モルブス編 第四話 幻想
≪リョウ視点≫
「……嘘だろ……?」
「……嘘だと思うなら、頬っぺたをつねってみて下さいよ。むにーって。ふふふっ! あはははははっ!」
俺は目の前に広がる光景を前に、唖然としていた。なんだ、何があった。なんでコイツがここにいるんだ。金輪際会いたくなかったあの顔が、どうして俺の目の前にあるんだ。
そして何より、どうして沢山の血がここにあるんだ。
「その右手、とっても無様ですね。右手を鉄にしてまで、貴方は生きたかったんですか! 滑稽……実に滑稽ですよ」
そのペストマスクから、憎悪と悪意に満ち溢れた緑色の瞳がのぞいていた。俺の右手から血が垂れる。
「……ビィト……」
俺は口に出すのもおぞましい、その名を口にした。俺よりもずっと小さな背丈のはずなのに、彼の背中からは隠し切れない程の悪意が滲み出ていた。
「あははっ! ハローですね、リョウさん」
***
──コトの発端は、およそ数時間前までさかのぼる。
「ぐぬぬ……」
「……あれ? どうしたんですか、ベノムさん? あ、10が揃いました!」
俺達は『退屈するといけないから』とあらかじめカルマから渡されたトランプで神経衰弱をしていた。メンバーは俺、ベノム、ボア、そしてなんとドロシーである。根暗にしか見えない(偏見)彼女であったが、意外とこういった行事には参加したかったらしい。
「今度は3だ! 6も揃ったし……」
と言ってるのはかなり順調にカードを揃えているボア。因みに今、一ターン目である。もう既に彼は、十枚ものペアを達成していた。何と言うかこう……とてもつもなく、運が良いのである。
『あれは……透視でも、使ってるのかな……』
(いや、違う。多分運だ。そういう声してる)
俺は横目で、ドロシーの表情を伺った。彼女は特に激しておらず、むしろ冷静沈着である。その何も映さない紫色の瞳からは、『なるほど、この程度か……』と相手を見定めしている獣のような印象を受けた。
まぁ、気のせいかもしれないけど。
「スペードとクローバー……あ、今回は揃いませんでした。次は、ドロシーさんでしたっけ」
「……多分?」
彼女はそう言って、無作法な手つきでトランプを二枚ひっくり返した。
「ハートとダイアのエース……あ、揃ってるね」
何と、彼女まで二枚揃えてしまった。驚愕して彼女の面を穴が開くほど見つける俺に、ドロシーは尋ねてくる。
「もう二枚、引くんだったっけ?」
「……はい」
俺は心の中で『もう引かないでいいと思うよ! これ以上差を広げないで!』と叫んでいた。だが、ルールはルールである。守るものである。破ってはいけない。
「わかった……」
彼女はこれまた無作法な手つきで二枚めくった。今度は揃わない。ボアと違って彼女の運は、良心的なようである。俺は満面に歓喜の表情を浮かべた。
それと対照的に、彼女は歓喜の表情も無念の表情も見せずに淡々とコトを進めた。
「次、ベノム……だったよね?」
「いやリョウだ」
言われて俺はまず、適当な場所から一枚めくった。
「あ、クローバーのエース……じゃぁここをめくれば」
俺はさっきドロシーがめくっていた場所をめくり、難なくそろえた。それからもう二枚引いて、今度は見事に爆死する。
いや、爆死って程じゃないか。
「ベノムさん、どうぞ」
「……あぁ」
カードを引く前から、彼の顔は青白かった。自分は当てられないと自負しているようで、事実彼が引いたカードはキングとクイーンで揃っていなかった。
「お前ら、運が良すぎだ……もっと地道な努力で勝利をつかみ取りたいとは思わないのか。そんな勝利に、価値を見出しているのか……。次、ボア」
彼はさも不服そうな表情で、ボアに順番を回す。
「はーい」
彼が返事と共にカードに手をかけた、まさにその時だった。
「……何かが、変わった」
「どうしたんですか、ドロシーさん?」
ドロシーが、誰にでもなくボソっと小声で言った。その声にただならぬものを感じた俺は、彼女の紫色の瞳を伺う。
次の瞬間には、彼女は立ち上がっていた。
「行かないと」
「えっ?」
俺は頓狂な声を上げた。俺は質問をしようと、口を開く。その口が開ききるよりも先に、彼女は駆け出していた。床から発せられるギィィという音が、今にも壊れてしまいそうな廃墟ならではの印象を与えさせた。
残されたのは、ぼんやりとその残像を目で追っている俺達だけ。0,5秒後、ベノムが鋭い声で言った。
「俺達も追うぞ……アイツが唐突な行動をするという事は、大抵ロクでもないことが起こっている証拠だ」
彼は俺達が付いて来ているのかどうかも確認せず、すぐさま駆け出した。ギィィという音よりも、今回は床を踏みしめる乱雑な足音の方が大きかった。
その音を追って、俺達も走り出す。比較的整備された地下から一階に上がってみても、そこにドロシーの姿は無かった。開きっぱなしのドアを見る限り、外へ移動したのだと思われる。
俺達は迷う事もなく外に出た。地下の煙たい空気から解放され、俺達は走りつつも大きく息を吸う。ボアが言った。
「足跡が残ってますね……こっちだと思います。この先は確か、他のメンバーの簡易的な宿泊施設があったはずですね」
「こういう時は、大抵ロクでもないことが起こるんだ……間違いねぇ」
ベノムが、キリリと歯を噛み締めた。
「ヤな予感がする……もっと……もっと速く走れ! 道なら間違いなくこっちで当たってる。急げ!」
彼は何かを畏怖しているようだった。俺は彼が何を恐れているのかわからず、ただ恐れが伝染するだけ。既に出せるスピードは全て出し切っているのだが、それでもまだベノムからしたら『足りない』らしい。俺は足にすべての力を込めて走った。
「なんだか……変な臭いがしますね。嗅いでいるだけで気分が悪くなるような……」
「流石は【NO,12】だな。俺には全然……ああ、成程な」
鼻を捻じ曲げるような、そんな強烈なにおいが俺達を襲った。嗅ぐだけで頭に霧がかかったような、そんな気分になりそうな(というか実際にそんな気分になっている)感覚である。
「……妙だな」
そう言ってベノムは、例の噴水の目の前で場所で立ち止まった。パッと見た限りでは何もない、昼間に見た時と同じ噴水である。水は枯れ、黴が生えているその姿。今の俺には、全てを失った物の成れの果てに思えた。
そのまま俺達は静止していた。じっくりとあたりを見回しても何も無いように見えるというのに、依然としてベノムは動こうとしない。 不安になった俺はとうとう、彼に声をかけた。
「あの……」
「助けてくれ、少年」
そんな俺の声を遮って、聞き覚えの無い男の声が聞こえた。俺は音源である廃墟の建物群の方を見た。
そこに立っていたのはボロボロな体裁の男性。痩せこけていて、所々から出血しているようである。俺は彼を治療するべく近寄ろうとした。
『待って、リョウ』
しかし俺が彼に近づくよりも先に、———が俺を止めた。俺は立ち止まる。
(どうした? 早く治療を施さないと……)
『なんだかあの人……変だよ?』
言われて俺は、その男性をまじまじと見つめた。そうして、俺は気が付く。
確かに、変だ。いや、具体的に『何が』と聞かれたら答えられないのだが。とにかく、何かが『変』なのだ。真っ赤に燃える瞳、汚れが目立つ白い肌、抜け落ちた髪。全てが、俺に違和感を感じさせるのである。
俺はなんだか不気味になって一歩、男から離れた。その姿を見た彼は、瞳孔を見開いて地の底から響くような声で言う。
「……お前も、私達を見捨てるのか。哀しいかな、この町の悲劇を君は知らなすぎる」
「なんだよ、お前……」
俺はまた、一歩下がった。ダメだ、この人の近くにいては。俺の全身全霊がそう訴えかけてきている。全細胞が警鐘をかき鳴らしている。
「お前に想像できるか? 故郷、家族、友人、そして自分。全てを失い、枯れ果てた我らの気持ちが」
彼は薄汚い手をこちらに向けている。その手と、いつかの白骨死体の腕が重なる。俺はその姿に原始的な恐怖を覚え、鳥肌が立った。
……彼の手が透けて見えたのは、きっと気のせいではないはずだ。
「なんなんだよ!」
次の瞬間、俺は踵を返して逃げ出した。全身から吹き出す汗を置き去りにする勢いで走った。抜刀すべきだとか、背後を警戒すべきだとか。そういった考えは全く頭を掠めなかった。
数秒もたたぬうちに、俺は噴水の古びたモニュメントに衝突して停止した。鈍い痛みが頭に走り、俺は頭を押さえる。
……とても冷静とは言えない状況下で俺の視界は、噴水のすぐ近くに立っている少女を映し出していた。
俺は頭を押さえつつ、彼女の事を見つめた。白っぽい肌と、紫色の瞳。優しそうな顔立ちだが、どこか悲しそうな表情をしているようにも見えた。
俺は頭を押さえる手をほどき、激しく目をこすった。やがて眼を開けると、そこに優しそうな顔立ち少女などいなかった。いたのは狐の面をかぶった、表情の読み取れない少女──ドロシーだけ。
「……どうしたの? 突然駆け出してきて……?」
俺の事を不思議に思っているような声色だった。俺は彼女に向かって言う。
「やっと見つけた……俺達、貴方の事メチャクチャ探したんですよ! どこ行ってたんですか、全く!」
俺はさっきの出来事を忘れ去るが如き勢いで、ドロシーに向かってまくし立てた。それに対して彼女は静かな物で、小首を傾げて言う。
「『どこ行ってた』……? 私は、さっきからずっとここにいるけど……。それに俺『達』って言っても、見た所、貴方は一人だよね……?」
俺がドロシーに背を向けて振り返ると、そこには誰も居なかった。