天の試練 その7
「あ、教授!」
音も無く突如現れたその姿に、声を掛けつつ自分達も傍から見たらこんな感じでこの場に出現したのだろうかと考えた。
「あぁ、皆さん。着地のときに怪我なんてしなかったと思いますが、いきなり予告無く跳ばしてしまって申し訳ない」
ランビバザーは、跳ばした研究室生の元に自身も転移し、様子の確認と謝罪に来ていた。
確認と言いつつもその台詞からは、不意の転移での着地ごときで怪我するようなヤワな者はいないでしょ、という信頼が滲み出ている。
「はい。リンダ班、四名全員無事です」
「きょ、教授! 教授は大丈夫だったんですか!?」
「試料は採れたんッスか?」
「先ほどの光の柱も気になりますの」
リンダの簡潔な報告と同時に、一年の良心と好奇心が飛び込んでくる。
転移に触れないのは、彼らはそれが帰還の石かミリクトン教授の最新の魔道具によるものであると認識しているからだ。どちらにせよ他所の研究室で扱っていることなのだから、自分達は自分達のやるべき課題に注力するべきだという判断である。
「まるで歯が立たなかったんだよね。完全に遊ばれてたよ。自分の頭を賽の目切りにバラバラにする経験は、中々できるものじゃないし面白かったかな。大丈夫だったか、という点ではミリクトン教授のおかげで結局は“大丈夫になった”ってとこだね」
ランビバザーがこれぐらいの大きさにね、と己の頭蓋や脳髄をサイコロ状にしたという悍ましき説明に、ルラガーンの顔は真っ青になっていく。
「そういうわけで、試料は採れなかったんだよね……凄く残念だよ……次採れる機会があるとも思えないし、本当に残念だ……」
間違いなくこの場の誰よりも、その点についてランビバザーは凹んでいた。
「教授でもッスか……それはドンマイッスね……」
それにサムザーが共感できるのは、そういう類の人間が志望してこの研究室にやってきているのだから、ある種当然と言える。
「光の柱についてはノーコメントで」
「えっ」
順番的に次は自分が情報を得られると思ったリッシュは、ランビバザーの予想外の返答に言葉を詰まらせる。
「……何故かお伺いしても?」
「うーん……あの黒いヤツとその眷属みたいな何かは、さっきの光で完全にこの世界から追い出された。でも、あの光自体が何だったかと尋ねられると……さっぱり分からない。いや、あの黒いのも何だったか分かんないんだけどね。
ただ、そうだなぁ……何も伝えないのも納得がいかないだろうから言ってもいいけど、多分聞いても納得できないと思うよ?」
そんな教授の言葉に、しかしリッシュは躊躇わない。
目撃者からのヒアリングもまた、現地調査の基本だからだ。
「大丈夫です、構いません。あの光の中では、何があったのでしょうか?」
その言葉にランビバザーは微かに微笑み、あれを表現する適切な単語を探した。だがどうしても、稚拙か抽象的な名詞しか浮かばない。
諦めたように。降参するように。
表現を吐き出した。
「……天使……いや……神が、いたんだよ」
ホテル・カリジョーラ。
ティースタバレー辺境伯領中央領都スラックレリにある、貴族御用達の高級ホテル。
そのノーブルスイートルームの一室、広く柔らかなベッドの上でミリクが静かに胸を上下させている。その頬はほんのりと赤い。
「体温は徐々に落ち着いてきていますが、まだ少し高いですね」
「水気の多い果物を用意させようか?」
「そうですね……一度火を通してから冷まさせたものをお願いします。あとは身体に負担の少ない食事の用意もお願いしましょう。私はひとまず“単純補液一号”を調製して、ミリクに経口投与します」
そう言いながらライザはトランクケースから使い慣れた器具や薬瓶の数々を手際良く取り出し、備え付けの水差しの水を丸々『聖別』して作った聖水に、数種の塩と糖を加えて素早く補液を調製する。
「今回ばかりは、いつもは杞憂に終わるライザのその職業病に感謝せざるを得ないな」
「杞憂に終わるのが一番なのですけどね」
使い慣れた携帯治癒器具一式を常に手の届く場所に用意するのは、当たり前だが貴婦人のやることではなく、治癒士としての癖だ。無いと落ち着かない体になっている。
そんな彼女が調製した補液を薬呑器に入れていると、シーツがもそりと動く。
「ミリク、大丈夫か?」
ぽわんとした目のまま、ミリクはコクリと頷く。
《拝領した『神権』による権能『切除』を行使し、〈無貌〉の存在の除去は無事完了しました。現実性侵襲により不安定化・改変を受けた聖霊の創造から魂魄の物質の一部領域は、権能『創世』の限定行使で再構成し修復済みです》
「あー、いや。世界は救われた……?のはとてもありがとう。それよりミリクの体は大丈夫なのか?」
《権能行使と神性降臨の過負荷により、現在パフォーマンスが38%低下しています。こちらは自動修復により復旧されます。また、『使徒』機能実行に伴い急速圧縮・退避した魂を器に再展開、エラーチェック中です。現在、処理率87% 完了まで791秒...》
「これを飲んで下さい」
ライザが会話に割り込み薬呑器の口をミリクの唇に宛てがって、ゆっくりと傾けていく。流れ込む補液を、ミリクの体は素直に飲み込み受け入れた。
「えーと、それまではギャバリーが、主人格、ということでいいのか?」
《解離性同一性障害、俗に呼ばれる多重人格とは異なる現象ですので、主人格という表現よりも、精霊による憑依と言った方が適切です》
「あぁ、魂から別物なんだったか……ミリクは、無事なんだな」
《はい》
「そうか。ならいいんだ。ありがとう」
タルザムは、この時期で水分が多めといえば、梨か、蜜柑辺りがいいだろうか、と適当なホテルの使用人を呼び付けようとした。
「……私も、ギャバリーに一つ尋ねたいことがあるのですが……」
タルザムは、病み上がりの、しかも正確にはまだ回復しきっていない、そんなミリクの状態を理解していながら質問するなどライザにしては珍しい、と思った。
同時に、今使用人を呼ぶのは危険か?と、逡巡した。
「“専用の『司教杖』とは違う”と確か仰っておりましたが、貴方がたの、その……バリエーション、と言えばよいのでしょうか。そういったものが他にもいるのですか?」
ミリクが姿を消す直前、ギャバリーはそのようなことを言っていた。
タルザムは久しぶりに寒気がした。
聞いていた方がいいだろうが、聞かなければよかったと思うやつだと、直感していた。
《神を降ろし、その意向を正確に賜る目的で製造された『聖者の本棚』と『司教杖』という、『賢者の本棚』と『栞の杖』から分岐した祈祷業務向けプロダクトがあります。安定性と容量確保のため、『賢者の本棚』と違い『聖者の本棚』本体には魂は搭載されていないほか、各種秘蹟は神性分霊制御となっており、人間側からの強制操作は不能となっています。
これ等は、かの大戦にて神殿と共に多くが破損し、残ったものも脆弱性を突いて神性以外の存在を降ろし兵器転用した結果、全損していると記録されています。
現時点において利用可能な『聖者の本棚』本体は存在しません。
なお、『司教杖』はキャッスルトン王国内に一つ残っています》
「……え?」
「……」
タルザムは、やはり聞かなかった事にならないだろうかと、瞑目していた。
昼下がりの白き円蓋の下、静謐に満たされた空間の奥。
幾重ものベールを越えた先の細い通路を渡ると、小さな一軒家を思わせる間取りの部屋がある。
一見すれば家具は素朴で質素。
しかし徹底された機能美、極限まで洗練されたフォルム、動線の考え尽くされた無駄のない配置は、見るものが見れば恐ろしくて触れる事すらできない。自分はこの場所に在って良い存在ではないと、本能的に身が竦んでしまう。
それは一つの完成した芸術作品。
そんな人智の極致のようなリビングに、二人の姿があった。
「聖下。かの『神の恩寵』により、危機は完全に去ったとみてよろしいものと、畏み畏み白し上げます」
「……あぁ、僕も視たよ。いつも御苦労」
淡く紅色を滲ませる澄んだ磁器の様な唇を離れたティーカップが、音も無く卓上のソーサーに置かれる。
色彩の希薄な部屋にあって、その紅茶の深く鮮やかな赤は際立ち、熟した黒ブドウを思わせる芳醇な香りは力強くも主張し過ぎることなく、鼻腔から緩やかに世界へと立ち上がっていく。
「過分な御言葉でありますれば、まことに恐悦至極でございます」
ペールイエローの聖職平服を纏った老人が、恭しく跪き頭を下げる。
「……」
「……」
もう一人の少年が椅子に座ったまま睥睨し、その虹色に煌めく銀髪を揺らす。
「その口調もうよくない? いや、別にいいんだけどね。雰囲気とかそういうのも分かるけど、ちょっと聞いててまどろっこしいっていうのかな。普通にしゃべってくれる?」
「ほほほ。聖下がそう仰られるのでしたら、そう致しましょう」
意気揚々と立ち上がり笑うのは、エデンベール枢機卿。
そして、机に肘をつき、頬杖を突いてため息を吐く少年とも少女とも思える容貌は、他でもないこの居室の主。ゴパルダラ教皇その人だ。
「はぁ~、教皇飽きたなあ~」
「どうか、そう仰らずに。せめて先短い老いぼれの目が黒いうちは、慈悲深きお導きをお願い致します」
「……どの口が言ってんだか」
再び口に豊かな果実香を含み、ため息を吐く。
「たっく。こんなことなら、とっととくたばっておくべきだった」