昔に死んだよ」
ボクは呟いた。前述の通り、果たしてその声が妹に届いているかはわからない。
スザンナはもう一度、同じことを言った。
「ラメラを返して」
「ラ メラを殺したのは、君達だろう」
『ラメラ』のラとメの間を切ったのは、彼女の本名が『ラ・メラ』であるからに他ならない。
ボクの言葉に、彼女はさらに顔を歪めた。目は下から上にかけて薄緑から深緑のグラデーションになっていて、綺麗だった。
「【涼風一陣・哀風】」
これまでの攻撃で一番の暴風が、ボクを襲った。
でも、この距離じゃボクの方が彼女を早く仕留められる。
「【睡眠槍】」
風にあおられ、流れ込む毒の痛みに耐えながら、ボクは槍を放った。
鋭い悲鳴と共に、風が止んだ。彼女を包んでいた風のベールが消える。
濁った水の中、ボクは妹の左手を両手で握った。