恵みと綻び その9
セボーク・フットヒルズは、それなりの商家──つまるところ、国内随一の大商会であるバーネスベッグ商会傘下の数ある商家のうちの一つ──の嫡男。
大商会直営の一部門にして国家プロジェクトの一端を担っているバーネスベッグ通信に、単身で丁稚として奉公させられているのだから、その肩にはそれなりの重みがある。
客の一人一人が金貨単位の金銭を動かせる存在と言っていいのだから、人脈を広げ誰かと知己になることができればそれだけで大きな利益。
もちろん失礼があれば損失もとんでもないものになりえるという大きなリスクも付き纏うわけだが、そこは承知の上だ。
このような高級店で十歳程度の子供にやらせてもらえる仕事など、本来たかが知れている。しかし意外にも、或いはありがたい事に、単なる雑用だけでなく婦人客相手のお茶汲みや雑談相手として活躍できていた。
これは彼の実家が宝飾品を商っていることも大きい。
実家から流行りの情報を細目に仕入れて、それを上手く会話に織り交ぜることができた。
身に着けているお気に入りのジュエリーが、下心を感じさせない少年からふと褒められるのだから、ついついチップも弾んでしまう、という寸法だ。
だが今まさに彼の目の前に立ちはだかる強敵に、その“武器”は通用しない。
何せ同じ男児である。
いきなり歓談しろと言われても、何を話せばいいのか。
セボークは困惑していた。
同世代の男子との会話さえ、丁稚同士としての仕事の話ぐらいしかない。まして物心付いているかどうかというような年かさ相手など、何処から手を出せば良いのか。
果実水の入ったグラスが静かに佇み、壁掛けの振り子時計が硬質な音をカチコチと規則的に響かせる。
「え、えーと……」
五歳と言えば、普通の貴族であれば子供部屋に箱入り真っ盛りな歳頃。例外といえばそれこそ王都の一部の私立学園の初等部くらいだろう。
だがドノックの反応から、自分よりずっと幼く見える目の前の小さな子供は、しかし遥かに高い地位と卓越した知性を持ち合わせているのは間違いない、と察することは出来ていた。
“ボープ・サングマ”という家名から、ティースタバレーと同じく辺境伯である、あのサングマの分家。かの地は国内でも高品質の武具で有名だ。その話題がいいのか。
それとも先ほどのネオラが驚くほどの高度な契約魔法や、学園で教授をやっているらしいことから考えて、魔法の話題がいいのか。
どちらにしろ実家の手伝いとここでの丁稚の経験しかないセボークにとっては門外漢。話のとっかかりもよく分からない。相手を立てるような最適な合いの手は難しいだろう。
いっそ素直に「剣も魔法も詳しくないんですが~」を枕詞に話を引き出し、無難な相槌を打って凌ぐのが得策かなどと考えていると、不意にその見た目相応に拙いやや舌足らずな言葉が耳へと届いた。
「たのしー?」
「え……?」
(“たのしー”……?)
セボークは一瞬ミリクが何を口にしたのか、発せられた音の意味が解らなかった。
「おしごと、たのしー?」
再度紡がれた言葉は明確に意味を捉えられる疑問文の形だったが、依然としてその濃紺の瞳からは意思も意図も読み取れない。
「そう……ですね。楽しいと思います。僕は、好きですね」
どういう回答が望まれているのか推測できなかったセボークは、捻る事なくひとまず無難に本心を口にした。
「ふうん」
──無だ。
まるで木の洞に向かって話しているような掴み所の無さ。
「でもせぼーく、いまはたのしそーじゃない」
それはそうだろう。
今までにないタイプの難敵を前に、セボークはまさに苦戦している。
「そっ、それはミリクトンさ「みりくでいいよ」
……ミリクのような方のお相手は慣れてなくって、その、ちょっと緊張しているんです」
「へえー」
まるで未知の機械を丁寧に分解しているようだ。ただし分解されているのはセボークの方である。
苦し紛れに今度はミリクへと尋ね返した。
「えっ……と、ミリク……が、楽しいことってどんなことですか?」
「たのしー、わかんない。どんなかんじ?」
「……“楽しい”とは何か……ですか……」
(つ、つらいです……)
全く会話が広げられない。
哲学的にも思えるミリクの問い。
それは単なる純粋な疑問なのだが、その答えには勿論答えた人間の価値観が反映されたものになる。或いは本心に嘘をついて建前の答えを返したとしても、それは変わらない。
話しているだけなのに、心を切開され詳らかに解剖されているような。
ただの記録。ただの観察。ただの分析。
価値の有無さえ眼中に無い、そんな問答。
「なん、ていうか、その……いきいきしてくるというか……」
「いきいき」
「ええと、満たされていくというか……」
「おなかいっぱい?」
「あはは、お腹じゃないんですけど……あぁ、でも、おいしいものを食べているときの気持ちは、結構近いかもしれません」
「なるほどー」
あ、ちょっと掴めたかもしれない……?
セボークはそう感じた。
「かんじょーはたんいつでじょうたいとみなすにはふぁじーすぎる。もっとじげんがおおきい?
それぞれがれんぞくちでくみあわせもあるから、ふくざつにみえるだけで、もでるとしてはみかくにもちかいかもしれない」
一瞬でわからなくなった。
(うぐぅ~~~~たすけて~~~~)
「つらい?」
「つらいです~~あっ」
セボークは思わず言葉を溢してしまった己の迂闊な口を手遅れながら手で塞ぎ、恐る恐るミリクに視線を向ける。
「そっかー」
軽銀製のストローを口に咥えてグラスから果実水を吸い上げるミリクの表情からは、果実水おいしい以外の感情を読み取れなかった。
「つらいときは、おいしいのたべるといいよ」
「えっ、は、はぁ……」
「ばいたんぎら、おいしい」
「そう、ですね……?」
(“ばいたんぎら”……豪精鰻のこと、だよね)
ティースタバレー領に暮らしていて毎年旬の時期にその名を聞かない日はないぐらいには、豪精鰻は有名だ。
流石にセボークは「ティスタ」の名が付けられる程の最高級品を口にしたことがないが、数ランク格の落ちる豪精鰻の蒲焼ならそれなりの頻度で食べる機会がある。あれは美味しい。
そしてバーネスベッグ通信は領内でも超がつく高級店の一つだ。
食にこだわる客から豪精鰻の美味しいお店の話を聞いたこともあった。
「豪精鰻、もう食べたんですか?」
「かばやきおいしかった。ゆーしょくにもたべる。ぜったいたべる」
今まで空洞と見紛うほど感情も何も感じられなかったミリクの濃紺の瞳から、初めて強い意志が滲むのをセボークは感じた感じた。
(それなら──)
セボークが部屋のドアを軽く開けベルを鳴らすと、普段は僕が呼ばれて色々持ってくる側なんだけど……、と思いつつ、やって来た給仕係にお願いして、今朝お茶請けとして用意されていた物の一つであるティースタバレー特産のお菓子を持ってきてもらった。
――――――
「ゆーいぎなじかんでした!」
「それはそれは、良う御座いました」
ミリクの満足した様子にドノックがホッと安心しつつも微笑まし気に対応する。
(ミリク、ほくほく顔ですね)
(すごいほくほくした顔してるな)
その満足ぶりは、タルザムとライザから見ても本物。ほくほく顔である。
こうしてセボークから売っている菓子店まで教えてもらったミリクは、ティースタバレー銘菓“うなぎパイ”を土産分も含め相当量購入することになった。