天の試練 その5
「“山颪”」
微かに煌めく銀糸が空を駆け、生い茂り視界を妨げる木々を、その葉に擬態した無数の仟翠蟷螂を、正気と意識を失った亡命者を右足で掴んでいた飛竜のように見えるなにかを、次々とプリンのように容易く切り裂いていく。
だがそれは挨拶のようなものに過ぎない。
「『砕け、“蒼穹に赫く燃ゆる虎よ”』」
その杖の指し示す先の景色が歪み、空間を雷や霜に似た──だが現実にはあり得ない──黒い罅が疾走ったかと思えば、周辺から不快な呻き声と共に暗紫色の粘性のある液体が一瞬吹き出し、広がった罅がその景色もろともひっくり返り、虚空へ消え去る。
そう、そこにはリンダさえ気付けなかった何かが潜み、そして振るわれる杖が生み出した罅の鞭は、不可視不定形な見えざるその身体を極小に千切り潰し、尽くを鏖殺した。
「おやおや? “鳥”はまだしも“狩人”を狩るとは、ヒト風情には随分強い力ですね」
「教授!!」
「試料採ってる余裕もないなあ。残念ですね──『跳ばせ、“蒼穹に赫く燃ゆる虎よ”』」
「?!」
認識すらできていなかった未知の何かを殺した、さらなる未知の魔法を放つ凶刃を突然向けられた研究室生達は、しかし抗うことも許されず、狼狽する間さえ与えられない。
若者達は、全員揃って煙のように跡形も無く、この場から掻き消された。
「取り敢えず、君だけでも標本にしたいんだけど、ちょっと切ってもいいですか?」
「ンッフフフフフフ!! 初対面でそのような面白いこと言うなんて、惜しいですねえ。貴方が器だったら、もっと愉しかったろうに」
そうして残ったのは二人。
凶気に満ち溢れる男、ランビバザー・ティースタバレーと、狂気を撒き散らす漆黒の人型実体だった。
「?! っと」
「ぅあっ!」
「グェ!?」
「あら?」
景色は人形芝居の背景のように切り替わり、突然高さの変わった地面へ人形達は叩きつけられた。と言ってもその程度で怪我するほど、彼らは無能ではない。
半ば意図さえ感じるように、サムザーとルラガーンはリッシュの下敷きにされているが、リンダは何事も無く傍らに着地して冷静に周囲を確認する。それは驚いていないという意味ではないが。
「丁度良いクッションがあって助かりました」
「早くどけリッシュ」
「あらあらそんな、勿体無い。サムザー、貴方クッションの才能ありましてよ?」
「うっっっぜ」
それでも禁句を口にしない辺り、心遣いのできる紳士なのかもしれない。そんな二人が心から罵り合っているのはさておき、ルラガーンはもぞもぞと這い出て辺りを見渡し、視界に入った凛とした脹脛のリンダに尋ねた。
「あの、リンダ先輩。ここ……最初の集合場所ですよね?」
「そう、みたいね」
「帰還の宝珠、でしょうか?」
「よく知ってるわね。でも……どうかしらね」
そう口にしながら、リンダは確信を持っていた。
(帰還の宝珠じゃない。じゃあミリクトン教授の魔法? でも遺物の空間移動の再現なんて既存の魔法の枠組みじゃ……)
何故なら帰還の宝珠を使ったこともある程度には、ランビバザー教授と共にあちこちへ足を運んだ事のある彼女は、それを使うための条件が満たされていないことに気付いていた。
一つ、帰還時、宝珠に直接触れて魔力を流し込まなければならない。
二つ、帰還地点には通称“帰る家”と呼ばれる別の遺物を敷設し、そちらも魔力を充填し続けなければならない。
三つ、帰還の宝珠には事前に帰還地点となる“帰る家”を登録しておかなければならない。
ここには馬車やテントはあるものの、肝心の“帰る家”が無い。
“帰る家”は簡単に敷設も移動もできる代物ではない。それこそ城塞級の建造物に専用の部屋を設け、さらに巨大な魔石を用いた“帰る家”専用の魔力供給設備を併設させて用意しておくようなものである。
当然と言えた。
とはいえ、領地を持たない或いは安全な領地しか知らないような、経験も浅いランビバザー研の一年生が、専門外である遺物の情報に精通していなくても仕方が無い。
名前を知っているだけでも上等なのだ。
「俺はむしろ、あの場で魔法が撃てなくなったのの方が意味分からないっスね」
「サムザーに協調するのは大変に癪ですけれど、確かに魔力はあるのに制御できなくなっていました。いえ、手を離れた途端に魔法が壊れましたわ……あれは一体」
「ふ、二人ともあの状況で魔法撃とうとしてたの!?」
サムザーとリッシュの判断は、何もできずに死ぬよりは良いのだろうが、それでも少々短絡的だ。
リンダは実際に遭遇するのは初めてだが、その現象を知識としては知っていた。
一定以上の強大な魔力を持つモノ──それは人も人ならざる者もだ──は、魔法を使わずとも、“場を支配する”ことができるという。
魔法による現象が手を離れた途端に、場を支配するモノにその制御を塗り潰されて消えてしまう。
今回に限ってはその理屈は間違っているのだが、どちらにせよ起こる現象は同じようなものだ。
故にあのような正体不明の力量を持つ相手であれば、投擲・放出系の魔法ではなく身に纏うような魔法が望ましい。防御や高速移動、自身に対する力魔法だ。持っているなら魔銀のような魔力伝導性の高い金属で構成された魔道具を用いるのもいいだろう。
そして、これが肝要なのだが、その魔法を以て全力でその場から離脱する。
倒す必要はない。むしろ倒してはいけない。
彼らの領域に立ち入っているのはこちらなのだ。逃げなければいけない程の存在を相手すれば、周囲の生態系が無事では済まない。
あくまで観察と研究が目的なのだから──
そんなリンダの思考を断ち切ったのは、
一年生達の議論を停止させたのは。
天から突き刺さり瞬く閃光と、全身を叩いて内臓を揺さぶる轟音。
そう、こんな風に。
環境が、無事では済まないのだ。
(ただ居るだけで、いや、認識しているだけで、かな。“生命を保つ者”が魔力消費している。呪いに近い能力があるのかもしれない。意識を混濁させるような類かな)
意識が回復する様子の無い亡命者を目の端で確認しながらも、魔銀鋼糸による破壊の嵐の手を止めない。
「──っと」
突如、ランビバザーの首が飛び、そのまま頭部だけ角切りになる。
輪郭のずれる視界、輪郭の崩れる頭蓋。
サイコロ状の脳髄の一部が黒い男の手に掠め取られ、しかしランビバザーが事前に掛けていた力魔法の運動量で逃れた自身の胴へ、“生命を保つ者”がその頭部を完全に健全に復元する。
「フフフフッ、自分で自分の頭を切り刻むとは。中々に人外じみたことをしますねぇ」
「確かに中々ない経験です。今だけの特別サービスですよ」
パチンっと、素早く殆ど空になっていた杖の下部を入れ替える。
ランビバザーは直感的に、身体が一つに繋がった状態でこの男に触れるのは危険であると確信していた。
詠唱も予備動作も杖の向きも無関係に、不意に黒い罅が駆け巡る。そんなものさえ、事も無さげに避けつつ響くのは嗤う声。
「そんな出し惜しみせずとも、一度起動すればそれを動かすのに言葉や動作を必要としないのも、他にもバリエーションがあるのも、私は知っていますよ」
罅とは別に、初めて放つ攻撃の数々。空間そのものを裂いて割り込ませる不可視の斬撃、無数の微小空間をランダムに入れ替え一瞬で挽き肉にする粉砕。
人の形の暗黒は、それら全てを子供とのごっこ遊びのように難なく回避し往なす。
しかし──唐突にそれは止まる。
目も鼻も口も均一に黒い頭部が青空を向く。
「あぁ、もう時間切れですか。もっと遊びたかったのですけどねぇ」
純白の光が堕ち穿ち、全てを塗り潰した。
※ランビバザーさんの正気度は普段と変わってません。