青の座 その3
「あの、御方が……教皇様……なのですか……」
救護室の質素なベッドで横になっている、息絶え絶えのバダンタム大司教もとい枢機卿。
只でさえ大司教どころか成人にも見えない彼は、当然、枢機卿にも見えず、辛うじてその威厳をどうにか保っていた礼服を脱がされてしまったことで、安い麻の下着一丁姿となり、辺鄙な田舎の川遊び前の少年そのものと化していた。
一方で、その傍らに座っているナグリは、成長期の頃に丁度食の環境が改善されたこともあり、バダンタムよりも体格がよく、保護者とまではいかないが、兄のようであった。
「バダンタム……猊下よりもお若く見えましたね……」
「ええ、ですがゴパルダラ教皇様は、三十年以上昔に私を枢機の位に叙階してくださいましたが、当時も今と変わらぬお姿でした」
そんな二人を、ベテラン枢機卿アリヤは、孫を見るような優しい目で見守っていた。
エデンベールとジュンパナは執務があるからと、先ほどの叙階の秘跡の後は、どこかに行ってしまった。
「そういえば、バダンタム卿の叙階で目立たれておりませんが、ナグリ殿もそのお若さで大司教に叙階ですから、周囲の目が大変でしょう」
「御心配頂きありがとうございます。ですが、毎晩ベッドで泣き腫らしていらっしゃった先の大司教ほどではありませんから」
「あらまあそれは……」
「ぅ……」
まだ上手く身体が動かないバダンタムは、顔を紅潮させて身悶えするしかなかった。
「私としては、バダンタム卿の優秀な門下生の育て方に興味があるがな。
私の教区で修道士をしていた卿の門下生を、出土品管理の事務方として、二人ほど助祭に叙階したのだが、これが実に速くて正確。何より不正がない。
うちでもあのような人材を輩出できればよいが、これが中々難しい」
今度はセリンボン枢機卿に教え子を誉められて、嬉し恥ずかしと照れながらえへへーと笑顔になるバダンタム。
「……その素朴な人柄も、ポイントなのかも知れんな」
「……そう、かもしれません」
ナグリは微妙な表情で同意した。
バダンタムは、外から見ると辣腕の若き天才に見えないこともないのだが、近くに身を置く者ほど、『頭は良いがどっか抜けている』『この人思ったよりもオッチョコチョイなのでは』と見ているだけでハラハラするようになるタイプの天才だ。
人を動かすのは上手いのに、自分が動くと必ず何らかのヘマをする。
ナグリはそんな彼の近くにいる者の筆頭であり、それはもう頻繁にハラハラさせられている。
(まあ確かに、それが注意力とか観察力の向上に繋がっていないこともないけど……それでもバダ兄にはもう少ししっかりして欲しい……)
食事を配膳すれば自分の分を忘れる上、食べていないことも忘れる。
なんか満足げに見てくれてるから、先に食べたのかと思ったら普通に食べてないし。「なんか美味しそうな料理たくさん見てたら食べた気分になってた」とか素で言う。
流行り病が蔓延したときは、治癒のできる生徒達を引き連れて教区内を駆けずり回り、魔法が苦手な自分自身が病に掛かったこともあった。
まさか大司教クラスの聖職者が、防疫の加護無しでいるとは思えなかったのだから仕方ないだろうが、彼にはそういうところがある。
結局、バダンタム枢機卿は、半日寝込むことになった。
体調が戻ったときには、すっかり真夜中になってしまい、軽食を摂って朝までもうひと眠りすることになった。
「……神よ……神よ、何故私をお見捨てになられたのですか……」
王都の外れ、領と領の狭間のスラム、そこに新たな落伍者が彷徨っていた。
悲嘆にくれる男。
それでも己自身ではなく、天に責任を転嫁している、哀れな男。
これまで築いてきた人脈を、財貨を、地位を奪われた。
正当な手続きの下、奪われた。
既に裁きは終わっていた。
『恩寵』を手にしたい。
その願いは、確かに一時は叶った。
エデンベールが羨んだのだから間違いない。それはこの男が望んだ形のものではなかったが。
元『青』のナーシサスは、その人生を急転直下させていた。
身分が保証されていないとはいえ、辺境伯の近衛騎士団が保護していた子供を拉致しようとした。
しかも異端の浄化に本来用いる人手を用いて、何人か程度の目撃者は、最初からいなかったものとして処理するつもりでいたのだ。
『青』は冠婚葬祭の責任者の頂点であり、人が生まれたことを認め、死んだことを認める。
人口の管理に長じているために、平民や並の騎士ぐらいであれば、金とサイン一つで最初からいなかったことすることなど簡単にできる。
無論『黄』の情報網には容易く引っ掛かるため、負け試合もいいところなのだが、人の生死を司ると増長した彼は、『黄』の目に触れ動かれるよりも早く、帰還の宝珠で『恩寵』を持ち帰ればどうとでもなると思い込んでいた。
人の手に余るという、聖書にも記された言葉の意味を取り違えた彼が破滅したのは、当たり前のことだった。
完全な自業自得。
それでも愚かな男は、これは『天の試練』だと信じて疑わなかった。
邪心がもたらす人災を『天の試練』とは言わないという、信徒にとって当たり前のことすら、彼の目には入らなくなっていた。
そんな男が一文無しとはいえ、斬首されずに済んでいるのは、それこそ一人の被害も出る間もなく根こそぎ解決してしまったからだ。
その早さたるや、サングマ辺境伯が、襲撃と賊の捕縛に加え、『青』への処罰と解任、そして新たな『青』叙階の報せを、全て同時にまとめて耳にすることとなり、その茶番とさえ思える荒唐無稽な内容に、諸外国に騒ぎが伝わるリスクと天秤に掛けて、握り潰すことにしたほどだった。
なにより。
他の枢機卿達は、神託を授かるまでもなく、
『神の恩寵』に手を出した、この男の行く末が解っていたからである。
故に、枢機卿達は、真の意味で『天の試練』に委ねることにしたのだ。
そんな枢機卿の一人、『赤』のジュンパナは、聖堂のテラスで月の光に照らされながら、浅く焼けた金髪を風に揺らしている。
その眼は鋭く、刺すような殺気が教会本部と大聖堂を被膜のように覆っている。
「そんなに張り詰めておってはいかんなあ。もっと自然に見守らねばならんよ、ジュンパナ嬢」
「……エデン爺……アタシの感知に引っ掛からずに動くなよ。心臓に悪いな」
「ナーシサスは愚かだが、我らが居ると解っていて、ここを襲撃するほど馬鹿ではない。それほどの手練れまず居らんのだしな。ほれ、交代、交代。夜更かしは肌に毒じゃぞ」
「アタシの感知すり抜けてきた本人に言われても、まるで安心できねえが……それもそうだな。朝まで任せる」
「老いぼれに任せなされ」
いくら『天の試練』に任せるとはいえ、身内を守るための行動には手を抜かない。
彼らは、『聖堂で監視していれば、なにも起こらない』という神託に従い、過剰にも二人交代で大聖堂の守りを固めていた。
『青』『白』『黒』はあくまで教会に対する貢献度や人脈などから適切な人間を選出するが、『赤』と『黄』は違う。
『五つの恩寵』のうち、只人に扱うことが許された魔法が『赤』と『黄』。
その頂点にいるものは、文字通りその魔法において最強の人間であることを意味する。
火、風、水、土と一般に属性魔法と呼ばれるものから、光や雷、果ては物質を組み換える錬金まで。
物が付随する多くの現象に干渉する『赤』の魔法。
第一の理、光と流転を齎す雷の力。
その頂点である『赤』のジュンパナの強さは、日帰りで国を物理的に落とすとさえ噂されている。
しかし、それ以上に恐れられているのは『黄』のエデンベールだ。
なにせ逃げられない。最初から終わっている。
治癒や通信を行う神聖魔法。害意の拒絶する神聖魔法。
それは極めれば生命や情報、概念を自在に操り、未来すらも手中に納める『黄』の魔法。
第五の理、幻と因果を齎す魂の力。
対人はおろか対国家でも勝ち目がない。そもそも勝負の場が与えられない。
『黄』の頂点とはそういうレベルに至ったと示すことができた人間である。
人間の枠に入れて良いのか怪しい。
まさか、王城の寝室以上の安全性が確保されているなどとは露知らず、新たな若き枢機卿、『青』のバダンタムは、田舎の少年な格好のまま、すやすやと健やかに眠っていた。